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「なるほど、大体分かった」

 とりあえず僕の部屋に彼女を入れ、床に正座をさせた。事情聴取した結果、彼女の基本的プロフィールが明らかになった。

 名前は桐谷ユーリヤ。母はロシア人、父は日本人のハーフだ。両親は既に咲いている。それからロシアでうろうろしていたが、父の祖国を訪れてみたくて十年前に貨物船に紛れて入国。それから無法地帯を避け、ホームレスをしていたらしい。

「きみ、やっぱり不法入国者じゃないか……」

 僕がソファーに座り、がっくりと首を落とすと、彼女は困ったように笑う。

「そうとも言える……かも」

「そうとしか言えねえよ」

 待てよ。ということは、何だ。僕は今、不法入国者を匿っていることになるわけだ。一刻も早く追い出すべきだろう。警察に突き出すか。……しかしだ。警察に連れて行っても、施設の類には入れない。両親が咲いて孤児になった子供なんて腐るほどいるからだ。追い出しても彼女みたいな少女はまた略奪されて終わりだろう。最悪のたれ死ぬ。そんなことを僕は望んでいないし、夢見が悪い。

「……それで、ユーリヤはどうしたい」

 僕のその質問をどう受け取ったのか、笑顔になる。

「アリさんのおうちに住みたい!」

「在原だ。勝手に略すな。それに質問しただけで、それを叶えるとは言ってない。その希望に満ち溢れた表情をやめろ」

「そ、そんな……! じゃあ追い出すの?」

「それも辞さない構え」

「アリさんの家の前で死んでやる!」

「お前って嫌なやつだな……」

 本当にどうしようか。追い出すのは、確かにできそうもない。仮の住まいでも紹介できれば良いのだが、そんなツテはない。教授に頼っても「そんなの追い出せばいいだろう」と言われるだけだろう。せめて彼女が金を持っていればよかったのだが、もちろんのこと一文無しだ。

 選択肢は、一つしかないか。

「……分かった。幸い部屋は余ってる。一つ部屋を貸し与えてやる」

 そう言うと、彼女はしばらく無言だった。気になり彼女に目をやると、目を見開き、驚嘆しているようだった。

「ほ、本当にいいの……?」

 彼女が恐る恐る尋ねてくる。僕が頷くと、彼女はぱあ、と表情を明るくした。

「やった! ありがとう!」

 立ち上がり、飛びかかってくる。

「おい、やめろ。というか風呂に入れ。服が汚れる」

 そう言うと、彼女は静まり返り、すっと離れる。そして自分の二の腕あたりをすんすんと嗅ぎ、涙目になった。くさかったか、そうか、そうだろうな。

「お、女の子にそんなこと言っちゃいけないんだよ……」

 今にも泣き出しそうな顔だった。表情筋が忙しいやつだ。

僕は彼女をとりあえず風呂に入れた。その間に彼女の服を洗濯機で回し、乾燥機にかけた。乾くまで彼女は風呂で待機だ。彼女の服はこれしかない、使い回すしかないだろう。

「あー、さっぱりしたー! 髪もするするー」

 彼女は体から湯気をあげ、満足そうだった。少し眠そうに目をとろんとさせている。リラックスしたのだろう。

「はいはい、良かったな。で、話の続きだけど」

「任せて。住まわせてもらうんだから、家事手伝いくらいはするよ。……したことないけど」

 最後の呟きはきちんと僕の鼓膜まで届いた。

「分かった。家事手伝いは禁止だ。ただ僕に迷惑をかけなければいい。……で、勘違いしないで欲しいんだが、ここは仮宿だ。きみは仕事を探し、新生活のために貯金をしなくちゃならない。それをすることが、ここに住まわせる最低条件だ」

「でも、仕事には住所が必要だよ」

 確かにそうだ。仕事をするには、身元を明かさなければならない。そのために住所が必要だ。彼女もすぐにこの返答ができるということは、このステップで躓いたことがあるのだろう。

「……ここの住所を使っていい」

「いいの? ありがとう!」

 そうするしかないだろう。彼女は従順そうだし、仕事は早くに見つかりそうだった。まあ、続くかは分からないが。

「それにしても、お部屋広いねー」

 彼女がぐるりと首を回し、部屋を見渡す。ここはマンションの一室だった。

「大学からそこそこ金もらってるからな」

「アリさんって大学生だったの? すごいね、優秀だね」

「だから僕は在原だ」

 大学に通う人間、学生というのは、大学から少なくない資金をもらっている。将来への投資だ。ひどく人員が不足している日本で、優秀な人材を育てることは急務となっている。そのための投資なら構わないということなのだろう。

「ほえぇー……」

 彼女はしばらく居間を眺めていた。



 その後、最低限の生活用品を買いに行き、彼女に部屋を割り当てた。八畳ほどの部屋で、彼女は大層満足したようだった。

「予定がむちゃくちゃだな……我ながら何やってんのか」

 頭をかきむしる。机へ向かっているがなかなか勉強が進まない。今日はまだ三時間の勉強をしていなかった。一日くらいさぼっても、という気持ちが芽生えないことはないが、それは絶対にだめだ。毎日こつこつ、計画を地道に実行することこそが、将来の幸福へ確実に繋がる。予定は狂わせてはいけない。

