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幻獣処刑人  作者: 寄笠仁葉
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6

 そしてもう片方は、俺の知らない怪物だった。

 直感が、行け、と言った。だが俺はすぐには足を動かさなかった。

 行って、何とする? ――この理屈とぶつかった。

 だって、そうだ。これだけでは何が起こっているのか全然わからない。そもそもあの少女がいるというだけでかなりの非常事態だというのに、さらに知らない同族がいて、人払いもあやしいというのに、この街中で姿を変えている。若干のズレはあったが、変身はほぼ同時だった。即座に対応したということなのか? 距離から考えて、図書館の外だが公園の中には入っている。他に誰かいるのか? 何も知らない人に見られている可能性は? 何のために変身したのか?

 やはり、戦いが開始されたのか?

 そんなことを考えているうちに、二つのシグナルが同時に動き出した。俺から――図書館から、遠ざかるように。

 理屈は負けた。俺は『幻獣図鑑』を書架に()()()()戻した。さらに、館内は静かに、という貼り紙が目に入ったが、しかし、これはもう走るしかなかった。なにしろシグナルの移動は素早く、俺が感知できる範囲からすぐにでも出て行ってしまいそうだったからだ。

 仕方なく、過ぎ去っていく殆どの人から厭な視線を感じながら、俺は外へ出た。バイクではなく自転車で来たことをまず後悔し、すぐにバイクでもうまく追えるかどうかわからなくなった。二人の反応は()()()へ向かった。そのまま遠くなる。たまげた話だが、建物の上を移動しているらしい。


「その判断はどうなんだ……?」


 結局、俺は自分の足で走って後を追うことに決めた。すぐに樹木に囲まれた公園を抜ける。その先はアパートとマンションと、あとは何に使っているかよくわからないテナントビルばかりで、確かに飛び移っていこうと思えばいけるものらしかった。反応は依然として上の方にある。だが人間状態の俺は、真っ直ぐ動く二人と比べて、所々曲がり角と斜めに伸びた道を処理しながら進まなければならなかった。当然、その度に引き離されていく。最初の方はそれでもまだ捕捉できていたが、感知は徐々に途切れ途切れになり、なんとか消えた先を推測しながら進んでは見つけてを繰り返し、そうして、とうとう何もわからなくなり、俺の体力も限界を迎えた。

 こんなに走ったのはいつぶりだろうと考えながら、どうしてこんなに必死になって走っていたのだろうと考えながら、俺は立ったまま息を整える気力もなくなって、そのままどこかの家の(へい)を背もたれに、アスファルトの上へ座った。

 充足感がなく、心地良くもない疲れだった。はっきりと、徒労だった。そのことばかりが頭の中をぐるぐると回って、嫌な気分にさせてくれる。脇腹が痛む。いくら息を吸っても酸素が足りない。口の中が渇いている。周りを見渡しても、自販機はない。あったとしても、もう少し休まなければそこまで行く気にはならないだろう。どこだここは、と思う。図書館のこちら側に来たことさえなかったというのに、随分遠くまで来てしまった。来た道順も、追いかけるのに夢中になりすぎていたせいで、上手く思い出せるかどうかあやしかった。とりあえず、全く人通りはない。ただの路地だ。日は暮れていたが、ここから見える窓の向こうは全て暗い。明かりは街灯だけだった。生活音などもせず、辺りは静まり返っている。それが今の俺には妙に心地良い。

 しばらくして、動いてみるかという気になった。


「帰ろう」


 と呟く。その一言で少しでもやる気を出そうとした。それが功を奏して、よろめきながらも、俺は立ち上がることができた。

 少女の反応が、感知できる範囲の隅に、ふらりと現われた。

 びっくりしすぎて、最初と同じように、俺はまたその方向を見たまま硬直した。閉まっている飲み屋があった。そのずっとずっと先に、どうやらあの少女がいるらしいのだが、移動は、速くない。ゆっくりとしている。普通に歩くより遅いかもしれない。そして、もう片方の、怪物の反応がない。

