5
タカハシが昼の音楽放送の関係で食事もそこで済ませるので、大抵は俺達もそれに付き合う。俺はアルミホイルに包んだ握り飯、アサノは姉によるものだという手作り弁当、タカハシはスーパーで菓子パンなどを買っておいて、それを食う。
「じゃあ、一枚引いて」
食べ終わってから、アサノにカードの束を突き付けられた。あまり厚くない、大アルカナの二十二枚。タロットだった。アサノが何かに凝りだすと、俺達は大抵実験台にされる。いつ頃だったか、夢診断にハマっていた時は、俺もタカハシも夢日記を提出するのが半ば義務化していた。あれは地味につらかった。
「無作為に引かなきゃならないんだったか?」
「そう。いいかげんに引いてね」
「おれも引いていい?」
「タカハシはあとで」
「あ、そ」
俺は素直に、束の一番上を手に取った。
「……魔術師」
「逆?」
「正。……ほれ」
手の中でくるりとカードの向きを変えて、アサノに見せる。
「ほんとだ」
「それってどんな意味だったっけな」
とタカハシが聞く。
「どういう意味だと思う?」
とアサノが逆に聞く。
「憶えてないから聞いてんじゃねーか」
「タロットは解釈するための道具だよ、タカハシ」
「じゃあ、引く前に何占うか決めてないと意味ないな」
「それを先に聞いたら面白くないよー。でも、十郎クンは引く前に何か決めたはずだよ、そうでしょ?」
現在、俺の中で優先すべき問題は一つ。魔術師――。
「好奇心、新鮮さ、創造力や意志」
と俺は言った。アサノが続ける。
「変化、出会い、始まり、チャンス」
別に、頭から信じ込もうというわけではない。ましてや素人の一枚タロットだ。ただ、どうしても、アサノの言うように解釈をしてしまいたくなる。俺――というより、俺達は、かなり参っていた。
「結局、何だったんだと思う?」
とγさんが言った。
その日は休日だった。とはいえ、朝っぱらから共通項も見出せない男三人がファミレスにたむろしていい理由にはならない。何か積極的に議論をするわけでもなく、趣味の話に花を咲かせるでもなく、深刻な相談事があるわけでもなく、どこか心ここにあらずといったような感じで、ぽつりぽつりと、会話にならない会話をしている、不気味な集まり。そんな風に、人の目には映るだろう。
一人欠けた。たった一人だが、とても大きな一人だった。αさんは寡黙な男だったが、しかし俺達を過不足なく導いていた。もちろん、俺の生活の中でαさんが大部分を占めていたわけではないが――彼がいなくなって生まれた穴が、存外大きなことに戸惑いがある。急に道標を失ったような……あるいは、突然現地のガイドが殺されたような。
「わからない」
とβさんが言った。
「わからないですよ。……何も」
「で、す、よ、ね……。δはどうだ?」
俺は黙って首を横に振った。
「ま、そうだよな……」
目の前のオレンジジュースのグラスがじっとりと汗をかき、コースターを濡らしている。氷も大部分が溶け、飲んでも多分、すっぱい味しかしない。
今の会話も殆どが繰り返しだった。建設的な意見など出やしないし、全員が、こんなことをしていても意味がないというのをわかっているはずだった。かといって、俺達に何かできるだろうか? αさんは消えてしまったのだ。墓を作ってあげることはできないし、その死について証言することもできない。
βさんが言った。
「天罰。……って、やつなんでしょうかねえ……」
すぐには誰も何も言わなかった。氷のタワーが溶けて、からんと音を立てた。
「彼女達は執行者で……やりすぎた僕達に、死をもたらそうとやってきた」
「それにしたって、もっとこう、趣味のいいやり方ってやつがあるでしょうよ。あんな冗談みたいな……」
「処刑人――」
と俺は呟いた。エグゼキューター。キョウコという少女はそう発言していた。
βさんが続ける。
「つまり、そういう役割があるんだと思うんですよ、彼女達には。僕達を殺すという目的が設定されている。冗談ではなくそうなのでしょう、きっと。考えてみればおかしな話だったんだ、人喰いの怪物だなんて……普通じゃない。はっきり言って異常です。異常なんですよ……。僕達はいつの間にかそれに慣れ過ぎてしまった。誰にも咎められないから、それが当たり前のことだと勘違いしていた――。それが間違った認識であることに、やっと気付かされた。そうだと思いませんか?」
βさんの言っていることは、多分合っている。罪を犯せば罰が下される……当たり前のことだ。その当たり前のことが、今まで俺達には適用されてこなかった。それだけのことだったのだが、いざこうして刑が執行されてしまうと、戸惑わずにはいられないのだった。不幸を遠ざけているのは偶然に過ぎないと、頭のどこかでわかっていたつもりになっていたが――結局、明確に意識などしていなかったのだ。