 しかし、ここでユーリヤだ。

 どうして僕が彼女の世話をすることになるんだ。理不尽じゃないか。そう思う。しかし、その理不尽さも、僕の予定の一部だった。彼女にかかる費用は全部雑費として処理できる。僕の予定が狂ったわけじゃない。心配なのは、勉強時間の確保だろうか。

 なにはともあれ、今は勉強だ。研究員選抜試験を受けられることになったんだ。椎名のこともある、これで落ちたんじゃ洒落にならない。

 僕が必死にペンを動かしていると、ドアがノックされた。慣れない現象に思わず体がびくっと反応する。ドアをノックする人物は一人しかいない。

時計を見ると、夜中の二時だった。こんな時間に何の用事だろう。九時にはすっかり眠っていたというのに。

 僕は携帯を操作することにより、部屋のロックを解除した。

「入っていいよ。どうした?」

 扉が開き、だぼだぼなパーカーに身を包んだ彼女が姿を現す。寝間着用に僕が貸したものだ。ドアの隙間からするりと無言で入ってくる。そして二歩、僕と距離を縮め、無言だった。

「……なんだよ?」

「ちゃんと、お礼を言おうと思って」

 彼女の横顔が月明かりによって照らされる。昼間とは違い、髪を耳にかけていた。まとまった金髪がきらきらと輝き、神秘的な空気をまとっていた。

「ユーリヤ……?」

 ユーリヤは、こんなやつだったか。まとう雰囲気が違い過ぎて思わず声に出してしまった。彼女はにこりと微笑んでから、深く頭を下げた。

「昼間は助けてくれて、そして今、こうやって住む場所まで提供してくれて、本当にありがとう」

 こうやって改めてお礼を言われるのは何だか気まずい。どう反応して良いのか分からない。普段から僕は、人と、お礼を言ったり言われたりなどという関係を持たないからだ。

 僕はただ、正直に答えることにした。

「……まあ、別に、そんな大したことじゃないよ。困っている人を助けるのは普通だって」

「普通じゃないよ。……普通じゃない」

 昼間とは声質が違った。昼間はもっと高く、耳にさわる声だったが、今は静かに呟くような声だった。すんなりと耳に入ってくる。今なら彼女が十六歳だという話も頷ける。

 そして、僕は、彼女の雰囲気に圧倒された。彼女のいわんとしていることが分からなかった。

「普通じゃないって……?」

「人の死が軽くなるほど、人は素顔に戻っていくんだよ。自分の本性を現すの。こんな世界だもん、皆、必死だよ。自分のことしか考えられなくなる。他の人には無関心になっていくんだよ」

 彼女の優しく微笑む表情の裏に、色濃い影を確かに感じた。

「そして無関心は、良心を消し去る」

 この言葉は、どんな経験をしたら出て来るのだろうか。やはり、複雑な過去を持っているのだろうか。僕は彼女の過去に興味を持っていた。

「自分が助けなくても誰かが助けるだろう。自分が関わらなくても誰かが関わるだろう。そうやって、人は人から離れてくの。――だけど、あなたは助けてくれた」

 大袈裟だと思った。しかし、家もなしにこの世界で生きてきた彼女には、確かに言えることなのかもしれない。

「あなたはまだ人に関心を持ってる。良心がある。……だからね、一緒にいて、とても安心するよ」

 彼女は首を少し傾げてにっこりと笑った。

「…………」

 胸の奥であたたかい何かがじんわりと広がる。体に染み渡っていく。乾いた血肉に潤いを与えるように、僕を滑らかにしていく。昼間もそうだった。この感覚は、何だ。どうして彼女の笑顔を見ると、こんな気分になるのだろう。

 その後の勉強は、いまいち集中できなかった。



 食住が揃ったのなら、次は衣だろう。次の日、僕は彼女と服を買いに行くことにした。

「おっかいもの♪ おっかいもの♪」

 彼女は陽気そのもので、昨晩の雰囲気は霧消していた。子供のように、リズミカルに道の冬人夏草を蹴散らしながら僕の横を歩いている。舞い上がった花が目の前を覆ってしまって道が見えなくなる。正直歩きにくいので止めて欲しいのだが、彼女に何回注意してもやめてくれないので諦めた。何がそんなに楽しいというんだ。

