大蛇
玄武はあっという間に正面の人垣に突っ込んだ。
トラックにはねられた、などという生易しい衝撃ではなかった。
例えるなら、5階建てのビルにはねられた。
もちろんビルは走らないが、その巨躯に匹敵する質量をもつものとして適当なのがそれなのだ。
何にせよ、あれほど見事に人が宙を舞う様など、誰も見たことが無かった。
神。
正義の言葉が兼光の頭の中を巡っていた。
クラッカーの創造物とはいえ、今自分たちが対峙している相手は、この世界では確かに神として崇められ、畏れられた存在なのだと。
そしてその神は、手近な場所で白目を剥いている人間のいくつかを口の中へと放り込むと、無慈悲に噛み砕く。
みずみずしい果実にかぶりついた時のように、玄武の裂けた頬の隙間から飛び散った真っ赤な果汁が辺りにまき散らされる。
「桜、大丈夫?」
美砂は咄嗟に桜を抱えて脇の林の中へと飛び込んでいた。
「だ、大丈夫です。でも……」
桜が見つめる先では、新たな獲物を求めて玄武が歩を進めようとしていた。
山道を転がり落ちていった5名ほどが、生きているのか死んでいるのかすら分からないが、ともかく倒れている。
玄武はそれに狙いをつけると、その巨躯で両脇の林の一部を削りとりながらゆるゆると坂を下っていく。
一歩一歩、玄武が地面を踏みしめる度に起こる振動に、辺りの草木がいちいち悲鳴をあげて揺れ動いていた。
「コータ、ナニスルダ」
美砂と同じく、浩太を抱えて林の中へと飛び込んでいたライアン。
しかし浩太はすぐに立ち上がると、藪から飛び出して目下の玄武を睨んでいた。
「あのままじゃ倒れている人たちがまた襲われちゃうよ……放って置けない! お願いライアン、力を貸して!」
「ドウスルダ?」
「注意をひきつけるだけでいいんだ、後ろから攻撃しよう!」
浩太は足元に落ちていたバールを拾い上げると、坂道を駆け下りはじめる。
「ヤムチャシヤガッテ」
ライアンはIFを手早く弄って宙に現れたテツパイプキャリバーを掴むと、すぐに後を追って走り始めた。
「こっちだ! こっちにこい!」
玄武が坂を下りきろうとしていたとき、ついに浩太は追いついて、その甲羅から覗く短いしっぽをバールで目いっぱいに叩きながら挑発した。
「コッチコチ!」
遅れて到着したライアンも浩太の真似をして手当たり次第に鉄パイプキャリバーで殴りつける。
二人の手がしびれて握力が薄れた頃に、玄武の歩みがピタリと止まった。
「そうだ、こっちにこ―――」
浩太が殴るのを止めて坂の上へと体を向けたときだった。
彼の体は突然何者かに囚われて空高く持ち上がってしまった。
「コータ ヲ HANASE!」
蛇だ。
先ほどまで浩太が執拗に叩いていた、玄武の短く愛らしい尻尾が大蛇に姿を変え、彼を捕えて人の手の届かぬ高さまで持ち上げてしまったのだった。
そう、玄武は元々、蛇とセットで描かれるのが普通だった。
尾が蛇であるか、あるいは単に甲羅に蛇が巻きついているか、そういう形で描かれる。
人の腰回りほどの太さはあろうかという蛇の胴体が浩太の小さな体にぐるりと巻き付き、全体をぎりぎりと締め上げていく。
蛇は苦痛に歪む彼の表情をみて興奮したのか、とどめを刺さんとあんぐりと口を開けて毒牙を剥きだしにした。
ライアンは大いに取り乱して一心不乱に蛇の腹部をテツパイプキャリバーで殴りつけたが、その胴は愉快に踊るばかりでいくらかのダメージも受けはしない。
成す術もなく、ついにその毒牙は浩太の肩口に突き立てられた。
が、蛇の頭はすぐに何かに弾かれて大きく仰った。
「間に合いましたか!?」
息を切らせてそこに立っていたのは宝木桜だった。
花弁のようにきれいに広げられた指からはバチバチと青い雷光がほとばしっていた。
彼女が使ったのは『Rejection in a moment(適時反射)』という名のスキル。
タイミングはシビアだが、味方が攻撃を受ける刹那にこのスキルを施すことで、敵の攻撃を弾き返すことができるというものだった。
桜はこれを初めて使用したが、思いの他に上手くいってほっと胸をなで降ろしていた。
「美砂様!」
桜が叫ぶより早く、美砂は力いっぱいに地面を蹴って飛び上がっていた。
美砂はカウンターを喰らっていくらか縛りの緩んでいた蛇の胴体を掴んで空中に留まると、包丁を力任せに突き立てた。
太いゴムのようなその胴体は、打撃は効かずとも、どうやら斬撃には弱いらしい。
蛇がざらつく悲鳴を上げて体をよじると、浩太の体はやっと解放されてライアンの両腕へと落下した。
「コータ! コータ! チャッカリシロ!」
意識を失いかけていた浩太だったが、ライアンの声に少しだけ唇を動かして「大丈夫」と微笑んで見せた。
ライアンはふぅっと安堵のため息を吐き出すが、美砂の叫び声によってそれはかき消された。
「早く走りなさい! アメリカ人!」
その声に驚いてライアンが振り返って見ると、玄武はすっかりこちらに向き直って、大きな口をあんぐりと開けていた。
「アメリカジン チガウ イングリッシュ!」
ライアンが不満げに眉をしかめながら走り出すと、間一髪、玄武のクチバシが空を斬った。
「どっちだっていいから、早く!」
追撃すべく足早に坂道を上り始めた玄武であったが、どうやら上り坂には弱いらしく、美砂たちは距離を保って広場まで駆け上がることに成功した。
少し遅れて玄武の巨体が再び広場へと乗り上げてくる。
唖然としてその様子を見ていた者たちがはっと我にかえって、蜘蛛の子を散らすように玄武から距離を取った。