ナイアーラトテップ
いつしか道の中央に触手が集まり、人の姿を形作っていた。
人で言えば腕にあたる部分から伸びる無数の触手が、辺りの住宅の窓ガラスを突き破って侵入し、その中にいる人間を襲い始める。
魔物は窓辺から人間を掬い取るようにして取り出すと、触手で締め上げ、果実を絞るかの如く次々とそれを破裂させていった。
春樹の右腕を覆い隠してしまうほどに絡みついている触手が、凄まじい力で彼を引きずり続ける。
どうやら行く先は本体と思われる触手の集合体の元らしい。
姿勢を低くして地面にかかとを押し付けながらそれに堪えていた春樹であったが、彼の脚力や耐力をもってしても一向に止まらない。
ついには他の触手が足や胴、首にまでも絡みついて、骨の軋む音が聞こえるほど、強烈に締め上げ始める。
(二人は逃げ切れたみたいだな。池本、ありがとう。おかげで―――最後の悪あがきができる)
春樹は震える左手を右肩に添えると、絞り出すように声を漏らした。
「わ……が……みぎうで……に…宿れ。―――赤鬼」
途端に、彼の右腕を覆っていた触手の束が細切れになってそこら中に飛び散り、黒煙を上げて消えていく。
姿を現した彼の右腕は禍々《まがまが》しい深紅の光を放ちながら赤々と燃えていた。
その腕の側面から飛び出している鋭利なエラは、金属光沢を纏ってぎらついている。
いや、肩から指先に掛けて、腕全体が金属の鎧を幾層にも纏っているかのようだった。
春樹が腕を一振りすると、体に巻き付いていた触手の全てが一瞬のうちに切断されて蒸発してしまった。
紅く揺らめく春樹の眼光はすでに人のそれではない。
そこら中に張り巡らされていた魔物の触手が、それに怯えるかのように、虐殺をやめて本体へと集まり始めていた。
春樹の進行を拒もうと、その塊から次々に触手の束がレーザー光線のように真っ直ぐ伸びてくるが、彼の右腕はそれを易々と跳ね除け、斬り刻み、引きちぎっていった。
「す、すげえ……」
達也は民家のブロック塀の内側に身を隠しながらその様子を覗っていた。
途中まで麻衣をひっぱってはいったものの、ついに彼女が腕を振りほどいて春樹の元へと駆けだしたため、達也もそれを追ってもどってきていたのだった。
「怪物の方が怯えてる……?」
達也の隣で同じように顔を覗かせながら、麻衣も一緒になって目を丸くしていた。
達也はIFを開くと魔物解析のアイコンに触れた。
『ナイアーラトテップ 討伐推奨レベル:19。クトゥルフ神話に登場する邪悪な神。ニャルラトホテプとも呼ばれる。人体に入り込み、その臓器を食い破って成長する。特技:触手プレイ Drop:ポーション/???』
「レベル19!? 天羽ってレベル10くらいだったよな……いや、それ聞いたときも驚いたけどさ」
「圧倒してる……。でも私、天羽君のあんな怖い顔見たことない……」
彼の額からは巻きあがった角が突き出しており、むき出しの牙の隙間から吐き出す息は荒々しく、その咆哮は獣のようだった。
鬼。
今の彼の様子を形容するのにこれ以上適した言葉はきっと無いのだろう。
その鬼は、おもむろにアスファルトの地面に右手を突き立てると、水面でもすくい上げるかのようにそれを抉った。
高速で撃ちだされたアスファルトの破片が音の壁を幾枚か打ち破り、美しい波紋が宙にいくつも広がっていく。
それを浴びた触手本体のあちこちに風穴が開き、遅れた風が慌ててそこを吹き抜ける。
体の大半を失ったナイアーラトテップの側へとゆっくりと歩み寄る春樹。
そしてその右腕を大きく振り上げた。
「ウォオオオオオオ!」
けたたましい咆哮と共に振り下ろされた右腕は、轟音と共に地面を大きく、深く抉り取りってしまい、その後には何も残されてはいなかった。
「やりやがった!天羽のやつ!」
「天羽君!」
ゆっくりと上体を起こした春樹の背中へ向かって二人が駆けはじめる。