パニック③
「そっち行ったぞ! 追え!」
高徳高校、第一校舎。
若松率いる男子生徒50人余りは、ゴブリンを追って校舎内を走り回っていた。
「よ、よし。追い詰めたぞ」
男子トイレに逃げ込んだ一匹を4人の生徒が取り囲む。
「ギィ! ゲッゲ」
ギラリと光るナイフをちらつかせながら不気味に微笑むゴブリンにたじろぐ生徒たち。
「よ、よし、俺がやる」
一人の男子生徒が進み出て恐る恐るデッキブラシを振り上げる。
そして震える唇をぎゅっと結ぶと、それを勢いよく振り下ろした。
「くらえ!」
ゴブリンはそれをひょいとかわすと、両手を上げて嘲笑うかのように飛び跳ねた。
しかし、そこへ他の生徒が振ったラケットが直撃する。
顔面を強打されたゴブリンがよろめいて倒れると、周りの生徒もここぞとばかりにそれを蹴り、踏みつけ、最後には臓物が飛び散るほどに叩き潰した。
「いいぞ、一気にやっちまえ!」
若松は廊下の真ん中で腕を組み、得意になって生徒たちに指示をだしていた。
「一匹やったぞ!」
「こっちは二匹倒した!」
狩りは一応は順調に進んでいた。
「こんなやつらにビビってたなんて、斎藤もだらしねえなぁ」
若松はぼろ雑巾のように潰れて消えそうになっているゴブリンを見ながら、嘲笑混じりにわざとらしく声を張り上げる。
「若松さん、大体片付いたんじゃないですかね」
柔道着を着た生徒が、ゴブリンから奪ったナイフをひらひらと振って見せながらそういうと、若松は満足そうに頷いた。
「一応まだ生き残ってるやつがいないか、全部の教室を探させろ! 全部終わったら今度は外の化け物犬を殺るぞ!!」
「わかりましたっ」
小走りに駆けていく男子生徒の背中を眺めながら、不敵な笑みを浮かべる若松。
(上手くいったぜ。これで斎藤の言うことなんて聞くやつはいなくなる。いや、それどころか今までぐだぐだと時間を無駄にしていやがったことを追及して、切腹でもさせてやろうか)
しかし、彼らはこの時にはまだ気づいていない。
事態はもはや収拾がつかなくなりつつあることに。
理科実験室。
そこで二年生3名がゴブリンの影を探して室内を散策していた。
「もう10匹くらい倒したってさ。3組の池本クン、レベルが2つも上がったらしいぜ」
「まじか。もうほとんど片付いちまってるんじゃないか?俺まだ全然余裕だったのに」
「えー、もう終わりかよ。つまんねえな」
多人数であたれば思ったよりも易々とゴブリンを倒せることが分かった彼らは、ここぞとばかりにイキり散らかす。
内心ではその影に怯えながらも虚勢を振り絞って実験台の下などを探り、何もないことを確認してふうと息を漏らしていた。
室内に電灯はついているものの、いつの間にか振り出した雨の音が彼らに余計な閉塞感を与える。
彼らの内の一人が併設されている理科準備室の半びらきの扉を何気なしに覗いた。
実験室の半分の広さもないその部屋は、中央に置かれた長机を取り囲むように薬品棚が設置されており、実に狭く、ごちゃごちゃとしている。
彼は壁に手を這わせて電灯のスイッチを探り当てると、明るくなるのを待ってから恐る恐る身を乗り出して、目だけで室内を物色する。
日ごろはここで理科教諭の田崎がタバコとコーヒーを愉しんでいたことを思い出して、あの先生はどこにいったのだろうかなどと想像していると、ふと足元の床に点々と連なる赤い染みを見つけてそれがどこから来たのかを目でたどってゆく。
どうやらそれは長机の向こう側に続いているようで、彼は屈んで机の股の下を通してそれを見た。
「お、おい……おいぃ! ちょっと来てくれ!」