「あんまり時間かけるなよ。僕は勉強しなきゃいけないんだから」

「えー! 今日、大学ないって言ってたのに」

「近いうちに大事な試験があるって言っただろ」

「あー、そーなの」

 昨晩、そういう話をしたはずなのに、まるで聞いていなかった。

 彼女を横目でちらりと見る。

「……なあ、本当にサングラスいらないのか?」

「いらないよー」

 出かけるときにサングラスを渡したのだが、彼女は受け取らなかった。最初からサングラスはかけていないらしい。

「眩しくないのか?」

「んー……慣れればそうでもないかな。むしろ綺麗だよ」

 僕はサングラスを上にずらし、肉眼で外の景色を見てみるが、あまりの光量に目がくらんだ。

「そのうち目悪くなるぞ?」

「今健康だからそれでいいの」

 彼女は先を見通すということができないのだろうか。

 二十分ほどで目的地についた。

「とりあえず二万円渡すから、好きなの買えよ。僕は入口で待ってるから」

「分かった!」

 僕の手から二万円をかっさらい、意気揚揚と店内へ駆けて行った。僕は入口のベンチに座り、店内の方を向いてからサングラスを外し、薬学書を読むことにした。

 しばらくすると、彼女が大きな紙袋を持って自動ドアをくぐってきた。

「買ったよー!」

「そうか、じゃあ帰ろう」

「ちょっと! 反応が淡泊だよ。見てよ!」

 彼女が頬を膨らませ、紙袋で僕を軽く叩いてきた。

 見る必要があるのか。まあ、ユーリヤのセンスを見てからかうのもいいだろう。そう思い、彼女が差し出す紙袋を覗いた。

 そして言葉を失った。

「……」

 中には二着入っていた。値段的にそんなものだろう。

「ちゃんと見てよ。もこもこでかわいいでしょ」

「あー……うん。……なんつーかさ」

「? どうしたの?」

「何で二着とも部屋着なんだよ」

 紙袋に入っていたのは、外ではとても着られない着ぐるみもどきの部屋着だった。

「かわいいでしょー?」

 何故か彼女は得意げだ。

「部屋着も必要だけど、外出用の服も買えよ……。外出るときどうすんだよ」

「ワンピースがあるよ!」

「それだけだと困るから買い物に来たんじゃないか」

「え? あぁ……まあ…………てへ」

 彼女が笑ってごまかした。僕は小さく息をついて頭を抱えた。

「一着返品する」

「えー!」

 彼女は反対していたが、僕がいかに部屋着を今、二着買うことが無意味かを重ねて説明すると、しぶしぶ納得してくれた。

「…………ぶー」

 いや、納得していなかった。帰り道、彼女は頬を膨らませ、行きとは違う意味で花を蹴散らし歩いていた。

「しょうがないだろ、三着買うのは予想外の出費すぎる。二着ならこういう選択が正しい」

「確かに、服買わせてくれたのにはとっても感謝してるけど、でも、好きなの買っていいって言った」

「それは、そうだけどさ……」

 彼女は機嫌を直してくれそうにない。どうしたらいいだろうか。そう考えたときに、一つの方法を思いついた。

「……帰りにお菓子買ってくか?」

 さすがに安直過ぎただろうか。

「ほ、ほんと!? 買ってく!」

 彼女はチョロかった。

 僕が安堵の息をつくと、彼女は「ありがとう」と、僕に微笑んだ。

「…………おう」

 そうして、僕らの生活は始まった。



 彼女との生活が始まって一週間が経った。とりあえず二人での生活の基盤はでき、最低限の取り決めも出来上がった。例えば、彼女の仕事先を探すときは僕も同伴する、などだ。それ以外のときは、彼女は外出禁止だ。危ないというのもあるし、ご近所さんに見られて噂をされるのも嫌だからだ。

「いただきます」

 手を合わせてから箸を取る。味噌汁に手を付けた。我が家の朝食は和食なのだ。朝しっかり摂らないと頭が働かない。一方目の前の彼女は、朝食からご飯というのがヘビーらしく、ジャムを塗った食パンをかじっている。眠そうな瞳をしていたが、何か思いついたのか、急に僕を見据えてくる。

「あ、しょういえあ、ありゃしゃん、ようちょおちゃえ」

「飲み込んでから喋れって言っただろ」

 彼女は急いで咀嚼してパンを飲み込む。

「今日の晩御飯ってカレー?」

「ん? そうだけど」

 どうして分かったのだろう。僕の疑問が伝わったのか、彼女が答える。

「冷蔵庫見たら、そんな感じの材料だったからー」

「あぁ、なるほど」

「お料理、手伝っていい?」

「だめだ」

「えー! どうしてー!」

「どうしてもだ」

 ユーリヤとの取り決めのひとつに、彼女が家事を手伝ってはならない、というのがあった。そもそも家事を行うのは自分であり、それを彼女に任せるというのは予定にないからだ。それに、彼女に任せたら何か大変なことが起こる気がする。

 取り決めにはしぶしぶ納得した彼女だったが、どうしても料理は手伝いたがる。僕的には一番やって欲しくないことだ。彼女が台所に立つだけで火事になりそうだ。

 僕は彼女を住まわせているが、別に信用しているわけじゃない。貴重な品は金庫にしまっているし、寝るときは自分の部屋に鍵をかけるようにしている。彼女に勝手な動きをされるのは困る。変なことをされて僕の予定を狂わせて欲しくない。

