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教授に呼び出されて研究室を訪ねたというのに、どういうわけか教授は不在だった。この大学に入学して三年、ここまで適当な教授には出会ったことがない。しかしこれで名誉教授、薬学の権威だというのだから分からない。
仕方がないので、書類でごった返している棚の後ろからパイプ椅子を取り出し、座って待つことにした。少しすると、教授が戻ってきた。
「ああ、在原くん。もう来ていたか」
教授は片手にカップを持っていた。コーヒーを淹れてきたのだろう。教授の目の下には大きな隈があり、白髪交じりの髪は薄くなっている。のっぺりとした印象で、表情には幸薄さが漂っていた。
「おっと、きみの分もコーヒーが必要だね」
「いえ、いらないですよ。教授、それより用件は何ですか」
教授はデスクにつき、背もたれに体重を預け小さく息をついた。
「まったくきみは変わらずせっかちだね。もっと余裕を持って生きなよ」
「突然呼び出したのは教授ですよ。僕にも予定があるんですから、できるだけでいいので手短にお願いします」
「予定? この後、何かあるのかね?」
「家に帰って勉強です。一日、三時間は集中して勉強すると決めているんです」
「はっ、そんなの予定に入らないだろう」
教授は見下したように口元をつり上げ、そしてコーヒーを一口すすった。
「……でも、そんな、忠実な実行力と、生真面目さを私はとても評価している」
「はあ、そうですか。ありがとうございます」
用件は何なのだろう。この前のテストの結果の話だろうか。きちんといつも通り完璧にできたはずだけれど。
「きみの機嫌をとる意味で、雑談は省略しよう。用件というのは、研究者選抜試験を受けないか、という話だ」
「研究者選抜試験、ですか」
僕は目を細める。研究者選抜試験というのは、優秀な学生が、トップの研究機関に直接入るために受ける試験だ。その試験を通れば、この大学を卒業したことにもなるし、給料の良い研究機関に就職が決まるという、デメリットがまるでない試験だ。
ただ、当たり前だが、全国一斉に行われる試験はとてつもなく難しい。倍率は二百倍を超える。
「この国に、もう優秀な人材を放っておく余力なんてない。冬人夏草を根絶する薬でも何でも研究機関に行って作ればいいさ」
「それはとてもありがたい話なんですが……」
少し、引っかかる点があった。僕は確かに日々こつこつと勉強をしてきて、この薬学部でも限りなくトップに近い。しかし、真のトップは別にいた。年に一回行われる研究者選抜試験は、各大学から一人しか出せない。その枠は、僕には回ってこないはずだった。
「トップの彼、椎名くんでしたっけ。彼はどうしたんですか」
「彼なら〝咲いた〟よ」
「えっ……?」
教授は大した感慨もなさそうにコーヒーをすすりながら窓の外を見ていた。
「彼、研究者選抜試験を受ける前から研究機関からお呼びがかかったみたいでね。そのことが嬉しくて幸福になってしまったみたいなんだよ」
〝咲いた〟、のか。
日本で冬人夏草が蔓延してから十二年。皆それぞれ対策をして咲く人はめっきり減っているのに、それでも咲いてしまったのか。
「承認欲というのは、三大欲求クラスに強いものだからね。それが満たされるというのは、さぞ幸福なんだろう」
僕が俯いていると、「まあ、不幸な私らには考えても分からないよ」と教授は言った。
「それで、どうする? 私としてはぜひきみに受けてもらいたいんだが」
答えは、考えるまでもなかった。
「もちろん、受けさせてもらいます」
僕の返事を聞き、教授はうっすらと微笑んだ。
