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 僕の実家があった場所に近づくにつれ、街の雰囲気が変わってきた。一面が白い花で埋め尽くされているのは変わらないのだが、その隙間から覗く家屋が破壊されている。車が横倒しになっているものもあった。アスファルトが割れ、歩くのに苦しい場所もあった。明らかに浮浪者らしき風貌の人達が見え始め、僕に注目している。しかし、警戒しているのか、それとも手ぶらだからなのか、襲っては来ない。

集団ではなく、一人でいる浮浪者に近づく。目の前に立つと、道の端に座り込んでいる彼は僕を見上げた。

「金髪の少女を見ませんでしたか?」

 聞き込みをするしかない。地道な方法だが、ここでは他にしようもない。

 僕が尋ねると、彼は僕の目をじっと見つめた後、警戒を解いて答えた。

「ああ、今朝見たよ」

「ほ、本当ですか!?」

 彼女の風貌が目立って良かった。運が良かった。

「どこに行ったか見てませんか?」

 そう言うと、彼は僕をじっと見つめ、手を出してきた。最初は意味が分からなかったが、数秒してその意図に気が付く。僕は財布から一万円を取り出し、その手に握らせた。

「病院の方に行った。誰か探してたみたいだ」

 僕は礼を言い、彼に追加でいくらかの金を渡した。病院というのは、総合病院のことだった。日本政府から見放されたこの街では、もちろん病院としては機能していない。浮浪者のたまり場になっているだろう。

 僕は走り出した。体力は早くも限界に近い感じだが、ここで使い切っても良いだろう。ただ連れ帰ればいいのだから。

 時計を見る。十時半だった。もう試験は始まっている。しかし、それより彼女が家を出てから四時間以上が経過していることが気がかりだった。確かに僕の鞄を盗んだ犯人をこの街から見つけるのは至難の業だろう。しかし、それでも四時間はかかりすぎなんじゃないだろうか。もしかしたら、何か手遅れなことになっているんじゃないか? 無法状態の地区では人身売買が行われていると聞く。少女は高く売れるらしい。彼女の風貌は目立つ。もう捕まって、市場に並べられているんじゃないか?

 嫌な想像ばかりが頭を巡る。それをひとつひとつ振り払う度に、僕の体力は削られていく。病院は見えるのに、全然近づかない。ずり、と足元が花びらで滑った。僕はそのまま前のめりになってアスファルトに倒れ込む。激しい摩擦が頬を擦り、熱くなった。僕は急いで立ち上がり、再び走り出す。喉が呼吸で削れて血の味がした。

「あ……ぅっ……」

 久しぶりの全力疾走は、吐き気を催す。こんなことなら普段から運動をしておけばよかったと思うが、思ってからでは遅い。僕は準備をしてこなかったからだ。



 十分ほど走ると、ようやく病院に到着した。

 広がる平らな地は、今は白く覆われて分からないが、おそらく駐車場だろう。病院は築年数を三倍したような汚さで、何か分からない赤黒い染みがところどころ、割れた窓から垂れるようについていた。入り口の自動ドアは破壊され、割れている。人が丁度通れるくらいの大きさだったので、中に入る。院内は冬人夏草による浸食を受けていなかったが、どこも電気がついていなかった。非常灯の電気すら消えている。この地区には電気が来ていないのだろう。昼間だというのにどこか気味が悪かった。

 さて、どうするか。

 とりあえず一通り回って、中にいる人に、ユーリヤについて聞いてみるしかない。しらみ潰しだ。そう思い、歩みを進めた瞬間。

「…………?」

 とたたたた、と階段を急いで下るような音が聞こえてきた。続いて怒号。廊下に反響しているために、正確な場所は分からないが、近くから聞こえているようだ。怒号がまた聞こえた。足音は徐々に近づいてくる。奥だ。廊下の奥から聞こえる。

「あっ!」

 廊下の奥から人影が現れた。廊下を下ってきたのだろう。走ってこちらに向かってくる。脇には見覚えのある鞄を抱えていた。あの鞄は、僕のものだ。

 人影が、僕の姿を見据えて一瞬ひるんだ。金髪が揺れる。

 そう、金髪だ。

「ユーリヤ!!」

 僕が呼ぶと、彼女は僕を僕だと認識したようだった。目を見開き、驚嘆の色を浮かべる。無事なようだった。ああ、本当に良かった。彼女は生きていた。薄汚れてはいるが、目立った傷は見当たらない。

「待てやぁ!」

 怒号がはっきりとした言葉となって聞こえる。さきほど彼女が下りてきた階段から男が二人追いかけてきた。一人は黄色いキャップをかぶっている。僕の鞄を盗んだやつだった。彼女はそいつらから逃げているようだ。鞄を取り返したのか。