 彼女は僕を説得するために論理が破綻していることを並べ立てていたが、僕は全てを流して、席を立った。

「ちょっとー、話聞いてよアリさーん!」

「帰って来てからな」

「そう言って、帰ってくると『勉強するから邪魔するな』って言って鍵かけて部屋にこもっちゃうんだもん!」

「そろそろ大学行くから」

 僕は彼女の言葉を無視して、ソファーに置いてあった鞄を肩にかけ、玄関に立った。何故かユーリヤまで玄関についてくる。つま先を地面に数度突き立て、履き込む。

「それじゃ、帰りはいつも通り」

「うん、分かった」

「……変なことするなよ?」

「分かってるよ!」

 彼女は頬を膨らませる。しかし、僕が玄関に手をかけると、明るい声で言った。

「いってらっしゃい」

 僕は首だけで振り向く。笑顔の彼女が小さく僕に手を振っていた。

「…………」

 彼女は僕が大学に行くときにいつもこれをやってくる。正直、こういうのは困る。どうしたらいいのか分からない。本当に、分からない。

「……うん」

 僕は玄関を開け、そのまま大学に向かった。

 一日を過ごしながら、何度か急激に嫌な予感がした。どうしてだろう。まるで論理的ではなかったが、家で何か起きている気がしたのだ。もっと言えば台所だ。

 僕はその日、いつもより早く帰ることにした。

 家につき、玄関を開けたとき、予感というのは案外当たることを知った。

「……なんだよ、これ」

 思わず鼻を覆いたくなる臭いが立ち込めていた。何かが焦げ付いた臭いだ。台所に行くと、ユーリヤがエプロンをして台所に立っていた。

「げっ」

 僕の姿を認めた第一声である。そのまま、悪いことをしているのを見られた子供であった。彼女は火にかけてある鍋の前に立ち、おたまで鍋をかき混ぜていた。

「よお……何してんだよ……」

「あ、あのね! 違うの!」

「額に汗を浮かべながら目を逸らして早口でそう言うってことは、僕の予想通りってことだな……」

 案の定、彼女はカレーを作ろうとしていたらしい。

「うぅ……」

 彼女が夕飯に並んだ自作カレーを食べて顔をしかめている。

 今月分の雑費はもう全てなくなっているので、晩飯の材料を買い直すわけにはいかなかった。別に経済的に苦しいわけではないが、予定を崩すというのが問題なのだ。僕は予定通りに行動しなくてはいけない。一度くらい――、それをやってしまうと、だらだらと予定を崩し続けてしまう。それは、日々の積み重ねを否定する行為だ。

 だから、僕も彼女も失敗作のカレーを食べるしかないのだ。

 冷蔵庫には多少他の食材もあったのだが、それも彼女は全て鍋に投入していた。「入れれば入れるほどおいしくなると思って」らしい。

 まあ、僕の監督責任だ。仕方ない。次から気を付けよう。

「それにしても、苦いな……」

「うううぅ……」

 彼女は今にも泣き出しそうだった。

「無理すんなよ。ユーリヤには買ってあげたお菓子があるだろ。それでも食べてろよ」

「うううぅ……うまい」

「…………」

 彼女は無理矢理にでもカレーを完食するつもりらしい。しかもおいしいことにしたいらしい。無理がある。どう考えても無理がある。

 僕はカレーをできるだけ水で流し込むようにした。

「おい、ご飯ばかり減ってるぞ。ちゃんとカレーとの割合考えないと、後でカレーだけ食べることになって辛いぞ」

 彼女の皿にはもうほとんど白米が残っていない。彼女は先のことを考えない。常にその場しのぎで生きている。そういうのは気楽で楽かもしれないが、未来に苦しみが待っている。

 彼女の指摘すると、彼女はスプーンを咥えたまま俯き、肩を揺らし始めた。

「う……ううううぅ……うわあああああ」

 泣き出した。顔が歪み、目が赤くなっていた。

「お、おい、何だよ、どうしたんだよ」

 彼女が泣くことは初めてだった。カレーの苦さで泣いているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。僕は焦る。何かしてしまっただろうか。

「何? 僕、何かしたか?」

 彼女がふるふると首を横に振る。しばらくして、彼女の嗚咽が収まって来てから彼女が口を開いた。

「本当は……アリさんをびっくりさせて喜ばせたかったのにぃ……」

「え?」

 どういうことだ?