俺達は万死に値する。これはハッキリとした事実だった。
「そうだったとして、じゃあ、どうすんですか」
とγさんは言った。βさんは返事をしなかった。俺も何も言わなかった。
どうすることもできないのはわかりきっていた。
「役割があるから何なんすか。一体誰がその役割を与えて、変なヌイグルミ浮かせてフェチっぽい服着せてるんすか? オレ達よりもアッチの方が、どう考えたって異常でしょうよ! オレ達みたいなのは、そりゃあ生きてるよりは死んじまった方がいいですけど、だからといってどこの警察も軍隊もオレ達を殺せないでしょうが。殺しに来ないでしょうが? だって、誰も知らないんだから。知った時には喰われるか殺されるんだから! 運良く逃げたとして? 誰も信じない。αさんだって今までそうやって生き延びてきたんじゃないんすか? それがなんで急に死んじゃうんですか。ふざけてる……アイツら、いったい何なんですか?」
俺はその疑問に対する回答を一応持っている。俺達がそういう行動を取るからこそ、彼女達は生まれたに違いない。そして俺達を殺して生き延び、処刑人となる。俺達がどうして怪物になったのかわからないように、彼女達がどうしてああなるのかはわからない。誰も教えてくれないし、わからないだろう。ただ、似た働きをするものに結びつけることは容易だ――例えば、白血球とか。
だが、もうこれを言う機会は自分で握り潰してしまった。今更最初の夜のことを話せるわけがないし、俺は未だに話したくないのだろう。
「わからない」
とβさんは言った。
「わからないですよ。……何も」
俺達は報いを受けてこなかったし、償う気もなかった。だからこそ――どうして今更、という気持ちもある。偶然なのか、順番なのか、選択なのか。知ったところで何が変わるわけでもないだろうが、自分がどういう理由で死ぬのか、できる限り詳細に知っておきたいというのはおかしいだろうか?
「君達もわかっていると思うけど、どうしようもない。ただ、まあ……一応の対策は、あるよ」
「なんですか?」
と俺は聞いた。
「食事の回数を減らそう」
とβさんは言った。
「でも……!」
すぐにγさんが反応したが、その先は続けられなかった。
俺もγさんと同じような気持ちだった。それしかない、と、わかってはいるのだ。わかってはいるのだが、そんなことをして何になる?
「自粛するんですよ。集まる回数を減らさなきゃならない。それが唯一、安全度を上げられる方法でしょう? 彼女達は僕達を探すことができるんです。だったら探されないようにするしかない。怪物でいる時間を少しでも減らさないと」
俺達は食わなければやっていけないのだ。確かに危険は減るかもしれない。しかしその状態を維持するために、どれだけの精神力を支払わなければならないのだろう?
「減らすって、どのくらい減らすんですか」
「誰かが我慢できなくなるまで、ですね」
「やれるわけない」
「やらなければ死にますよ。僕達からも彼女達を捉えられそうなのは幸いですね。もし気付いても、近寄らなければいいわけですから。僕達が複数いる以上、彼女達も二人だけとは思えない。いつでも、どこででも、新しい魔法少女に気付く、あるいは気付かれる可能性があります」
「……なんだって? βさんあんた今なんて言った?」
「だから、この間の二人以外にも処刑人がいるかもしれなくて」
「その処刑人のことをなんつったんですか、今!」
「――魔法少女、ですけど。そう見えないこともない、と思って」
「……どうかしてますよ」
「あの」
と俺は言った。
「実は、俺もそう見えました」
「おい、おいマジか? お前までそんなこと言うのかよ」
「実際似てますよ。マスコットみたいなのが浮いてて……変身する時に光ってたやつは魔法陣に見えたし、眼鏡の子なんかステッキ持ってて、鎧がなかったら、記号としてはそのまんまな気がしませんか?」
「まあ、今風といえば今風な感じでしたけどね」
γさんはやはり何か言おうとして、うまく音を出せないまま、しばらく口を動かしていた。かといってβさんが続けて言葉を発するわけではなかったし、俺もγさんが形にするまで待った。そして、
「……二人が、どうしてそういう方面に明るいのかは、今はどうでもいいとして、オレが言いたいのは、要するに、そんなこと言ってていいのか、っていう……」
「馬鹿馬鹿しいってことですか?」
と俺は言った。
「そうだ。……多分、そうだ」