「急いで!」

 彼女が入口まで走ってくるのを待ち、僕は彼女の手から鞄を受け取り、そのまま手を取った。一緒に走り始める。病院の敷地を抜け、振り返ると、彼らは人数を増やしてまだ追いかけて来ていた。

 彼女を見ると、どうやら体力は僕よりも残っているみたいだったが、それでも疲れの色は見えていた。目が合うと、小さく微笑んだが、強がりだろう。

 どうにか彼らをまかなければならない。

 十字路を左に曲がる。しかし、しばらくするとさらに人数を増した浮浪者が追いかけて来る。次の十字路を右に曲がった。しかし、彼らは他の分かれ道を確認するまでもなく、一直線に僕らの方へやってくる。どうしてだろうと思ったが、それも当然だった。僕らは足元の花を蹴散らしながら進んでいる。巻き上がった冬人夏草を見れば、僕らの位置はすぐにバレてしまう。

 何回か住宅地の十字路を曲がる。やはり、まくことはできない。振り返ると、彼女はびっしりと額に汗を浮かべていた。呼吸も浅い。彼女もまずそうだが、それ以上に僕がまずい。もう気合いだけで足を前に進めている状況だ。限界を超えている。浮浪者たちとの距離も少しずつ縮まってきているように思えた。このままだと絶対に捕まってしまう。

 しかし、解決策は何も思いつかない。

「っと、あぶな……」

 十字路に、横倒しになった車があった。行きに見かけたものだった。

 車……? 外れているタイヤが視界に入り、僕はひとつの案を思いつく。僕はそこで足を止めた。

「どう……した、の?」

 彼女が呼吸を乱しながら尋ねるが、説明している時間はなかった。

 僕は外れているタイヤをひとつ急いで起こす。タイヤは、こんなに重かったか。持ち上げる腕が熱を持つ。起こしたタイヤを十字路の右側に向け、そのまま体重を乗せて勢いよく押し出した。タイヤは順調に転がっていった。冬人夏草を巻き上げながら。

 それを確認してから、車の影に身をひそめた。彼女の手も引き、一緒に身をかがませる。「先回りしろ!」と後ろから声が聞こえた。

 これで少しは撹乱できるだろう――そう思ったが、二つの黒が僕らをじっと見つめていることに気付いた。道端に座っている浮浪者が一人いたのだ。年齢は五十代だろうか。僕らを不思議そうに眺めていた。目がほとんど見えていないのか濁っており、瞳に警戒の色は含まれていなかった。

「すいません、これで、あっちに向かって走ってもらえますか?」

 僕は浮浪者に近づき、一万円を握らせた。彼はぽかんとしていたが、僕が苦しい表情で「お願いします」と言い、頭を下げると、立ち上がってくれた。

「まあ、走るだけなら、わいにもできるわな」

 そう言って、彼は十字路を真っ直ぐ走ってくれた。

 僕はユーリヤの手を引き、十字路を左に向けて走って行った。後ろを振り向く余裕はなかった。ただ、走った。ひたすら、限界になるまで、走った。

 方向は合っていたようで、いつの間にか、周辺は治安の良い街の風景になっていた。

 どちらともなく、僕らは手を離した。そして足を止め、膝に手をついて呼吸を整えた。

「まいた、みたい……だな」

「そう、だね」

 彼女はぜえはあと喘ぎながら苦しそうに笑顔を作った。

 しばらくして呼吸が整う。足は相変わらずだるく、肺も熱いが、体力は回復しただろう。

「…………帰ろうか」

 彼女は頷き、僕の手を取った。そのまま、しばらく無言で歩いていた。

 よく見る風景の場所まで歩いたとき、僕は彼女に声をかけた。

「なあ……どうして、こんなことしたんだ?」

 彼女は特に反応を示すことなく、歩き続けた。聞こえなかったのかと思い、もう一度尋ねようかと思ったとき、彼女が口を開いた。

「お母さんの写真は、大切なものだからだよ」

「……ここまですることないじゃないか。本当にユーリヤは危なかったんだぞ」

「分かってる。心配かけてごめんね。……でも、それでも、お母さんはあなたの大事な人だよ」

 彼女は昨日のように遠い目をした。

「私はね、十六歳なの。二〇五一年生まれ。ロシアで生まれたの」

「二〇五一年……?」

 日本に冬人夏草が蔓延したのは二〇五五年だ。しかし、それ以前に蔓延していた国はある。例えば、冬人夏草が最初に発見された国、ロシアだ。ロシアは既に二〇五〇年には冬人夏草に負けていた。