「そうか。よかった、きみは咲かなくて。この話をしたら、椎名くんみたく承認欲が満たされて、幸福になってしまったらどうしようかと考えていたんだ。在原くん。きみはずっと不幸でいてくれよ」
「……ええ」
「あー、この後、椎名くんの葬儀があるんだが、出席するかい? きみは仲良くしていただろう」
教授は目を細めてからかうような笑顔をともして言った。僕の答えなんて、分かっているだろうに。
「いえ、なおさらこの後、勉強しなくてはいけないので」
教授から研究者選抜試験の資料をもらってから大学を出て、徒歩で帰宅する。サングラスをするのも忘れない。視界は見渡す限り花で真っ白だった。空中にも空にも漂っている。世界が一面白で覆い尽くされていた。。
八月の夏真っ盛りなのでもちろんのこと暑いのだが、気温は三十度をなかなか上回ることはない。空中を漂う冬人夏草の花びらが太陽光を反射するからだ。昔の日本は四十度なんて日もあったそうだ。二〇六七年の現在では考えられない。
サングラスをしているのは、道路、空き地、家、全てを平等に覆う冬人夏草の反射光で失明しないようにである。地面を白で覆われると、それは雪同様に強い光で網膜を焼く。外に出るのにサングラスをするのは今や常識である。冬人夏草の種子が花粉症を起こさないのが不幸中の幸いだ。もしそうならマスクもしなくてはいけなくなる。不審者スタイルになってしまう。
僕は鞄の内ポケットから一枚の封筒を取り出した。その中から写真を取り出す。古びた写真で、ところどころ折れ曲がっている。そこには、僕と、母が映っていた。
「母さん……僕、やったよ」
研究者選抜試験を受けられるなんて、名誉なことだ。日々の努力が実った結果だろう。
今日まで僕は一日も勉強をさぼったことはなかった。毎日きっちり三時間以上は勉強する。一日では小さいかもしれないが、毎日これを続けると、努力をしてこなかった人とは絶望的な差をつけることができる。
僕は、母の言いつけを守って日々努力を続けてきたのだった。
写真を丁重に扱い、封筒に戻す。それを鞄に入れた。
途中でスーパーにより、惣菜を買うことにした。少し寄り道だ。道路に転がる花を蹴り散らしながら角を曲がった。蹴られた花はふわふわと空中を漂う。まるで薄紙で作った花のようだ。この花もかつて人だったのだと思うと少し胸に引っかかるものがあったが、それも今は慣れた。
それにしても家まで徒歩四十分は遠い。寄り道をすれば大学を出てから家につくまで一時間は歩く。車やバイク、自転車は花びらでスリップするので危ないし、都会だというのに、スリップ防止のついたタイヤを備えたバスは一日二本しかない。人がいないのだ、仕方がない。
歩きながら、ぐるぐると頭の中を巡るのは、友のことだった。
「椎名、お前、咲いたのか……」
ふと、口に出してみる。切磋琢磨した仲間だった。
「おめでとう」
慣習で、〝咲いた〟人間にはそう言うことになっていた。彼は幸福になったのだ。彼は、冬人夏草を根絶する菌を開発すると言って薬学部に入学してきた。
冬人夏草が世界に蔓延してから十二年が経った。そして、それは世界の風景をがらりと変えた。
冬人夏草は、キク科の植物で、茎や葉、根が存在しない。花単体で存在し、ひとつの花が約一グラムと軽いのが特徴である。肉眼では見えないナノスケールの種子を漂わせ、細胞に寄生、体内で種子を分裂、増殖させる。体内に種子が入り込んでから十日もすれば体中びっしり種子の巣となるのだ。しかし、それだけでは人体に何の影響も及ぼさない。その後なのだ。
脳内で一定量以上のドーパミンが放出されると、その種子が一斉に花を咲かせる。
何かのスイッチを押されたように血の一滴も残さず、全てを花に変えてしまう。そして透き通るような白い花はわずかな風にも乗り、空中へと飛び立っていく。質量保存の法則により、その人の体重の分だけ全て花になる。成人男性が咲いた場合、放出される花の数は五万輪をくだらない。