 満足に走れるほど回復はしていなかったが、俺はなんとか駆け足で、少女の反応を追うことにした。彼女の動きは不可解だった。近付く俺に寄ってきたかと思えば、急に方向を変えて、しかし遠ざかるには非効率な進み方をし、その移動速度はどんどん下がっていった。その間、例の怪物の信号は、俺のわかる範囲では、やはり拾えなかった。最後に少女は、ある地点でぴったりと止まり、信号は、一つも飛んで来なくなった。

 俺は、()()()()()()と判断した。そして少女の反応が消えた地点まで行ってみることにした。それでそこにいなかったら、いいか、今度こそ帰るんだ――そう自分に言い聞かせながら、俺は進んでいった。

 その地点は、使用されているのかどうかすらわからない、薄汚いビルとビルの間の、本来なら人が通っても何の意味もない通路の、奥だった。

 果たして少女は、そこにいた。

 通路はそこで行き止まりになっており、少女はその壁に背を預け、足を投げ出して座り込んでいた。人間状態でだ。頭が垂れ下がり、ピクリとも動かない。片手は腹部を庇うようにあてがわれていたが、もう片方の手は足と同じく投げ出されている。意識があるのかどうか、離れた場所から見ているだけではよくわからなかった。しかし、元気だとも思えない。

 追いついてどうするのかと、明確に決めていたわけではなかったが、それは自分の取る行動のパターンがそれほど多くないので、問題にならないと判断されたからだろう。

 目の前の少女を食べる。この状況で、それ以外にすることがない。

 安全を確認するため、俺はひとまず少女に近付き、見下ろした。影を落としたが、特に反応はなかった。俺は次にしゃがみこんで、手を伸ばし、少女の口元へ持っていった。手の甲に吐息がかかる。生きている。

 どういうわけかはわからないが、変身を解いてなお意識を失う程の疲労、あるいはダメージを負ったのだろう。俺も怪物から人間へ戻った時に、予想以上の強い疲労を感じることがある。戦った後は、特にその傾向が顕著だ。俺は慣れているが、この少女は姿を変えられるようになってからまだ日が浅い。加減を間違えたり、コントロールを失ったりすることは十分考えられる。人間状態へフィードバックされた時のショックが強く、耐えきれなかったのではないだろうか?

 とにかく、もうこんな機会は二度とやってこないだろう。ここへ来るまで人の気配など皆無だった。俺と彼女がここにいるということは誰も知らない。

 独占できる。

 ぼんやりと断食していた甲斐はあった。俺はやはり本質的にエゴイストだ。いざこうなってしまうともう、細胞の一つたりとも他の誰かに食べさせる気にならない。食べさせたくない。だが、まあ、皆にとっての脅威が一つ減らせるのは確実なのだから、これくらいの役得は大目に見てもらうとしよう。

 しかし、この少女を食べ終わった後の事を考えると、今から名残惜しい気もする。次にこの少女ほど魅力的な捕食対象に出会えるのは、いつのことになるだろう? ひょっとすると、もう一生、彼女のような獲物は現れないのではないだろうか? この少女を見ていれば見ているほど、そんな気持ちになってくる。

 かといって、食べないという選択肢は俺にはなかった。これから始まる時間を、思い出すだけで腹の膨れるような、濃密な記憶としてこの胃に焼きつけよう。そう誓った。

 俺が覆い被さって触れるより速く、少女は俺の腕を掴んだ。

 次の瞬間から、耳をつんざくような叫びが狭い空間を満たした。俺は変身するのをやめた。とにかく掴まれなかった方の腕で動き出した少女の体を抑えようと思ったが、すぐに暴れるような形で振り払われる。言葉にならない(わめ)き声と、ぎらついた目の(にぶ)い光が俺を捉えた。既に年端もいかぬ少女のそれではない。そのまま突き放され、俺は体のバランスを崩した。力は決して強くなかったが、自分とはまるで違う生物を相手しているかのような錯覚に、本能的な恐怖を呼び起こされる。