 彼女は目尻の涙を指ですくう。

「おいしいカレー作って、褒めてもらいたかったの……。私、お世話になってるのに……全然アリさんの役に立てなくて……」

「……そうか」

 確かに褒められるような出来ではないし、客観的に材料を無駄にしただけではある。僕の予定をことごとく彼女が狂わせてくる。

 しかし、それでも。僕は彼女に泣いて欲しくなかった。何か、僕が責められているようじゃないか。

「泣くなって……ほら、白米やるから」

 僕が彼女の皿に白米をのせても泣きやむ様子はない。

「あー……分かったって。じゃあ、今度から料理手伝わせてやるからさ」

「ほ、ほんとにぃ……?」

「ああ、料理だけじゃない。他のことだって手伝わせるって」

 勝手にやられるよりかはよっぽど良い。

「そっか……アリさん、ありがと」

 彼女は目の端に再び涙をためながら、笑顔でお礼を言った。手伝いたくて泣くなんて、そんなやつがいるとは思わなかった。

 やはり、彼女は笑顔がしっくりくる。泣いてるなんて、僕の方がはらはらしてしまう。

 それから、彼女には家事を手伝ってもらうようになった。



 ユーリヤとの生活も、一カ月も経てば安定してくる。

 彼女は家事を覚えるのは早かった。掃除はどうしても苦手なようだが、洗濯や料理は積極的に手伝ってくれる。料理は皮むきなどの簡単な作業しか任せられないが、洗濯は全て任せている。「将来の夢は良いお嫁さんだから」らしい。

 しかし、彼女の職探しは難航している。どこも雇ってくれない。彼女の風貌が影響していて、不法入国者だと思われているようだった。実際、そうなのだから反論できない。

 僕がコンビニで立ち読みをしていると、バイトの面接を終えた彼女が店の奥から姿を現した。俯いている角度から、今回もだめなようだった。

「どうだった?」

 それでも一応聞いてみる。

「多分、だめ……。ごめんね」

「そっか、じゃあ次だなー」

 彼女の伏せた目を見て、この際、家事を徹底的に教えて、家で働いてくれればそれでもいいかな――という考えが浮かぶ。

 そして、はっとする。

彼女が僕の部屋にいるのは、あくまでも仮宿だ。同居を続けたいわけじゃない。それじゃあ、何の意味もない。何を考えているんだ、僕は。

 最近、僕は何かおかしかった。少しずつ、じわじわと内側に気持ちが蓄積している。こういうものは、邪魔だ。僕の予定を狂わせる。一歩間違えれば今までの努力を無にしてしまう。

 帰り道では、彼女の口癖は少なかった。

 今日も日差しは強く、地を埋め尽くす白と、空中を漂う白によって、太陽光が体に照射される。じりじりと背中を焦がした。暑い。ユーリヤも服の首を掴んでぱたぱたと風を送り込んでいる。

 スーパーに寄ってアイスでも買ってあげようか――。いや、違う、そうじゃない。それは無駄な出費だろう。

僕は月初めに金の使い道の計画を立てる。彼女の菓子代や服代は雑費に計上される。そしてその雑費の限度額はとうに超えていた。

 計画し、それを毎日こつこつ実行する。それが僕だったはずだ。それがただひとつ、幸せになる道だったはずだ。それなのに、どうしてだ。

 母はいつも言っていた。

『毎日こつこつ努力しなさい。どんなに苦しくても、誰かに笑われても、足を引っ張られても、続けなさい。その積み重ねが、約束された幸福へ着実に導いてくれる』

 父は起業家だった。しかし、大きく失敗し、借金を負い、自殺した。それを踏まえての教訓なのだろう。母は僕にこつこつ勉強させた。苦しかったし、どうしてそんなことをしなくちゃいけないのか僕は分からなかった。だけど、そのおかげで今、こうしてお金を得て大学に通えている。

 僕のやり方は正しいはずだ。それなのに、彼女によりそれが最近逸脱している。

「あ、噴水だ!」

 ユーリヤが声をあげた。公園の噴水が目に入ったのだろう。冬人夏草が蔓延してから、水は貴重な資源となったが、日本は豊富な地下水があるために、潤っていた。こうやって噴水に水を通しても何の問題もない。彼女はさっきまでの悲壮感を脱ぎ捨てる。

「あ、おい」

 僕が呼び止める隙もなく、彼女は噴水へと飛び込んで行った。黄色い声をあげながら吹き上がる水を浴びている。あれではびしょびしょだ。帰りはどうするつもりなのだろう。

 僕は近くにコンビニがあることを思い出した。周りに人気がないことを確認してから、僕はコンビニへと走り、タオルを買った。戻ると、彼女はまだ噴水で遊んでいた。

 公園には、僕ら以外、誰もいなかった。昔はこの辺には、毎日子供がいたというのに、今の世界では、僕より年下の人物をほとんどみかけない。ラストチルドレンという言葉がある。それは二〇五五年生まれの子供だちだ。冬人夏草が世界的に蔓延したその年から、子供は生まれなくなった。子供が生まれる前に、母体が咲いてしまうからだ。子供というのは、幸福の象徴なのだ。妊娠するような状況になる人間は、幸福な人間だ。だから、死んでしまう。

 人類は、絶滅するだろう。

 浮浪者も、金持ちも同じように、平等に、滅びていくだろう。ゆっくりと、少しずつ、優しく衰亡していくだろう。これまでの歴史がどれだけ尊くても、これからにどんな可能性があっても、全て、まるで最初から何もなかったかのように、冬人夏草は、世界を圧倒的な白で覆うだろう。