彼の声に気が付いて他の二人も準備室に飛び込んでくる。
「ゴブリンか!?」
「ち、違う……これ……これ」
彼が指さす先に転がっていた物。
それは無数の刺し傷によって体中を抉られている、人間であったものの成れの果てだった。
顔も穴だらけになっており、そこが顔であったことすら怪しくなっていたが、白衣を身に着けていることからこの遺体が理科教諭の田崎のものであろうことは誰もが想像できていた。
「田崎だ……ひでえ……」
そのあまりにも凄惨な姿に、身が強張る。
一人はその場で胃の中のものをぶちまけて、さらに床を汚してしまった。
「は、早く皆に伝えないと!」
そう言って踵を返す三人であったが、部屋の入口のドアは目の前で勝手に閉まってしまう。
不気味に思ってよくよくドアの足元を見てみると、ニタニタといやらしく嗤う小人が一匹。
「い、いくぞ、あいつをぶっ飛ばして外にでる!」
彼らは慌てて武器を構える。
だが残念なことに、彼らがこの部屋から生きて外にでることはないのだろう。
彼らは二つのことに気付いていなかった。
ひとつは、田崎の死体が刺し傷の数の割には血液が飛び散っておらず、枯果てていたこと。
そしてもう一つは、無数のゴブリンたちが背の高い薬品棚の上でずっと彼らを見つめていたことだ。
「わ、若松さん!」
柔道着を着た男子生徒が若松の元へ駆け寄り、息を整えながら何かを伝えるべく、金魚のようにパクパクと口を動かしていた。
「おちつけよ。どうした?」
「り、一階の理科実験室から大量のゴブリンが―――」
若松はそこまで聞いたところで、続く言葉を待たずに走り始めた。
一階は既に地獄絵図と化していた。
先ほどまでとは逆に、今度はゴブリンの集団が学生たちを取り囲み、次々と飛びかかっては好き勝手にナイフを突き刺した。
今、若松の目の前でも一人の生徒がゴブリンによって廊下の隅に追いやられ、尻餅をついていた。
「や、やめてくれ、助けてくれ! わ、若松、なんとかしてくれ!」
しかし彼は動かない。
若松は、まさか数でゴブリンの方が上回るとは夢にも思っていなかった。
兼光の話では、校内で目撃されたゴブリンは10匹程度だと聞いていたが、今目の前で6匹のゴブリンが男子生徒を取り囲んでおり、ほんの少しむこうの廊下では死んだ生徒の体に唇を吸いつけて血を吸っているゴブリンが10匹はいたのだった。
そして他の各教室からもそれぞれ悲鳴が聞こえてきていた。
(や、やられた。斎藤の野郎、間違った数を教えやがったのか!)
「わ、若松、早く、こいつらを―――」
涙を浮かべて震える男子生徒へ向かって、ついにゴブリン達が飛びかかる。
次々と振り下ろされる白刃は、あっという間に彼の肢体を抉った。
そして間髪いれずに、彼の体の裂傷に口をつけて血を吸い上げ始める。
「あぐっ! 痛い!!!!痛い!!!!―――もうやめて!!」
ゴブリン達は刺し傷から血が出なくなると、ほかの場所を刺し直し、またしゃぶりつく。
目を剥いて泣き叫ぶ生徒をよそに、喉を鳴らしながらその血を飲み込むゴブリンたち。
やがて彼の心臓がゆるやかに止まり、どこを刺しても血が出なくなると、苛立ちをぶつけるかのようにその体を何度も刻んで穴だらけにしてしまった。
唯々、絶句しながらそれを眺めていた若松は、さらに驚くべき光景を目の当たりにする。
腹の膨れたゴブリンたちが急に苦しみ始めたかと思うと、胃の中にある物をすべて廊下の床に吐き出した。
そしてその真っ赤な吐瀉物は蠢くようにして泡立った後で、形を変えて、生き物の姿を成し始めた。