「――いや、γさん、そうなんだと俺も思います。こんな馬鹿馬鹿しいことないですよ。非現実的なのは俺達だけで充分足りてるじゃないですか。それなのにあんな見た目の脅威が出てくるのは困ります。洒落にならない。それを魔法少女だなんだって言うのは、なんだか遊んでるような感じがするから嫌だって、そういうことですよね? ただ、ただですよ、γさん、なんでわざわざああいう格好なのか、っていうのが……どうもひっかかりませんか? そうなってるからそうなんだろうと言われたら、それ以上俺も何も言えないですけど、でも、考えてみれば、俺達もあまりに怪物そのまんまなわけで……つまりですよ、何か、こう、見立てているような感じがしませんか?」
βさんが俺に言った。
「見立てるって――誰が?」
「それはわからないですけど、彼女達を魔法少女として見た時に、怪物である俺達は敵役としては妥当な存在なのかなって……そんな風に、考えることって、」
俺は、γさんがどこか諦めたような表情になっていることに気付いた。彼は言った。
「δ、あんまり妄想ばかりしてるとな、……いや、やめとく。アレだな、オレはオレで勝手にやるのもいいかもな、しばらくは」
γさんは財布を取り出し、千円札を摘んでテーブルの上に置いた。
「すいません。オレは、今日はもう、帰ります」
俺達が何か言う前に、γさんは席を立ち、歩いて行ってしまった。
引きとめるには、あまりに穏やかだった。怒ったというよりは、ついていけなくなった――そんな感じだった。ただでさえどうにもならない状況に置かれている。これ以上疲れる空間にいたくないというのは、道理だ。俺は、やってしまったな、と思ったが、焦りも後悔もなかった。
βさんは中途半端に腰を浮かせたまま、γさんを見送った。そしてシートに座り直して、言った。
「僕も、食事を我慢するのが難しいことだとはわかっているんです。殆ど生理現象ですから。でも、死んでしまったらどうにもならないじゃないですか。δ君はどう思いますか? それでも食べますか? 死ぬ危険があっても」
議論するまでもないことだと、個人的には思う。だがβさんの言っていることは間違いなく正しい解答の一つで、γさんもそれを頭ではわかっているはずだ。だから噛みついた。そういう性格なんだと思う。話は変な方向へと迷い込んでいったが、大事なのはあの魔法少女達、つまり脅威をどう捉え、どう行動するべきかということで、今までそういうことがなかったから、意見の不一致があるのも当然といえば当然だ。俺達は思想や主義を同じくした集まりでもなんでもないのだから。社会での役割も年齢もバラバラな、ただ同じ食べ物が好きだから一緒に食べようという四人だったのだ。それが今は三人で、これから先、どうなるかはわからない。
「俺もβさんも一人暮らしですよね」
「うん」
「人間でいる時、βさんは決まった時間に料理を作って、食べるでしょう?」
「そうだね」
「俺はそうじゃない……んですよね。そういうことなんだと思います」
俺は席を立った。
「γさんも行っちゃったし、もう出ますか」
「いや」
とβさんは言った。
「僕は残るよ。少し考えたい」
「そうですか」
財布から金を出そうとすると、
「君の分は払っておくよ。γ君も多く置いていってくれたし」
「ご馳走様です」
「……あと、ああは言ったけどね、次の連絡はいつでもいいですから」
「わかりました。それじゃ」
「うん、また」
俺はファミレスを後にし、一旦、血や骨とは無縁でいようという心構えの生活を始めて、目下、それは続いている。すぐに食事しようなどとは考えなかった。俺の中でβさんの考えを尊重しようという部分が少なからずあったし、それはやはりβさんの言い分にも正しさの一端があると思えたからだ。だから、少し時間を置いてみよう、ということで落ち着いた。考えたい、と言ったβさんに倣ってみるのも悪くないと思ったのだ。死神や塔を引いたわけではないのだから、いきなり困ることもあるまい。その間、魔術師が暗示するようなことが起これば何か変わるかもしれないし、そうでなくても少しは判断材料が増えるかもしれない。全く何もなければ、その時は本能に従う。
ただ、アサノには悪いが、俺も素人のお遊びに限らず、占いの類には効力がまるでないと信じているタイプなのだった。
俺は持たずにいられるものは、なるべく持たないようにしている。というのも、それができる暮らしではないからだ。そういう身分ではない、と言い換えてもいいだろう。金がない、というのは、ある面においては当たっているが、より正確な表現をするならば、自由にできる金が少ない、だろうか。未成年で親がいない、ということは、自分を他の誰かが保証しなければならないということで、さて、今までその機会が全く無かったわけではないのだが、俺を名実ともに養子にしようとする者は現われず、また俺もそれを――今にして思えば、だが――望まなかった。幼い頃から親戚の家庭をいくつも渡り歩いてきたが、どことも馴染まなかった。馴染むことができなかったのか? そうなのだろう。近くで一緒に暮らしていると、おそらく勘付いてしまうのだ。ある種の異様さに。もちろんのことだが、人喰いであることは誰にも気付かれない。だが、何かが決定的に違うということに気付かれる。気付かれてしまう。俺もそれが起こらないように気をつけようと努めた時期もあったが、何度目かで、どういうわけか避けられないのだと、そう悟った。やがて受け入れは盥回しとなり、俺がいていい家が無くなった時、親戚達は俺の処遇を決めるべく短い会議を開き、こう決めた。