 その運命を退けるには、冬人夏草を絶滅させる他ない。

「アリさーん! どこ行ってたの! 一緒に遊ぼうよー!」

 彼女が大声で僕に呼びかける。

「やだよ。濡れるし」

 僕が断っても気にする様子はなく、水遊びを継続していた。

 僕はベンチに座り、その姿を眺めていた。

 まるで舞うように、水と戯れていた。その姿は、金髪ということもあり、絵になっていた。ユーリヤは本当によく笑う。はたから見ると、幸福そうに見える。ドーパミンなんて溢れていそうだ。それなのに、彼女は咲いていない。どうしてだろうか。何かが、あるのだろうか。初日の夜のことを思い出す。あのときの彼女は、今の様子とは明らかに違った。やっぱり、何かがあるのだろう。そしてそれを、彼女は僕には語ってくれない。僕は、それが知りたかった。でも、僕から聞くことはできない。どうやって聞けばいいのか分からない。

 そもそも、そこまで深入りするのは贅沢な気がした。

 僕は、こうやって幸福そうな彼女を見ているだけで満足だった。彼女の笑顔を見られるなら、予定が多少狂っても良いと思ってしまう。今月分の僕の食費を削っても、日々の勉強時間を減らしても、彼女の笑顔を見たくなってしまう。他のことが、どうでもよくなってしまう。例え、自分の命をすり減らしても、見たくなってしまう。

 ユーリヤの笑顔は、麻薬だ。

「あー、楽しい!」

 やがて彼女は水を全身からしたたらせながら戻ってきた。僕は黙ってタオルを渡す。すると彼女は「ありがとう」と顔をくしゃっとして笑う。

「……」

 これだ。この気持ちだ。何なんだ。こういうのは邪魔だ。僕は、死にたくない。死なないためには、こういう感情は、邪魔なのだ。

 こつこつ、毎日、毎日――僕は努力をしてきた。周りが僕を笑っても、友達が減っても、決して計画を狂わせなかった。早く偉くなって母を楽にしてあげたかった。早く幸福になって母に分けてあげたかった。僕は将来に約束された幸福の道を、決してはずれないように、慎重に歩んできた。幸福のための準備を一回も怠らなかった。

 それなのに――、僕が九歳のとき、日本に冬人夏草が蔓延し、人間は、幸福になれなくなった。

 約束された将来はなくなった。

 今までの努力は何だったのか。全て無駄だったのか。

 ――違う。そうじゃない。

 いつか、誰かが、冬人夏草を駆逐するだろう。そのとき、幸福になるのは僕だ。僕みたいに、毎日準備をしてきた人たちだ。

 だから、僕は、今までの努力を無駄にしないために、来たるその日のために、決して死ぬわけにはいかない。努力は報われなくてはいけない。だから、死ねない。

 幸福になるのは、僕のはずなのだ。絶対に、ユーリヤのような人ではない。

 そのはずなのに、どうして僕は、笑顔のユーリヤを見ると、ほっとするのだろう。

「ふあーぁ」

 彼女がタオルをかぶり、僕の隣に座って伸びをした。

「アリさんも遊べばよかったのに!」

「風邪引くだろ」

「えー? そんなことな――くしゅんっ」

 彼女が小さくくしゃみをする。僕の顔を窺うようにそっと上目使いで見てきた。

「ほら、早く家に帰って、シャワー浴びなって」

「大丈夫だよ! ほら、ちゃんとタオルで拭けば」

 彼女は服の中にタオルを入れて体を拭き始めた。周りに人がいなくてよかった。

「……なあ、ユーリヤ」

「ん、何?」

「アリとキリギリスって童話、知ってるか?」

「知ってるよ。アリが冬に向けて準備をしている中、キリギリスは毎日歌って踊ってて、そして、いざ冬になって、何の準備もしてなかったキリギリスは死んじゃったって話でしょ?」

「ああ、そうだ」

 それが示す教訓は簡潔だ。来たる困難のために準備せよ。それだけである。

「ユーリヤって、どう見てもキリギリスだよな」

「かもねー。アリさんは、アリだよね」

 ユーリヤは直情的だ。計画性というものがまるでなく、その場で思ったことをただ口にし、その場でしたいと思ったことをただする。

「そんなんじゃ、いつ咲くか分からないぞ」

「咲く、ね。……確かにそうかも」

 彼女は微笑んで答える。その反応が意外だった。あまりに屈託なく笑うので、ひょっとしたら彼女は、ドーパミンの話を知らないと思っていたのだ。

「怖くないのか?」

「んー、怖くないって言ったら、それは嘘になるよ。……でもね、私は、咲きたい」

「……は?」

 何を言っているのか、よく分からなかった。咲きたい、そう言ったのか?