 こうも異質に変貌するものかという戸惑いと、この騒ぎで誰かがやってこないかという心配に頭を埋め尽くされた。落ち着かせなければまずい。俺は優先順位をそちらに切り換えた。再び少女と組み合って、叫ぶ。


「大丈夫だ! もう何もいない! お前は安全だ、わかるか? 大丈夫なんだ、誰もお前を襲ったりしない。誰もお前を傷つけたりしない――」


 そういうようなことを俺は言い続けたが、一向に少女が静まるような気配はなかった。暴れ方は激しさを増し、手に負えなくなるのも時間の問題だった。俺は焦りを感じる中で、ふと、言っている本人に襲う気があるうちはどうにもならないという考えに行き当たった。この状況を解決するにはそれを改めなければ、とも。もちろん、どこにも保証などなかったが、他に手も思いつかなかった。俺はこの少女を食べるのをやめようと、やめなければと、自分の中に向かって呼びかけた。これにはかなりの労力が必要となった。なにせ本能任せに決めたことである。それも無理矢理抑えていたものを一気に解放している。覆すのは至難の業だ。今食うのはどう考えてももったいないとか、永遠にチャンスが失われるわけではないとか、メインディッシュがあるなら当然前菜も用意するべきだとか、効果のあるなしなど考えず、様々な理屈でもって俺は自分を説得しにかかった。俺は全く見当違いなことをしているのではないかという疑問も含めて、全て説得しなければならなかった。(わら)にもすがるとはこういうことかと、そう思った。

 その間も少女は暴れ狂い、俺は殴られ、蹴られ、ひっかかれた。この小さな体のどこからエネルギーを持ってくるのか不思議だった。疲れ知らずなのではないかと思った。だが、俺は言葉をかけることをやめなかった。自分と少女の両方に言葉をかけることをやめられなかった。

 とても長く感じられた。

 少女は散々喚き散らして、そして、突然、何の前触れもなく、ふっつりと糸が切れたように動かなくなった。体から力が抜けていき、また意識も失ったようだった。エネルギーが切れたのか、俺の考えが正しかったのか、どちらにも自信はなかった。俺はいつの間にか少女を抱きかかえていた。鼓動がわずかに感じられることに、今更ながら気付いた。それが再び恐怖を呼び起こしたが、しかしもう彼女を手放す気にもなれなかった。

 安全になったという確信が持てない。俺がまたこの少女を喰らおうという意識をほんのちょっとでも持てば、彼女はまた強烈に覚醒するのではないかという疑念を、どうしても振り払えない。

 どうすればいいのか?

 俺は、どうすればいいのか?

 どうしてこんなことになってしまったのか?

 すぐにでもここを離れなければならないのは確かだった。今にも後ろから声をかけられそうな気がした。だがこの重荷は、もう手放すことはできない。絶対に。

 俺は、少女を背負った。

 記憶を洗って、来た道を思い出さなければならない。自転車は図書館に停めたままにしておかなければならない。残った僅かな体力を、振り絞らなければならない。

 俺自身が冷静にものを考えられる場所は、俺の部屋以外にない。




 少女を部屋のソファに寝かせる頃には、俺も大分落ち着いた。帰り道、背中越しに気絶から睡眠へと変わっていくのがなんとなくわかったし、彼女はかなり軽かった。それを背負って歩いたところで、急な激しい運動と比べたら楽に決まっていた。

 誰かに呼び止められやしないかということだけが不安だったが、実際は交番の前を通っても見向きもされなかったし、すれ違う人々は皆、俺達には無関心だった。少し歳の離れた兄妹くらいにしか見えていなかったのかもしれない。

 確かに、こうして今、改めて近くで彼女を眺めていると、そこまで差はないように思える。せいぜい五か六といった程度だろう。発育具合から考えてもそのくらいだ。先程のパニックが嘘のように、静かに眠っている。

