プロローグ
「本日 私たち二人は 皆様の前で結婚の誓いをいたします――」
ホテルのロビーには豪奢なシャンデリアがぶらさがっている。それとは裏腹に、結婚式の様子はどこか地味で、質素だった。ロビーにレッドカーペットがしかれているだけであり、花嫁と花婿こそ着飾っているが、料理を並べるテーブルもないし、まるで小学校の集会のように、規則正しく並べられた椅子に参列者が座っているだけである。
僕は参列者の一人として、席についていた。最前列だ。この日のために買ってもらった純白の子供用のスーツを着て、二度目の結婚式を挙げる母を間近で見ていた。
背中がむずむずするのは、僕の背が低くてやけに長い背もたれを十分に使えないからなのか、それとも、着飾っている母を見るのが初めてだからなのか。
「今日からは心をひとつにして。互いに思いやり、励ましあい、力を合わせ――」
母と、二週間前に母から紹介された男が声を揃えて宣言文を読む。
二人は、笑ってこそいないが、内面から幸せを滲みださせている表情をしていた。
ふと、後ろから「子供がかわいそうよねぇ」と聞こえた。僕は目を伏せ、そっと後ろを見た。口元を覆って隣の人と話をしていたおばさんは、僕と目が合うと小さく咳払いをして、わざとらしく姿勢を正した。
そのおばさんは、黒のワンピースを着ており、夏場だというのに腕も足も黒に包まれ、肌の露出が極端に少なかった。
喪服だ。
ざっと後ろを眺める。華やかな白色を基調とした服装の人と、それとは逆に黒を基調にした服装の人が約半々でいた。まるでオセロのようだと思った。
実感が、まるで湧かなかった。
二週間前、突然に宣言されたそれを、十二歳の僕の感覚は受け入れなかった。
今日、僕も、喪服を着てくるべきだったんじゃないだろうか。
「母さん……」
父は僕がまだ小さい頃、起業に失敗して多額の借金を残して自殺した。母は、僕を女手ひとつで育ててくれた。僕に、いつも笑顔で接してくれていた。喧嘩なんて一度もしたことがなかった。母は幸福だと、はたから見たらそう見えただろう。
でも、子供ながらに理解していた。母がどれだけ苦労しているのかを。それでも母は文句ひとつ言わなかった。
だからだろう。僕は初めての母のわがままを、どうしても叶えなくてはいけない気がした。そうして、ここまで来てしまった。
「――夫婦になることをここに誓います」
宣言が終わった。母が、ちらりと一瞬僕を見て、笑顔を浮かべた。
『毎日こつこつ努力しなさい。どんなに苦しくても、誰かに笑われても、足を引っ張られても、続けなさい。その積み重ねが、約束された幸福へ着実に導いてくれる』
母の口癖を思い出す。
「あっ――」
突然、加速度的に胸の中にざわめきが起こった。胸の奥で一斉に孵化するような膨張する感覚だ。思わずえづきそうになるそれをおさえながら、僕は席に座り続けた。
母と男が向かい合う。
そしてにこりと笑顔を浮かべ――本当に幸福そうな笑顔を浮かべ、少し紅潮した頬を、お互いに近付ける。
二人の顔が近づくにつれ、僕の心臓がうるさくなる。何もかもめちゃくちゃにしたくなった。なんとしても止めなくてはいけない気がした。
しかし、僕はどうしても席を立つことができない。
そうしているうちに、二人は口づけを交わした。
瞬間、ぱっ――と。母の頭に一輪の花が咲いた。細い花びらで、全体は直径五センチほどある。茎や葉はなく、花単体である。血を失ったような白色で、薄く、半透明であった。気味が悪いほど純麗で、目を背けたくなるほど綺麗だった。
内側から溢れ出すように、その花が咲き乱れ、母の顔を覆った。同じように花婿の顔も咲き乱れていた。ドレスが内側の膨張に耐え切れず、裂ける音がした。中からは白い花がこぼれる。母と男が倒れた。まるで傘を開くように、ぽん、ぽん、と次々と母と男の体から花が咲く。体全てが覆われても、内側からまだ溢れてくる。もこもこと、ただただ、母の肉体は花になっていった。
後には、数万輪の花だけが残った。