 でも、彼女が生まれたのは二〇五一年。冬人夏草が蔓延しているのに生まれた子供ということになる。ラストチルドレンの、後だ。本来は、存在しないはずの子供。

「冬人夏草が蔓延してから、子供は生まれなくなった。子供は幸福の象徴だから。大抵は妊娠が発覚したときに、母体と共に咲いてしまう。……でもね、それでも、生まれてくる子供はいるんだよ」

 そんなことが可能なのか? 情報統制が敷かれてから、僕らは情報から孤立している。聞いたことがない話だった。

「それは……どういう場合なんだ?」

 彼女は僕の目を見ようとはしなかった。

「……例えば、不倫相手との望まぬ妊娠で、おろすお金がなかった場合」

「…………」

 彼女の母はロシア人。父は日本人だと言っていた。冬人夏草の研究で日本の研究者の多くがロシアに行ったと聞いている。

 彼女は、その間で生まれた子供、なのか?

「望まれない子供。必要ない子供。愛されない子供。邪魔なだけな子供」

 彼女は言っていた。

 幸せになりたい、と。

 幸せになるためには、人に必要とされなければならない。愛されなければならない。他の何を満たしても、それが満たされない限り、人は幸せにはなれない。

 彼女は、自分は幸せにはなれないと言っていた。

「アリさんを必要としてくれていた人の写真だよ。とっても、大切だよ」

 彼女はそう言って、寂しそうに僕に笑いかけた。

 今まで、ずっと、彼女は人から必要とされたことがないのだろう。愛されたことがないのだろう。安心したことがないのだろう。

 一度も、たったの一度も、そういう機会がなかったのだ。

 親でさえ、彼女を忌み嫌う。世界から取り残され、孤立する。何とも繋がりを持てずに、一人だった。こんな世界だ。自ら歩み寄っても裏切られるだけ。人と繋がろうと思っても、それは利用されるだけだ。

「……僕、は――」

 僕は、十分に恵まれていた。

 僕は、幸せを知っているからだ。

 彼女は、いつだって幸福を目指していた。未だ知らぬ幸福を、なれないと知りながら、それでもあきらめきれなくて、ほんの少しのことでも、幸福になれるように、がむしゃらに、行動していた。

「私は、いつか、誰かに必要とされて、幸せになりたい」

 彼女が、呟いた。

 胸が、苦しくなる。それはさきほど肺を酷使したからではない。しぼられるような内側の痛み。僕は、彼女を――

 すっと、繋いでいた彼女の手を離した。

 このままだと、僕は咲いてしまう。

 だめだ。この気持ちを止めろ。

 彼女を抱き締めたいなどと思うな。「僕が必要としている」なんて言いたいと思うな。

 彼女に触れたいなどと思うな。

 それは直接、僕を死に至らしめる。

「ねえ……アリさん」

「……どうした?」

「今日は、大切な試験だったんじゃないの?」

「…………」

「それなのに、どうして私のところへ来てくれたの?」

「君が、……心配させるからだ」

「それでもアリさんなら、試験に行くと思ってた」

 それなのに、どうして――?

