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戦うのは、初めてではなかった。
怪物には怪物を感知する能力が備わっている。他の怪物が、人間から姿を変えている間だけ、その距離を信号のように知ることができる。人間でいる時でも怪物でいる時でも受信でき、具体的な位置関係、例えば上にいるか下にいるかということまでわかってしまう。どう感じるかは人それぞれ違うようだが、俺は嗅覚でそれを感じる。
最初、俺はこれを仲間探しのための機能だと考えていた。気付くのに時間がかかったから、長い怪物歴の中では比較的最近の出来事だが、もう二、三年ほど前になる。その時俺が見つけたそいつは西洋風の、アンシーリーコートというやつで、獲物のどこから食べるかを悩んでいる様子だった。俺がかなり近くに寄るまでそいつはまったく気付かずに、ずっとぶつぶつと独り言を呟いていた。声をかけた時、そいつは文字通り飛び上がって驚いた。あんまり取り乱すものだから、俺はさっさと姿を変えて正体を明かしたのだが、そいつはさらに混乱して、よくわからないことをわめきだした。どうにかこうにか聞き取って内容を整理したところ、どうも、自分の獲物を取られたくない、という旨の主張らしかった。そいつは俺が何を言っても屁理屈を並べ立てて、ついには襲ってきた。怪物同士で争うことになるのを、想定していなかったわけではなかった。しかし、それでも戸惑った。俺はなんとかそいつを殺したが、腕を折られたりして大変だった。再生能力を知ったのはこの時だ。結晶のような核を潰さなければ死なないことも、その時知った。そいつの核は、肥大化した右腕と肩の間にあった。俺があの少女に潰されたのと同じ部分だ。もし、自分の核があそこにあったらと思うとゾッとする。核を潰された怪物は、全身から血と同じ熱のない炎を噴き上げて燃え続け、やがて空気に溶ける灰となって消える。
俺はそれから、怪物の臭いが教える方向へは近寄らないようにしている。
信号を受信する機能は、危険を察知する機能だ。
だから、αさんたちのパーティを初めて見つけた時、俺は怪物ではなくて本物の集団に出会ったと錯覚した。なんのことはない、その時の彼等は俺の出くわしたような余計なトラブルを避けるために、殺しの段階までは人間の状態で行っていただけだったのだが、俺は普通に怪物を見つけるよりも強い恐怖を感じた。彼等はギリシア文字でお互いを呼び合っていて、その不気味さといったらなかった。すぐに俺もその仲間入りを果たしたが。少し違うのは、俺以外の三人はお互いの本名を知っているのに、俺の本名を知らないということだった。名乗る前にδというアダ名がついてしまって、それが未だに続いている。俺も今更、改めて名乗る気はない。彼等にはお互いの仕事がある。記号で呼び合うのは怪物でいる時のまじないで、本名で呼び合うのは人間でいる時だけ――そういうことだろう。
さて、昨日の出来事はまた新しい疑問を俺にもちかけた。
光が弾けて、少女が変身してみせたあの時から、俺はずっと匂いを感じていた。怪物に似ているが、どこか異質なその匂い。ひどく食欲をそそるが、同時に恐怖も呼び起こす。危険な匂いだ。それはあの少女が俺達に関わりの深い存在であることを、物語っているに違いなかった。
「なあ、おい、聞いてんのか?」
意識の比重が、思考から現実へと偏る。
今、放送室にいる。俺は椅子に腰かけている。原稿の束――コピー用紙の束から目を上げて、机を隔てて向かいに座っているタカハシを見る。
「なんだよ。聞いてるよ」
「じゃあ返事しろよ」
「しなかったか?」
「しなかった」
「……そうか」
視線を逸らす。タカハシの後ろでは、名も知らぬ先輩が積まれた機器をいじりながらヘッドホンに手を当てている。潜水艦のソナーマンのようだと思う。ガラス越しのスタジオに目をやると、また別の先輩がクソ真面目な顔で文庫本のどこかを読み上げている。俺の後ろから、やはり名前を知らない後輩が動画を編集するために素早くマウスを操っている音が聞こえる。
「で、どう?」
「主人公とヒロインの年齢差がすごいと思う」
「やっぱ中学生とアラサーの組み合わせじゃまずいか」
「趣味を出し過ぎだな。でも、読んだ限りだと、この設定は動かせないんじゃないのか」