 部屋の明かりは点けなかった。テレビのスイッチも、パソコンの電源も入れていない。目が闇に慣れていくにつれて、俺の思考は、再び一つのことに取り憑かれた。俺の部屋の両隣には誰も住んでいない。下にもだ。いや、そもそも、このアパートはキャパシティに対して非常に入居者が少ない。全く他の入居者を見ないというわけではないのだが、生活時間帯がバラバラ過ぎるのか、俺が物を落としたりして大きな音を立てても全く反応はないし、また俺が反応するほどの気配をこの建物から感じたことがないので、ここには自分と管理人一家しか住んでいないのではないか? という錯覚を起こすことが時々ある。

 状況は変わっているのだ。今、瞬時に変身して彼女を手にかけることはできないだろうか? ほんの少しの間騒がれたところで、誰かが俺の部屋の扉を叩くだろうか? 先程はその迫力に圧倒されてしまったが、今ならあっさりと彼女を食べてしまえるのではないか?

 依然として空腹は感じている。食欲もきちんとある。少女は魅力的な御馳走に見える。

 喰わない理由がないのだ。

 俺はまたしばらく少女を眺めていたが、決心して怪物に姿を変えた。

 少女の反応はなかった。

 立ち上がり、爪を形成した。やはり彼女は目覚めない。

 今から食べるぞ、という心構えをした。やはり彼女は目覚めない。

 どこから食べ始め、どこで食べ終わるかという段取りも頭の中で完璧にして、それでもやはり彼女は目覚めなかったので、俺はとうとう爪を少女に突き立てるために腕を振り下ろした。

 そして、小さな嗚咽(おえつ)が、部屋に響いた。

 俺は今まで何人もの少女を喰らってきた。色んな反応があった。細部に至るまで完全に、とは言わないが、食事の一つ一つは全て憶えている自信がある。中には当然、泣き叫びながら死んでいった娘もいた。呪詛を吐きながら息を引き取った娘もいた。だが、俺はそれで躊躇ったりしたことは今まで一度もない――なかった。

 そのたった一音が、俺の動きを止めた。

 少女が、涙を流している。眠ったまま、声を詰まらせて泣いている。途切れ途切れに始まったそれは、やがて一つに繋がるまで進行し、少女はそれにつれて自分の体を抱きしめてソファの上で丸くなっていった。俺は動かずにずっとそれを見ていた。

 腹が減っている。もうずっと食べていない。目の前の少女を引き裂くことができたら、どんなに幸福かと思う。

 それなのに、爪は肉に食い込むどころか、触れることすらできない。

 精神と肉体が分離してしまったかのようだった。

 俺は人間に戻り、また床に座った。そして、恐る恐る、少女の手に触れた。彼女の手が絡みついてくるように動き、俺はそれを握った。これでいいのかわからなかった。だが握り続けて数分も経たないうちに、少女の呼吸は安定し、体も力が抜けたような感じになって、静かな寝息を立て始めた。俺はまだしばらく彼女の手を握り続けていたが、途中でもう必要ないだろうと判断し、そっとそれを離して、自分も床に寝転がった。

 少なくとも今日は不可能だ、ということを悟った時、猛烈な眠気が襲ってきた。人間としての空腹も満たさないまま、目を閉じ、意識は底なしの沼の中へ溶けるように沈んでいった。いつもより早い時間だった。




 寝過ぎた、と思いながら昼過ぎに目を覚ました。ソファの上の少女は初めからそうだったかのように姿を消していた。何度か寝返りを打った記憶はあるが、いつ少女が部屋から出て行ったのかまったくわからなかった。

 当然だが、結局彼女を食べることができなかったのを残念に思った。しかし予想していたほど強い後悔の念が湧くわけでもなく、それが不思議だった。

 ここらへんが潮時か、と思う。そろそろ生活を元に戻す時だ。彼女のことは一旦忘れて、βさんとγさんに連絡をとって、それから一人でも二人でも食べに行こう。

 腹の虫が鳴った。

 その前に何か人間の食事を作らなければ、と思いながら立ち上がった時、テーブルの上の変化に気付いた。寝室の机のペン立てに置いてあるはずの水性マーカーが、破かれた一枚のメモ用紙の上に転がっている。

 手に取って確認する。そこには携帯端末のものと思われる、3ケタから始まる電話番号と、Thank you! の一文が、走り書きされていた。

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