 そんなの、決まってるじゃないか。

 きみのことが、試験よりも、自分よりも、大切だからだ。

「きみがのたれ死んだら、夢見が悪いからだ」

「…………そっか」

 彼女はわずかに膨らませた期待をしぼませ、俯いた。

「ねえ、アリさん」

「なんだよ」

「……私はね、あなたに拾われて、本当に良かったと思ってる」

「…………そうか」

 心臓の鼓動が速くなる。僕は太腿をつねった。

「どこの誰とも知れない私を家に住まわせてくれて、食べ物も作ってくれて、服も買ってくれて……優しくしてくれた」

「仮宿だって、言っただろ」

「それでも、嬉しかった」

 彼女はそこで言葉を切る。何か、次の言葉を用意している。

 僕らの沈黙が、世界の沈黙に包まれる。世界が止まり、孤独に捕われそうになるが、彼女は確かに隣にいる。ただ、触れて確かめることはできない。してはいけない。

 十歩ほど歩いたときに、彼女が口を何回かもごもごとさせてから、顔をあげた。頬が紅潮し、目が赤かった。

 そして彼女は、その言葉を絞り出す。

「わ、私は……あなたが必要だよ。……その、…………だから、ずっと、一緒に居て欲しいと思ってる」

 僕は荒ぶる心臓を鎮めることに心血を注ぐ。より太腿を強くつねった。皮に爪が食い込み、血が出てくるのが分かった。

「えっとね、……分かる? 私の言いたいこと……」

「……うん」

 僕は努めて冷静に頷いた。彼女は目が泳いでいて、言葉をつまらせるたびに顔をより赤くしていた。

「……………………」

「……………………」

 再び沈黙した。

 分かっている。彼女の言いたいことは、きちんと伝わっている。

 沈黙に耐えられないように彼女が口を開いた。

「あなたは、……私のこと――どう思ってる?」

 決まっている。

 僕もだ。僕も、きみのことを大切に思っている。きみの笑顔を見るとほっとする。つい、きみを笑顔にすることを考えている。きみに会うために早く帰宅したいし、きみが一人で家にいて寂しくないのか心配だ。服はいらないと言っていたが、僕に遠慮しているんじゃないかと気がかりだし、プレゼントしたら喜んでくれるかな、なんて思ってる。いってらっしゃいと言われるとその日はがんばれるし、きみの手料理は味はいまいちでもとても満たされる。

 きみと、ずっと一緒にいたい。ずっと隣に居て欲しい。

 この気持ちを全てきみに伝えたい。余すことなく、こぼれるほどに、きみに浴びせたい。

 僕はきっと幸せになる。咲いてしまうだろう。

 それでも構わない。命と引き換えにしてでも、この気持ちを彼女に届けたい。後先考えずに、全てをぶちまけてしまいたい。

 ――でも、そうしたら。

 彼女は、残される。

 その気持ちを、僕はよく知っている。

 どうしても、その後のことを考えてしまう。

 もしかしたら、僕と一緒に咲いてしまうかもしれない。そんなのは、違う。それでは、母となんら変わらない。

 そんなの、僕は、幸福だなんて認めない。

 ――だから。

「ただの居候だよ」

 僕は即答した。続けて、彼女の反応を見る前に言う。

「先に帰っててくれ。僕は買い物して帰るから」

「え、ちょっと――」

「帰っていいよ。……ちゃんと、真っ直ぐ帰れよ」

「…………」

「分かったか?」

「……………………分かった」

 彼女は目を伏せ、しばらくしてから表情を歪めた。目に涙が急速にたまる。一筋、彼女の頬を伝った。僕に見えないように顔を伏せたのだろうが、僕は光るそれをきちんと目にしていた。

「ほら、鍵」

 僕は彼女の手に鍵を握らせる。

 彼女は無言でそのまま家へ向かっていった。僕は彼女とは別れ、曲がり角をスーパーの方へ向かって歩く。

 辺りは薄暗くなり、わずかな光を通す冬人夏草の花びらが神秘的な雰囲気をかもしだしていた。静かな街を歩く。できるだけ花を巻き上げないように、足をあまり上げないようにして歩く。

 世界を覆う白は、そこにあった思いも、言葉も、全てを塗りつぶすように感じられた。

「どうして……こうなるんだよ……!」

 どうして、ただ気持ちを伝える、そんなことが、できないんだ。

 神様は、何がしたいんだ。僕らを滅ぼすのなら、隕石でも落とせばいいじゃないか。人間が死に絶えるウイルスでもいい。そっちの方がよっぽど幸せだ。どうして、こんなことをするんだ。こんな滅ぼし方をするんだ。

 僕はただ、彼女に思っていることを伝えたいだけなのに。

 それなのに、傷付けることしか、できない。

 泣かせることしか、できない。

「う、うぅ……うああああああああ……」

 僕はその場に崩れ落ちる。

 何も高望みをしたわけじゃない。歪んだことをしたわけじゃない。ただ、真っ直ぐに、行動したいだけだ。

 でも、やはり、僕はその後のことを考えてしまう。

 僕は、アリだ。

 キリギリスにはなれない。

 アリはアリらしく、未来のことを考え、準備することしかできない。

 でも、僕だからこそ、できることがある。

「冬人夏草を、絶滅させる……そのための菌、ウイルス……なんでもいい」

 それを、開発してやる。

 他でもない、僕が。

 どんな優秀なやつをも飛び越え、僕が一日でも早く開発してみせる。世界に逆らう行為かもしれない。多大な犠牲を払うかもしれない。しかし、何を捻じ曲げてでも、僕は、それを開発する。

 研究員選抜試験を棒に振っても、他にも研究機関に入る方法はある。僕は必ず、全てを踏み台にして、その高みにあるものを手に入れてみせる。

 どんなに苦しくても、馬鹿にされても、足を引っ張られても、僕は続けるだろう。

 開発したその日、僕が彼女に本当の気持ちを伝えることを夢想して――。

 僕のそんな思いを知ってか知らないでか、冬人夏草は動じることなく、ただ街を覆っていた。



〝The flowers of happiness, tojinkaso〟

World Happy End or Happy World End.



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