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家に帰り、僕がソファーでうなだれていると、彼女がコーヒーを淹れてくれた。
「ありがとう。……その……さっきは取り乱して悪かった」
「ううん。大丈夫だよ」
彼女は僕の隣に座って微笑んだ。
「何か、大切な物が入ってたの?」
「……写真だ」
「写真?」
彼女は小首を傾げる。
「僕の、母の写真だ」
手元に残った、最後の一枚だった。
「実家の方は治安が悪くてね。僕が十五歳のころ、実家は放火されちゃったんだ。アルバムは実家にあったから全部燃えちゃって。唯一残っている母の写真が、あの鞄には入ってた」
彼女は一瞬はっとした顔をして俯く。
「そんな、大切な物が……」
「でも、いいんだよ。あの写真は、なんていうか、僕の現実逃避するためのものだから」
「どういうこと……?」
僕はコーヒーを一口すすってから、深く呼吸した。
「母さんは、地道な人だった。日々の努力を尊ぶ人だった。多分、起業に失敗して自殺した、僕の父から学んだ教訓なんだと思う。僕にもいつも言っていた。馬鹿にされても足を引っ張られても、毎日必ず続けなさい、って。将来への準備は必ず実を結ぶ。幸せになるにはそれしかないって。そう考えてやっていたんだ。だから母は、何個もパートを掛け持ちしていたにも関わらず、いつも笑顔を絶やさなかった。僕に文句ひとつ言ったことが無かった。それは、将来に約束された幸福があるからなんだよ。それが、心の支えだったんだ。……だけど」
だけど、冬人夏草がロシアから日本に入ってきた。半年も経たずに日本人全員が感染した。
「約束されたものが消え失せた。それで、母さんは壊れてしまったんだと思う。全ての仕事をやめ、毎日ふらふらと出かけるようになった」
生活はみるみる逼迫していった。将来のことなど、もう考える余裕はなくなった。
「そしてある日、母さんが男の人を家に連れてきて言ったんだ。『私はこの人と幸せになる。いいでしょ? お願い』ってね。相手も同じような立場の人だったんだろう。そうして、結婚式を挙げて、――咲いたよ」
目先の幸福に飛びついてしまった。今までの苦しみの意味が分からなくなってしまった。
「母さんは、諦めてしまったんだ。幸福になることを。……でも、そんなのはおかしい。毎日将来のために努力していた人が報われないなんて、おかしいじゃないか。そんなの、嫌、だろ」
だから僕は、母さんと同じ方法で幸せになる。
母さんは間違っていなかったと、証明する。
そうして、母さんを見返す。僕を残して死んでしまったことを、後悔させる。
あの写真を見る度に、僕はその決意を再び揺るがないものとするのだ。
「……僕は別に母さんを恨んでるわけじゃない。感謝してるんだ。女手ひとつで僕を育ててくれたんだし。母さんだって、僕を愛してくれていた。母さんは、ただ、壊れてしまっただけなんだ」
「そっか……」
僕の話を静かに聞いていた彼女は、深く俯いていた。今まで見たことがないほどに神妙な表情をしている。僕は心配になった。
「あー、ごめんな。こんな話、つまんなかったよな」
「そんなことないよ。アリさんのこと知れて、良かった。……ちょっと、羨ましいな」
「羨ましい?」
「あ、いや、なんでもないよ。……でも、その写真、なおさら大切なものだね」
「いいよ、別に」
「良くないよ、大切なものだよ!」
彼女が声音を強くする。いつも笑っている彼女が真剣な眼差しを僕に向けていた。
「……でも、もう、どうしようもないだろ」
「…………」
彼女はしばらく考え込むようにしていたが、「アリさんがそう言うなら」と言って、いつもの笑顔に戻った。さっきまでの沈んだ雰囲気は霧消していた。
「さあ、アリさんは勉強しなきゃでしょ。明日大事なテストなんだから」
明日は研究者選抜試験であった。僕の日々の努力が報われる大事な一歩だ。ここでつまずくわけにはいかない。どうしても、受からなくてはいけない。ここで落ちたりしたら、それこそ日々の努力を否定することになる。僕は、ぬかりなく努力をしてきた。誰よりも、積み重ねてきた。
最後の確認だ。
僕は自室にこもり、その日は早めに横になった。
がちゃん、と物音がするので目が覚めた。おそらくユーリヤが起きて何かしているのだろう。時計を見ると、朝六時だった。僕はまどろんだ意識をそのまま眠りへと傾けた。
次に目覚めたのは八時であった。今度は完全に意識が覚醒している。居間へ行くと、物静かだった。人の気配がない。机の上を見ると、置手紙があった。
『買い物に行ってきます。今日の晩御飯、期待しててね。朝御飯は冷蔵庫にあります。 ユーリヤ』
彼女が出かけるのを、朝は許していた。その時間ならば危険はないと思ったからだ。スーパーまでの道は大通りだし、大丈夫だろう。
冷蔵庫を開けると、ラップがかけてある朝食があった。煮物もある。最近彼女は料理に凝ってきて、煮物を作るようになった。今度、ロシアのおいしい料理を作ってくれるとも言っていた。確か、ボルシチだったか。
朝食をレンジにかけている間、ぼうっと居間を眺める。こうして静かなのが、どうしてか寂しく映った。
彼女が来るまでは、ずっとこうだったというのに。
少しだけ、彼女の帰りを待とうかと思った。しかし、試験までそんなに時間が余っているわけではないし、何しろ、今は試験に集中しなくてはならない。今日は一日中試験なのだ。集中しなくては。
そう思っても、彼女のことを考えてしまう。ぽっかりと空いた空間が目につくのだから仕方がない。
彼女はいつごろ戻ってくるだろうか。できれば、今日だからこそ、いつものように「いってらっしゃい」と送り出してほしかった。
買い物だから、スーパーに行ったのだろう。往復で四十分はかかるし、買い物を二十分で済ましたとしても一時間はかかる。そもそも、彼女は何時に出かけたのだろうか。
「…………!」
思い出す。
今日の六時頃、物音がしなかったか。よくよく思い出せば、あれは、玄関の開く音ではなかったか。あの時間に出かけて、未だに帰って来てないのはおかしくないか?