「幸せになると咲くんでしょ? それだったら、私は咲きたいよ。ずっとそう思ってる」

 思わず彼女を見るが、彼女はいつも通りににこりと笑うだけだった。

「…………どうして?」

「だって、人間って、幸福になるために生きてるんだよ」

「幸福に、なるために……」

 そうだ。人間は、お金を稼ぐために生きているわけではないし、子孫を残すために生きているわけでもない。人間という生き物は、幸福、ただそれだけを目指して生きている。他の全てはただの手段であり、幸福が唯一の目的だ。どんな自己犠牲にも、そこには自らが納得する幸福が必ずある。

 人間は皆、幸福になるために生きている。

「でも、人間は幸福になると死んじゃうようになっちゃったよね。でも、だからって、幸福にならずに生きているのに、一体何の意味があるのかな?」

「……意味、なんて。そんな。……人間は、生きていることそれ自体に――」

「意味があるのかな? 死んでるように生きてるのって、生きてるって言えるのかな。ただ毎日を、不幸せに浪費している生は、人間の生なのかな」

「…………」

「知ってる?」

 彼女は、清々しかった。

「キリギリスはね、準備をしてこなかったことをアリに笑われた後にこう言ったの。『自分はしたいことはもう全部した。自分の人生に、一片の悔いもない』ってね」

 世界が揺れた。僕を構成する根底に、大きな杭が突き刺さった。

「で、でも……。いつか、誰かが、冬人夏草をきっと滅ぼす。そのときに幸せになるのはアリじゃないのか?」

「どうだろうね。分からないよ。本当にいつか誰かが冬人夏草を滅ぼすのかな? いつだって、将来のことは分からない。一寸先は闇なんだよ。分かることは今のことだけ。将来のために準備することなんて、何もできないんだよ。人間は、したいことを、したいときにするべきだと思うなー」

「そ、それは……」

 僕は、混乱していた。何も言えなかった。

「幸福になるのはね、アリさんが思うより難しいことだよ。一生かけて、ようやく見つけるんだから」

 それに。

 私は幸福にはなれないんだ――。

「幸福になるには、自分を必要としてくれる人が、必要だから」

 彼女は寂しげな目でそう言った。乾いたぬるい風が吹き、地面の花を巻き上げた。彼女の背景に、半透明の白い花びらが舞い、彼女をはかなげにうつし出した。



 声が聞こえた。何回も反芻し、僕の心の奥深くにある声。

『努力は決して無駄にならない。毎日の積み重ねは、何よりも尊くて、大切なものなの。あなたは毎日、準備をしなくちゃならない。そうすれば、必ず将来、幸せになれるわ』

 まどろんだ意識がゆっくりと引き上げられていく。瞼の裏の遠くに光を感じて目を開けた。

「朝、か……」

 よく眠れなかった。母の夢を見ていた気がする。目の奥がずんと重い。

 机の上で伏せていた。勉強をしている途中で寝てしまったらしい。いよいよ研究者選抜試験は明日だ。追い込みをかけなくてはいけないが、どうしても勉強が手に付かなかった。それでも、僕は受かるだろうが。

『不幸せに浪費している生は、人間の生なのかな』

 気が付くとユーリヤの声が脳内に響く。まるで呪いのように、僕の集中力をごっそり奪っていった。

 僕はそもそもどうして研究者選抜試験を受けようと思っているんだ? そんな疑問が頭を支配してしまう。もちろんそれは、トップ研究員は高給取りだからだ。世界への貢献度も大きい。自己実現がなされ、幸福になれる職だと思ったからだ。いつか誰かが冬人夏草を駆逐したとき、僕は幸福になれる、そのはずだ。……だけど、それも揺らいでいる。

 別に、何がしたいわけでもない。漠然と、僕は、自分の準備をそのまま使える場所に移っていたに過ぎない。それが、きちんと整備された幸福への道だから。

 冬人夏草に対抗する菌を開発したいか? そう聞かれたら、できたらいいと思うけど無理だと思う、と、そう答える。今まで多くの天才が取り組んできて、不可能だったんだ。それを、僕ごときが、何かできるわけがない。

 幸福にもなれない。研究員としてのモチベーションもない。

 じゃあ、何のために僕は研究員になるんだ……?

 分からない。……分からない。

 じゃあ、それなら。

 僕の長年にわたる準備は、この、研究員になるという成果に帰結される。

 その成果が疑われたとき、じゃあ、僕は今まで何の準備をしていたことになるんだ?

 準備そのものだった僕の人生は、一体何だったんだ?