戸籍上は、分家のとある世帯に置く。ただし、実際は一人で暮らすこと。住む場所は目の届く場所を選んでやるし、行きたければ大学院までは通わせてやる。だが、お前はどこの家の子でもない。金は必要な分を必要な分だけ立て替える。あくまでお前の金だから何に使ってもいいが、何に使うかわからなければ渡せない。不要と思われる分は、将来社会人となったら、ゆっくり返してもらう。
説明はこんな感じで、俺も了承した。連絡係がいて、彼(もしくは彼女)との簡素なメールと郵便のやり取りで俺の生活は成り立っている。なので例えば情報を得るためのテレビやパソコンはあっても、ゲーム機や性能のいいディスプレイやスピーカーがあるわけではない。というより、自分に跳ね返ってくるのでおいそれとは買えない。電化製品や生活必需品や学業で使うものを揃えられても、食器洗い機には手が届かない。だが自転車とバイクは移動手段として認められていて、そこがよくわからないところだ。月に使える上限額が決まっているわけではないが、一定額を超えると明確に渋られるので、結果的に食費と雑費くらいにしか使えない。交友費はそれなりに出る傾向があるが、自分のこととなると、どうにも首が回らなくなってくる。だが俺も知的好奇心は人並みにあるから、娯楽はどうしても必要だ。そういう書籍やゲームは、それを持っている奴が貸してくれたり対戦相手を欲したりしていて意外と問題ないのだが、一人でいる時に、インターネットとテレビ番組だけでは限界がある。
そんなわけで、その日、俺は図書館に来ていた。流行を追うためにやむなくネットカフェに入ったり、コンビニで立ち読みしたり、レンタル屋で即日返却したりすることもあるが、そうでない時はやはり公共の施設に頼るしかない。俺が利用しているこの図書館は、需要のためか、習慣がないのか、規模のわりに借りるものに困ったことはないし、学習室も大抵空いている。
それなりに時間が経っていた。あれから、俺はまだ一人も食べていなかった。血の一滴、髪の毛の一本、爪の一欠片さえ、口にしていない。空腹になってから何日が過ぎただろうか。体調の悪い日が徐々に増えてきている。毎日朝から晩まで、というわけでもないのだが、体育で無駄に張り切った後や、ひたすら数式を解いている時、一週間分の食料と水を運んで冷蔵庫と棚に収めた後や、人混みをかき分けて進む時などに、座っているのも辛くなることが多々ある。だが、まだだ、と自分に言い聞かせている。ここまですることないだろうと自分でも思っているのに、何故かそうしている。βさんとγさんからまだ連絡がない手前、一番最初に音を上げる形になるのが嫌なのか、アサノが他にも手を出している占いによる暗示が、タロット以降どうも似通っているからなのか、自分でももうよくわからなくなっているが、俺は禁欲的な生活を続けていた。何か別のことで気を紛らわせようとするのは、とりあえず有効な手段だと思い込みながら。
本を借りて読むのも、もちろんその一つだった。だというのに、俺が読みたくなったのは『幻獣辞典』だった。アルゼンチン出身の、長い名前だが縮めてホルヘ・ルイス・ボルヘスという人物が書いたもので、正確には辞典ではなく、伝説の生物に関する逸話と蘊蓄が集まり注釈のついた、物語集である。『遠野物語』にも妖怪の項目があるから、それに近いだろうか。つまり、俺達について書かれた本だ。自分が怪物であることを忘れそうだからおさらいするために読みたくなったのか、単純に前回借りた時に半分も読めなかったから続きを読もうと思ったのか、どちらにせよ、これを読み終わった後にきっと食事へ出かけたくなってしまうだろうということをわかっていながら、俺は書架から手に取って表紙を眺めた。チェシャ猫が描かれている。
そして、その感覚を思い出すのに数秒かかった。それはインクの匂いを不意に嗅ぎ取る感覚ではなく、書架の向こうで人が通り過ぎていく感覚でもなく、さらにその向こう――同族と敵のシグナルを受け取る、あの感覚。近くで誰かが姿を変えた。
しかも、二人だ。二人いる。
懐かしささえ覚えた。俺はその理由に気付き、『幻獣辞典』を持ったまま硬直した。
片方のシグナルが示したのは、紛れもなく、あの橙の、ヨーコという少女だった。
嗅ぎ分けられないわけがなかった。