昨日の、彼女の暗い顔を思い出す。思いつめていたようにも見えた。
珍しく真剣な顔で、僕に抗議していた。
僕の鞄を奪ったやつらの居場所を、彼女は知っている。僕が昨日、口を滑らせて、中心街だと言ってしまった。
「いや、まだそうと決まったわけでは……」
言い聞かせるが、指先の震えは止まらないどころか、加速していった。
次の瞬間、僕は家から飛び出していた。
スーパーまで走る。途中で何度か冬人夏草を踏んで転んだ。約十分でつく。買い物客に奇異な視線を向けられながら、僕は点内を走り回る。しかし、彼女の姿は見当たらなかった。店員に、彼女の特徴を伝えてみても、見ていないと言う。スーパーまで行くルートはいくつかあった。もしかしたらすれ違いになったのかもしれない。僕はそのまま走って帰宅する。僕も書置きを何か残しておけばよかった。家についても、彼女はいなかった。帰ってきた様子もない。
「…………」
時計を見る。九時だった。試験まであと一時間。彼女が家を出てから三時間は経っている。
僕はポケットから携帯を取り出す。手が滑って取り落した。それを拾い、電話帳を漁る。教授を選択し、電話をかけた。コール音がやけにゆっくりに聞こえる。
「早くしろ……早く」
いつもはすぐ電話に出る教授だが、今日は遅い。家の中をうろうろする。一旦落ち着こうとソファーに座った。机をこつこつと指で叩く。
研究室の方に電話をかけようかと思った瞬間、教授が電話に出た。
「在原くん、どうかしたか?」
「教授、緊急事態です。今日の試験、ずらせませんか」
「……何をやってるんだ、きみは。ずらせるわけないだろう。全国で一斉に行われる試験なんだから」
「何とかならないんですか。再テストとか。そういう措置は」
「ない」
さあっと頭から血が下がるのが分かった。頭がくらりとする。
「何があっても来い。きみなら風邪を引いてても受かるだろう」
「風邪とかじゃないんです」
「じゃあ何だね?」
教授の声に不審の色が混じった。
「……いえ、その、とにかく緊急事態なんです」
「全くもってきみらしくないな。……分かっているか? きみはこの大学の代表なんだ。受けたくても選ばれなかった人もいる。それをよく考えたまえ」
「……はい、それは、分かってます」
「きみだって、今まで散々努力してきただろう? それをなかったことにしたいのか?」
そんなわけがない。僕は、報われるために努力してきた。どんなに苦しくても、後ろ指を指されても、足を引っ張られても、努力を積み重ねてきた。
それが実を結ぶ機会だ。
ここで試験を放棄したら、今までの努力が水の泡になる。考えただけでもぞっとする。僕の二十一年間の積み重ねが壊れるのだ。教授の顔に泥を塗ることにもなる。もう教授とのコネが切れると考えた方がいい。この試験は、何があっても、例え命の危険が迫っていても受けるべきだ。
僕は電話を切った。
胸に手を置いて、深く息を吸い込む。そして心臓を握るようにして、ゆっくりと息を吐いた。体の強張りが多少とれる。
今まで通りにしなくてはならない。僕はアリだ。来たる幸福な未来のためなら、いつだって今を犠牲にしよう。
僕は淡々と、昨日用意していた筆記具と書類を鞄に詰めた。
玄関で靴を履く。そして、振り返り、家の中を見た。
いってらっしゃい、と笑顔で言ってくれる人はいなかった。
「…………」
サングラスをかけ、外へ出る。今日も一面真っ白の世界だった。試験会場である大学に向けて歩く。
「今日の試験、どんな問題が出るかな」
ユーリヤは今どうしているだろう。
「難しい問題が出た方が、差がつきやすくていい」
実際行きついてみて、怖くなってそのまま帰ってくるかもしれない。
「散々やってきたんだ」
多分そうだ。彼女はその場その場の感情で動く。何もせずに帰ってくる。
「積み重ねてきたんだ」
……でも、もしかしたら、写真を取り返そうとするかもしれない。
「そうなった場合、相手は多数だ。少女一人が勝てるわけがない」
僕が行っても、どうしようもないだろう。
「…………でも」
僕は足を止めた。どさりと、鞄をその場に落とす。踵を返した。重い足取りが段々と軽くなる。
走った。
もう、どうにでもなれ。
がらがらと、僕の足元に積み重ねてきたものが崩れ始める。僕は地に叩きつけられるだろう。死ぬかもしれない。全く僕らしくない。それでも、誰も、僕さえも、今の僕を止めることはできない。
向かうは、ユーリヤのいる場所だ。