ドーパミンは、人が幸福を感じたときに放出される物質だ。つまり、人が幸福になると咲くのだ。冬人夏草の種子を宿していない人間はもういないだろう。地下シェルターにこもったとして、食べ物は外から調達してくるしかない。その食べ物には冬人夏草の種子が含まれている。温度変化、圧力変化に強い冬人夏草の種子から逃れる方法はない。
こうして僕ら人類は、幸福になることを禁止されたのである。
七十億人いた人類は、二十億人にまで減った。ほとんどの人が咲いた。それ以外にも冬人夏草に起因する戦争でも多くの人が亡くなった。咲くのを防ぐために、「促鬱剤」を飲むことが勧められ、結果、鬱になって自殺した人も相当数いたはずだ。正確な数は覚えていないが、国内でも二百万人はいたと思う。
人類が生き残る道は、幸福にならず、不幸のどん底にも落ちず、曇天のような気持ちを安定させ続けることだけだった。
冬人夏草の発祥地であるロシア、そして繁栄を極めていたアメリカ、中国はすぐに崩壊した。皮肉な話だが、日本人は多く生き残った。だからこそこうして一応国の形は保たれ、生活が続けられている。
しかし、もちろん統治が及ばない場所もある。そこは無法地帯になり、ときに無法者たちは統治が及んでいる場所にも手を出す。
その一例が、目の前の光景だ。
「やめて、ください……!」
スーパーの裏で、二人の男に、少女が荷物を奪われようとしていた。ぱんぱんに膨らんだリュックにはさぞ貴重な品々が入っているのだろう。男たちは、浮浪者のようだった。おそらく、スーパーの廃棄を漁りに来たのだろう。治安が悪いのは、僕の実家の方だったはずだが、こっちにもいよいよ流れてきたか。
緊急事態なのに、僕は行動できずに、どうでもいいことばかりが頭の中を流れていく。人が襲われているのを間近で見るのは初めてのことではないはずなのに、何度見ても慣れない。呼吸が浅くなり、液体窒素で凝固されたように一ミリも動けなくなってしまう。
息を大きく吸い込む。胸をおさえて、心臓の動きを感じる。息を吐き出しながら、心臓を握るようにしていく。こうすると心拍数が下がる。僕がテスト前にいつもやっている方法だった。
大きく息を吸い込む。
「――だああああぁぁぁっ!」
僕は喚きながら、肩掛け鞄を振りかぶって駆けた。浮浪者が糸に引かれたように僕へと視線を移す。鞄を振り回すも、案の定、避けられる。こんな大振りでは当たるはずがない。もともと、威嚇が目的だ。
「きゃっ」
しかし、予想外なことが起きた。
少女が、僕の声に驚き、リュックを離してしまったのだ。浮浪者たちは目的のものを手に入れ、そのまま走り去っていく。一日六時間以上、机に向かっている僕では追いつけそうもなかった。
大した動きもしていないのに体から汗が滲み、呼吸が狂う。膝をついておさえてから、尻餅をついている少女に視線を向けた。
「大丈夫……?」
少女は、金髪だった。深い蒼色の瞳をしており、髪は肩甲骨あたりまで伸ばしていた。服装はよれよれの白いワンピースであり、土汚れもついている。サングラスもしておらず、髪もくしゃくしゃで、一言で言えばみすぼらしかった。ロシアからの不法入国者だろうか。
僕が差し出した手を、彼女が掴み起き上がった。
「あ、ありがとう……でも、荷物、とられちゃった……」
眉を下げ、俯く。僕にも責任があるので少し気まずくて、目を逸らしてしまった。
「まぁ、仕方ないさ。一人できみみたいな人が歩いてたら、そりゃあ狙われるよ。ここは治安が良いとは言え、比較的、だからね。今度から親と来なよ」
見た目は中学生くらいだろうか。こんな子供が一人で外に出るのは危険極まりない。
「……荷物……」
