彼らの帰路⑤
(くっ、収拾がつかなくなった)
春樹も成す術なくその場に立ち尽くす。
しかし、怒声罵声とは異質な、純粋な悲鳴が突然に住宅街に響き渡ると、その場のすべての体が凍りついた。
「な……なんだ……今の声……」
誰もがその目だけを泳がせながら辺りを見回していた。
凍り付いた時間の中でただ一つ、ゆらゆらと動く人影があった。
西中悟だ。
自宅に帰ったはずの西中悟が、ふらふらと体を左右に揺らしながら春樹たちの方へ向かって歩んでいた。
そして突然膝を折ったかと思えば、アスファルトへと顔面から崩れ落ちる。
「悟!どうしたんだよ!?」
達也の2人の取り巻きが彼の元へ駆け寄ると、その体をひっくり返して顔を覗きこむ。
彼の黒目は瞼の端に張り付くようにして痙攣し、顎の重みに負けて開いている口からは多量の唾液が頬を伝って落ちていた。
達也は体の上に覆いかぶさっていた住民を蹴り飛ばして飛び起きると、悟の元へと飛びついた。
「悟!しっかりしろよ!」
呼びかけても当然のように返事はなく、溢れだす自身の唾液で溺れそうになっているのか、ごぼごぼと泡を吐いている。
それからことが起こるまで、ほんの一瞬のことだった。
――――口だ。
悟の開いた口の喉奥から飛び出したそれは、取り巻きの一人の首へとあっという間もなく巻き付いてしまう。
悲鳴を上げることも許されないほどに深々と首に食い込んだ大量の触手が、彼の体をそのまま高々と周囲の屋根より高く持ち上げてしまった。
達也の開き切った瞳孔が、はるか頭上でばたばたともがく仲間の手足を、じっと見つめていた。
そして、いつしかもがくことすらやめたその体が、体だけが地面に落ちてアスファルトを真紅に染めた。
「何してる! 下がれ!」
春樹が達也を抱えて後ろに飛びのくと、間一髪、達也を掴み損ねた触手が恨めしそうに地面を這った。
しかし、取り巻きの最後の一人へと同時に発射されていた触手は、手足に巻き付いて彼を捕えると、唇を力任せにこじ開けてその口内へと潜り込んでいった。
捕えられ、嗚咽を漏らしながら痙攣する彼の体がやっと解放されて地面に落ちると、その体を突き破って噴水のように無数の触手が飛び出す。
春樹は完全に放心してしまっている達也からそっと手を放すと、大きく息を吸い込んで力の限り叫んだ。
「皆! 走れ! 走るんだ!」
その声にいくらか正気を取り戻した生徒や住民たちが、蜘蛛の子を散らすようにして一斉に駆け始める。
しかし、異常なまでに増殖した触手の一本一本が逃げ遅れた人々の足を絡め捕り、それを凄まじい力で振り回す。
振り回されてアスファルトやらブロック塀やらに激しく叩き付けられた人々の血しぶきで辺り一面が赤に染まり、地獄のような景色に変わる。
「池本!!鷹野さんを連れて逃げてくれ!」
春樹は後ろで放心している達也に声をかけるも、彼の足はとっくに恐怖に支配されて動きはしなかった。
麻衣も同様に、飛び散る肉片が制服を汚しても、瞬きをすることすらなく春樹の隣で茫然と立ち尽くしている。
そしてついに、一本の触手が狙いを澄まして麻衣の腹部へと矢の如く飛んできた。
「くっ」
春樹が麻衣をかばって立ちふさがると、触手は遠慮なく春樹の腕に巻きついて、凄まじい勢いでそれを引っ張り始めた。
「あ……天羽君!」
麻衣はそこでやっと我に返ったらしく、ずるずると引き寄せられていく春樹の制服の背を引っ張り始めた。
「鷹野、いいから早くいけ! 池本ぉ! 頼む、動いてくれ!」
春樹の叫びが届いたのか、ここで達也がやっと意識を取り戻す。
達也は鷹野の手を取ると、無理やりに春樹から引っぺがして走り始めた。
「天羽!……わりぃ」
池本は春樹が助からないであろうことを察して、最後の別れを口にする。
春樹は少しだけ振り返って、涼やかに笑った。
「天羽君! いやぁ!」
泣き叫ぶ麻衣が必死に春樹へと手を伸ばすが、達也は「無駄にするな!」と泣きそうな顔をしながら叱咤した。
そして麻衣の手を力いっぱいに引っ張りながら無理やりにその場を後にしたのだった。