 それを自問すると、恐怖で体が震える。僕がまるで恐ろしい過ちを犯してしまった気分になる。冷静になれ。まだ、分からない。僕が生きている限り、希望は残っている。僕の努力が実を結ぶ機会は必ずあるはずだ。努力をした人が損をするなんて、そんなこと、ありえるわけがない。そんなことは、間違っている。

 自分の体を抱いて、まるで言い聞かせるように心の中で唱えた。

「アリさーん?」

 ドアがノックされて、我に返る。

「そろそろ大学行く時間じゃないの?」

「あぁ、分かってる。ありがとな」

 扉越しに返事をする。彼女はいつの間にか僕より先に起きるようになっていた。居間に行くと、二人分の食事がテーブルに置かれていた。ご飯に味噌汁、そして鮭という和の朝食だった。

「挑戦してみたんだー!」

 彼女がにへへ、と笑う。

「……すごいな」

 純粋に驚いた。僕に毎日世話をされていた彼女が、今や僕を世話しようとしている。促されるままに僕は席につき、いただきますの挨拶をしてから味噌汁を口に含んだ。正直、味が濃すぎだ。それを伝えようと目線を上げる。

「…………」

 ユーリヤが、僕を注意深く観察していた。両手を胸の前で組み、何かを待つようにしていた。僕は数秒考えて、口を開いた。

「……おいしいよ」

「ほんと? よかったー!」

 彼女が大袈裟に飛び回る。僕はそれを見て、表情が緩んだ。僕は太腿をつねることはなかった。何となく、そうしたい気分だった。

「それにしても、どうして急に料理なんて?」

「昨日、帰って来てから、元気なかったから。手料理で元気印作戦なのです」

「あー……」

 心配させてしまったみたいだった。

「大丈夫だよ。ちょっと難しい問題があってね」

「あ、そうだったの? なーんだ、それなら良かった」

 こういう日常の会話が、ちくりちくりと僕の心を刺す。凍りついた何かを崩し、氷解させようとしてくる。僕の完璧な人生を、壊そうとしてくる。そして僕は、その甘美さに、最近、身をゆだねている。

 それが、正しいことのように思える。

 食器の片づけは僕が行い、僕はぼうっとした頭で大学へと向かった。

 道を歩いていると、道端に一人座り込んでいる浮浪者を見つけた。黄色いキャップをかぶっている。三十代後半くらいだろうか。ユーリヤが襲われていたのもそうだが、この辺にもいよいよ浮浪者が多くなってきた。僕もそのうち引越すことになるかもしれない。浮浪者と目が合う。ぎらぎらした欲望丸出しの視線を僕に向けてくる。僕は咄嗟に視線を逸らした。

 彼女の一人での外出は、朝のみ許可していたが、それも考え直さなくてはいけないかもしれない。その話をすると、彼女は渋るだろう。ユーリヤのことを考え、帰りに、何かお菓子を買って帰ろうと思った。出費はかさむばかりだ。予定はとうに狂っている。それでも僕は、今の生活を守りたかった。

「……あぁ、僕は本当に、何をやっているんだ」

 彼女がいつもそうしているように、道を埋め尽くす花を蹴散らしてみた。冬人夏草はその花びらで光を散乱させながらふわふわと漂う。その輝きが、どこかユーリヤの金髪を想起させた。

 多分、僕は、近いうちに死ぬだろう。

 彼女に「ありがとう」と言われる度に、彼女が笑顔を深める度に、彼女の無邪気な姿を見る度に、僕は死へと一歩一歩確実に近づいている。

 このまま彼女と生活を続けていたら、幸福になる。

 もちろん、僕はそれを受け入れるわけにはいかない。そういう確固とした決意をしている。でも、たまに、思う。このままだと、自然と、流れるように、死んでしまうのではないかと。

「アリさーん!」

 背後から、僕を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、ユーリヤだった。僕の鞄を抱えていた。はっとして自分の姿を確認すると、手ぶらだった。いったい何をしているんだ。鞄を忘れるなんて、今までこんなことはなかった。この鞄には、母の写真が入っている。大切なものだ。いつも肌身離さず持っていなければならないものだ。彼女が僕のもとへ行きつき、鞄を差し出してきた。

「忘れ物だよー。今日、これ、いらないの?」

「いや、いる。ありがとな」

 僕が荷物を受け取った瞬間――、目の端で何かが動いた。そちらに視線を動かすのと、荷物が奪われるのとは同時だった。目の前を人影が横切る。数瞬、呆然と立ち尽くした。僕の荷物を奪った浮浪者が逃げる背中が見えた。全ての理解が追いつき、行動へと繋がる。

「待て!」

 追いかけるが、彼は近くに置いてあった自転車に乗り、僕と距離をぐんぐんと広げていった。その鞄を返せ。荷物なら全部やる。だけど、写真だけは――。

 黄色いキャップの浮浪者の姿が見えなくなり、僕は走るのをやめた。

「くそっ! ふざけやがって!」

 コンクリート製の塀を殴る。悔しかった。

 油断した。浮浪者がいるのなら、警戒しなくてはならなかった。僕がぼうっとしていたばかりに、荷物を奪われてしまった。

「ご、ごめんね……」

 ユーリヤが僕に追いつき、そっと声をかけてきた。

「あいつ、中心街のやつだな……今から取り返しに行く」

「だ、だめだよ! 浮浪者がたくさんいるでしょ! 危ないよ」

「うるさい。荷物を取り返す」

 今からでも行ってやる。僕が歩き出そうとすると、彼女が僕の服を引っ張って引きとめた。振り払おうと振り返る。

 彼女は、目に涙を溜めていた。

「……お願い。行かないで」


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