彼女は顔を上げない。よほどショックなのだろう。
「何か大切なものが入っていたの?」
僕も鞄の中にはとても大切なものが入っているのでその気持ちはよく分かった。
が、しかし。
「お菓子が入ってたの……」
「お菓子?」
「うまい棒、十本……」
少女は今にも泣きそうな表情で僕の服の裾を掴んできた。
「……、えっと。他にも大事なもの入ってたよね、ぱんぱんだったし」
「……? 他には服が入ってたくらいだよ」
「このご時世、服の方がよっぽど重要じゃないかな……」
そう言うと、彼女はきょとんとする。
「どうして?」
「どうしてって……。だって、お菓子はなくてもご飯があればいいし。服は明日とかに絶対に必要になってくるだろ。お菓子は別に絶対必要なわけじゃない」
彼女はみるみる表情を曇らせた。そして爆発したように言う。
「お菓子の方が必要! 大事だよ!」
きゃんきゃんと大声を上げる。あまり大きな声を出されると、僕が不埒者だと思われてしまう。
「あー! 分かった分かった。お菓子の方が重要なのな。理解した」
「そう、だよ……お菓子……うぅ……」
彼女は目の端に涙を溜め始めた。泣くほどのことだろうか。
「…………あぁ、もう」
しかし、僕にも責任があるのだ。大声を出さないで別の方法で助ければよかった。それに、うまい棒は一本三十円。十本で三百円だ。それくらいなら、いいだろう。
「買ってやるって。それでいいだろ?」
「ほ、ほんと!?」
少女が目を輝かせて僕を見上げる。表情がころころと変わる人だった。それがとても新鮮だった。冬人夏草が蔓延しているのに生き残った人間というのは、感情の変化が乏しい人間に他ならないからだ。
「ありがとう!」
彼女がにこっと笑い、僕の手を掴んだ。
瞬間、胸の中にあたたかなものが広がる。胸の奥に締まるような感覚があり、僕は思わず笑顔を作りそうになる。
「…………」
しかし、僕は笑わなかった。太腿をつねることによって笑いを殺した。笑顔になると、ドーパミンが放出されるからだ。笑ったくらいのドーパミン放出量では咲かないが、何かが重なって一定量以上のドーパミンが放出される恐れがある。笑わないに越したことはない。
人の純粋な笑顔を見るのは何年振りだろうか。最後に見た笑顔は――、母だろうか。
彼女がスーパーの方へ駆けていく。そして振り返り、再び笑顔で僕を呼ぶ。
その笑顔は、僕を戸惑わせた。
「なあ……それでよかったのか?」
「うん!」
スーパーからの帰り道、彼女の手にはヒモQがあった。
「散々うまい棒って言ってたのに」
「こっちの方がおいしそう!」
「……そっか」
どれだけ計画性がないのだろうか。全てその場の気分で決めているように思える。僕とは正反対のタイプだ。性格は合いそうにない。
「きみってあれだよね、見た目中学生くらいなのに、中身小学生だよね」
僕がそう言うと、彼女はぴたりと動きを止める。数歩先に進んだ僕が振り返ると、彼女はわなわなと肩を震わせていた。
「ひっどい! 私これでも十六歳だよ!」
「えっ、ほんとに?」
「ほんとだよ!」
とても信じられなかった。僕は二十一歳だから、五歳差か。
彼女は「本当に失礼だよね」とぶつぶつ言いながら、歩みを戻す。僕はそんな彼女を横目で観察した。やはり、不法入国者なのだろうか。この風貌は、日本人には見えない。しかし、日本語が上手い。違和感がない。そうなると、一般の入国者か。結果、そう判じた。
「よし、じゃあ警察に行こう。家まで送ってもらうといいよ。そこまで付き合うから」
「それなんだけど……」
「何?」
彼女が気まずそうに僕をちらりと見た。警察に行くのを渋るということは、やはり不法入国者だったか。
しかし、返事は予想外のものだった。
「私、家、ないんだ……」




