パニック②
「はじめ!」
開始の合図。
兼光はすぐに終わってしまわないよう、先手を避けてじっくりと構えていた。
(しばらくは好きに打たせよう)
しかし彼の思惑とは裏腹に、春樹は全く動く様子がなく、ただべた足でじっとしていた。
「どうした一年生! 思いっきり打ち込んでいいぞー!」
上級生たちが激励の声を上げるも、春樹はやはり動かない。
兼光は大いに困惑していた。
(まさか、打ち込んで来いというのか? けど、これはあくまでもデモンストレーション。僕が圧勝してしまったらなんの意味もない)
春樹に対するエールはついに野次や嘲笑に変わり始める。
「おいおいー、緊張して動けないかー?」
このままでは剣道未経験の一年生が笑いものになってしまう。
兼光は思い直して、ついに踏み込んだ。
狙いは小手。
春樹の竹刀はほんのわずかに寝てしまっているため、あっさりそれを叩ける。
その予定だった。
小さく振りかぶってから兼光は自分の背筋に走る嫌な予感の原因に気が付いた。
打ち込む直前、目の前の一年生は確かに、ほんの少し笑っていたのだ。
そしてその予感は的中する。
なんと春樹は竹刀から左手をぱっと離して、それをかわしてしまったのだった。
(馬鹿げてる! 小手を狙うことを『読んでいた』なんてレベルの話じゃあない!)
しかも春樹は、空振りした兼光の竹刀が持ち上がらないように左手で押さえると、そのまま右手一本でで兼光の面を取りに来ていた。
兼光が上体を逸らしてこれを紙一重でかわすと、春樹の表情が初めて驚きを含んだものに変わった。
二人は互いに体勢を戻すと、同時に大きく踏み込んだ。
剣道場に乾いた音が鳴り響く。
「一本!」
二人の着撃はほぼ同時であったように思われたが、部長が軍配を上げたのは兼光。
「惜しいなぁ。ちょこっと斎藤の方が早かったな」
小手と面を外してもらった春樹の肩を、部長がそう言って叩くと、彼はまた照れくさそうに笑った。
兼光は見学を終えて帰ろうとしていた春樹を、渡り廊下で呼び止めた。
舞い散る桜をぼんやりと眺めながら歩いていた春樹が、ゆっくりと振り返る。
「ああ、えっと、さっきの先輩―――」
「斎藤だよ」
「でしたね。さっきはありがとうございました」
すらりとした長身を丸めながら、春樹が丁寧にお辞儀をする。
「ひとつ聞いてもいいかな」
「なんでしょうか」
「どうして小手を打ち込むとわかったんだい?」
春樹は少し困ったように頬を掻くと、言葉に詰まりながらまた桜の木に視線を戻した。
「えっと。その……なんとなくです」
「なんとなくであんな芸当ができるのかい?」
兼光の表情は柔らかであったが、その瞳だけは真剣そのものだった。
「……怒りませんか?」
「まさか。手品の種明かしをしてもらいたいだけさ」
兼光が微笑むと、春樹は少し胸をなで下ろしてから向き直った。
「僕、動かなかったでしょう?」
「うん」
「そしたら野次や嗤いが起こり始めました。そして先輩は早く終わらせてあげようと考えて、自分から仕掛けてくれた。先輩はいい人です」
「茶化さないでくれ」
「茶化してなんかいません。だから、なんです」
春樹の言葉の意味がくみ取れず、兼光は難しい顔をして首を傾げた。
「剣道って、面、胴、小手、突きの4種類の有効打がありますよね。デモンストレーションの試合でまさか先輩が突きを打つことはありえない。あと、相手が動かない、振りかぶらないのだから胴は打ちにくいはずです」
兼光は黙って頷いた。
「残りは面と小手ですが。面は有りえません」
「どういうことだい?」
「あのとき、僕はすっかり笑いものになっていました。新入生を勧誘する場で、その状況はまずかった。先輩はなるべく僕が惨めにならない方法で終わらせようと思っていたはずです」
「あっ」
兼光はその時のことを思い返して、思わず声がでた。
自分でははっきり意識していたわけではないが、確かにそういう心理が働いていた覚えがあった。
「緊張して動けない新入生の面を打ちますか? 先輩は打たない。それじゃあまるで漫才のつっこみだ」
「まさか、竹刀が少しだけ傾いていたのも、小手を誘って……」
「左右どちらの小手を打ってくるのか分からなかったので、片方に絞るためでもありました」
「やれやれ、僕は完全に君の手の平だったというわけか。それにしてもあの具合は絶妙だった。思わず自分だけが発見した隙のように錯覚してしまう。そして僕は、素人の君に誘われているなんて夢にも思わない」
「あとは先輩が竹刀を少しでも振ったら手を離す。そのことだけに集中してました。それだけなら、僕みたいな素人でもなんとか反応できます」
「そうだろうね。なにせ打たれる場所が分かっているのだから……」
兼光がそういうと、春樹はまた困ったように微笑んだ。
(わざと力なく竹刀を振ったり、ぺたぺたと音を立ててベタ足で歩いていたのもおそらく計算。いかにもどんくさい感じをだして笑いものになることまで、すべて計算ずくだったというわけか)
疑問は晴れたが、兼光の心の中は嫉妬かあるいは畏怖か、そういう感情でざわついたままだった。
「でもやっぱり先輩はすごかったです。崩れた状態からでも僕の片手面をかわすなんて。正直計算外でした」
「僕が小手を打つ直前に、君の表情が少し緩んだ。それがなければ完全に虚を突かれてたよ」
「あちゃあ。ばれてましたか」
春樹がおどけて額をパチンと叩く。
しかし兼光は、もしかしたらあのときの微笑みもわざとで、それに気づくか試されてたのは自分のほうだったのではないだろうかとさえ疑っていた。
しかしそれを口に出すのは無粋だし、どのみちはぐらかされるだろうと思い直した。
「君とはまた勝負したいな」
「やめときます。勝てる気がしませんから」
「引き分けだったじゃないか」
「?」
勝負は兼光の勝ちだったはずだ。
部長が身内びいきで兼光に軍配を上げたわけではないことを、春樹はよく理解していた。
あのとき確かに、兼光の竹刀のほうがわずかに早く自分の面を打ったことは、春樹も分かっていた。
「僕はね、時代劇が好きなんだ。物騒かと思うかもしれないが、昔の侍みたいに真剣で勝負をしてみたいなんてたまに考えるんだ。今日の試合がもし真剣だったら……二人とも頭が割れてダブルノックダウンさ」
兼光が頭をさすりながらそういうと、春樹は無邪気に笑った。