彼らの帰路③
「我が十指に宿れ、ガルム」
組み合わせた手の平に向けながら静かにそう呟く春樹。
直後、彼の両手の指先が、黒炎を纏って暗く輝き始める。
「指が、燃えてる……?」
達也と3人の取り巻きたちは、その現象をどう解釈すればいいのか分からずに、ただ茫然としていた。
春樹は走り出す。
スプリガンはそれを迎え打つべく大降りに拳を振るが、振り切るころにはすでに懐に潜り込んでいた春樹が、不気味に輝くその指先に力を込める。
そしてスプリガンの脇腹めがけて掌を撃ち込むと、力任せに肉を掴んだ。
折り曲げられた指先はまるで獣の牙のように、めりめりと音を立てて脇腹に喰い込んでいく。
「Poison bite」
春樹がそう小さく呟くと、指からほとばしっていた黒炎がスプリガンの体の中へと吸い込まれるようにして消えていった。
直後、スプリガンは膝を折って頭を地面にこすり付けてもがき苦しみ始める。
引っ掻いたアスファルトが抉れ、食いしばった歯がぎりぎりと音を立てた。
春樹はそれを見て胸をなで下ろすと、背を向けて達也たちの方へと歩き始めていた。
「お、おい天羽。よくわからねぇけどチャンスじゃないのか? いいのか放っておいて!」
「んー、そうだな」
春樹は振り返って、苦しそうにもがくスプリガンをちらりと見た後で、達也たちの側に腰を下ろしてしまった。
「しばらく放ってみようか」
そう言って春樹は、体育座りの格好になると暇つぶしにとIFを立ち上げた。
2分ほどが経過した頃には、他の生徒たちも恐る恐る彼らの側にやってきた。
その視線の先では、スプリガンがすっかり衰弱した様子で地面に突っ伏してしまっていた。
「そろそろかなぁ」
春樹はゆっくりと立ち上がると、地面に転がっていた達也のゴブリンナイフを拾い上げる。
それから無警戒にスプリガンの側まで歩いていくと、「ごめんよ」といって首筋にナイフを突き立てる。
抵抗することもなくあっさりととどめを刺されたスプリガンの全身から黒煙が立ち上り始め、その巨体はあっけなく風に紛れて消えてしまった。
『アモウ ハルキハ レベルガ アガッタ』
街路樹が立ち並ぶ狭い歩道をそろそろと歩く40名の生徒たち。
スプリガンのもたらした恐怖が彼らの足取りを一層重々しくしていた。
列の中央辺りを歩いていた春樹が前方に目をやると、列から外れた達也とその取り巻きたちが何やら神妙な顔をして春樹が来るのを待っているようだった。
「天羽、その……悪かったな」
春樹が目の前まで来ると、達也は栗色に脱色された髪の毛をくしゃりと握りながら、ばつが悪そうに呟いた。
「……兼光先輩に、できるだけのことはするって約束したからな。放っておいて君らに死なれたら俺が怒られる」
春樹は歩みを止めて彼らに向き直ると、腰に手を当ててからわざとらしく溜め息を吐いて見せた。
「そうか……会長には敵わねえな」
「そうさ。敵わない」
春樹が瞼を閉じてほのかに微笑むと、達也と取り巻きたちも釣られて表情が緩む。
その直後、春樹は突然に眉間にしわを寄せながら奥歯を噛みしめた。
「でも、君らに一つだけ言っておくぞ」
「わ、分かってる、もう勝手な行動は――――」
達也が春樹の言葉を先回りしてそう言いかけた時だった。
「朱音が俺の保護者なんじゃなくて、俺が朱音の保護者だ!」
(怒っているのはそこなのか!?)
額に汗する達也たちをよそに、彼らの会話を耳にした女子の一人が通りすがりにクスリと笑った。
「でもまあ、皆の先頭を歩いてくれるのは正直助かってたよ、今後も頼まれてくれないか?」
春樹がそういうと、達也と取り巻きたちはお互いに顔を見合わせたあとで嬉しそうに頷くと、列の先頭を目指して閑散とした車道を走り始めた。
春樹は小走りに最後尾へと追いつくと、そのままのろのろと歩き始めた。
後ろは自分が守る。
というのは建前で、列の中央まで戻るのが面倒だったというのが本音。
「天羽君、凄かったね。あんなおっきなモンスターを独りで倒しちゃうなんて」
唐突に振り返ってそう声をかけてきたのは、達也とのやり取りを見て笑っていた女生徒だった。
「いやいや、正直怖かったよ」
春樹が自嘲気味に目を細める。
「でも良かった。池本君たちも分かってくれたみたいだし」
彼女は春樹に歩を合わせて隣にくると、無邪気な笑顔を彼に向けた。
「東組は天羽君がいるから安心だぁ」
続けてそう呟きながら、彼女は曇天を見上げて微笑む。
「どうかなぁ」
流石に気恥ずかしくなって、春樹は急いで相槌を打った。
「あ、ごめんね。鷹野麻衣です。今後ともよろしくね」
麻衣が思い出したかのように畏まって頭を下げると、後ろで一つに結んでいた長い髪の毛が首筋を伝わって垂れ下がる。
「知ってるさ。一年の時に一緒のクラスだったし」
「あはは。でも、話すのは初めてかもだから一応ね」
そう、二人は一年間も一緒のクラスにいたのに、一言も言葉を交わしたことがなかった。
それは麻衣にとってそれは稀なことだったが、春樹にとってはよくあることだった。
麻衣は持前の無邪気さとさっぱりとした性格から、皆に愛されていた。
なにより顔立ちが可愛らしく、男子からの評価が非常に高い。
一方で春樹は、男子とはそこそこに話をするものの、女子と話すことなど業務連絡と三島朱音以外にない。
皆に嫌われているわけではない。一見すれば平坦で、可もなく不可もない存在に見える。
だが、感情がやや希薄な彼は、そもそも友達という存在に憧れもなく、一応不快にさせないようにふるまっている、という意識がどこかにあった。
それを見透かしてのことか、彼を避けようとは思わなくても、積極的に関わろうとは誰も思わなかった。
それが異性ともなると、なおさら彼に接する機会がない。
もちろん朱音は例外ではあったが。
「けど、さっきのはちょっとウケたかも」
麻衣が口元に手を当てながらクスクスと笑う。
「ん?なにが?」
「ほら、俺が保護者なんだーってやつ」
「ああ……」
「天羽君もあんな風に怒ったりするんだなぁって。ほら、天羽君っていつも冷静で、ああいうところはあんまり見たことがなかったから。あっ、別に悪い意味では言ってないよ?」
「忘れてくれると助かるよ」
ため息交じりに春樹が項垂れると、麻衣は満足そうにまた笑った。