「そうなんだよ!」
タカハシは細い眼鏡をかけた、いかにも昔から体育が苦手で図書室にばかり出入りしてきましたというタイプの男だった。俺も似たようなものだったから、そういうところで通じるものがあったのだろう。放送部員としてはコンクールに出すドラマの脚本を書いたり、朗読をしたりしている。それとは別に趣味で色々書いていて、今回はライトノベルだった。俺はいまいちその定義というか分け方がわからなかったのだが、そんなものは書籍を出版しているレーベルで分かれているだけのことであって、定義もクソもないというのがタカハシの説明だった。ライトノベルのレーベルに投稿するから、つまり、書いているのも小説ではなく明確にライトノベル、ということらしい。
他の文化部員達との交流も盛んで部室間の出入りも多いが、タカハシの所属は放送部一本である。俺はタカハシの作品をあと一歩で読み切れなくて、色々言うのは明日にしようと思っていたが、残りの分量を知ったタカハシは、それくらいなら待つからと言い出し、本当にじっと待っていた。それで読み終わったのはいいのだが、そのまま昨日の混乱が甦ってきて、自分の世界に入り込みすぎてしまった。
「うん、まあ、それでな、偏見かもしれないけど、ライトノベルって感じ、あんましないな」
「うえー……マジか」
「賞に出す場所を変えればいい話じゃないのか? それこそあの……ド忘れした、なんだったか」
「いや、いや! それだとデートのシーンとかドンパチとかなくさなきゃなんねえし」
「あー、すまん、デートのシーンは正直あんま面白くなかった。長いし……。あそこだけなんか安い恋愛映画みたいで浮いてたぞ。いらねえいらねえ」
「んなことねーだろ! あれがないとヒロインと主人公の心が通い合ったことにはならねーだろ」
「そうは言ってもな……ヒロインが主人公に対して盲目的なのが、なんだかな」
「それはちゃんと理由を書いてある」
「ふうん……でもまあ、ドンパチは面白かったぞ。ちょっと主人公が超人過ぎる気もするけどな。なんか、ノワールアクション映画みたいな雰囲気に変えてみたらどうだ?」
原則として、ギブアンドテイクだった。自分がそういう風にしか友人を作れないということに気が付いたのは、中学校生活も半分を過ぎた頃のことで、一時は深く落ち込んだが、かといって今更どうしようもないと自分を納得させるしかなかった。冷静に思い返してみて、ギブアンドテイクがうまくいかなかった相手とは例外なく疎遠になっていることに気付いたからだ。うまくいった相手とは、今でも交流が続いていることにも。
高校に入学してから一年以上が過ぎた。タカハシを始めとした、今現在一番近い友人達とは良好な関係を保っている。俺は彼等に友人という名目で付き合ってもらう代わりに、(少なくとも彼等にとっては)良質な発言を返す。創作物に対する感想などはその最たるものだし、時に自分の身の振り方についての助言や、トラブルの仲裁を求められることもあった。単なる遊び相手、つまり人数合わせとして扱われることもあったが、彼等が本当に俺を必要としている理由はそこではない。俺は彼等に対して経済的には恵まれている方だが、物質的に有利というわけではないので、物理的には真に対価を提供することができない。幸いにも彼等は俺の言葉や判断を、どのような意図であれ重宝しているようなので、彼等の性格や価値観に劇的な変化が起こらない限りは、高校生活においてはこれからも無風で付き合っていけるのではないかと、俺は考えている。
これは親戚達との関係も同じだ。彼等は俺を生かす代わりに、俺を見捨てない人間であるという評価を得る。彼等がその評価を本当は必要としないということに気付いた時、俺は、少なくとも社会的には死へ近付く。
父親も母親も、とうの昔に消えている。
そのうち話は脱線し、俺達は全然関係ない昨日の深夜アニメの話をしたり、連載が滞っている漫画の話をしたり、不愉快なゴシップの話をしたりした。それだけで日は暮れて、そろそろ帰ろうかということになった。
帰り道の途中で、唐突にタカハシは言った。
「ところでよ、おめー、どこ受けるつもりでいんの?」
受験の話だった。俺は答えた。
「ん? ……入れそうな国公立だよ。決まってるだろ?」
そういうクラス分けがもうなされているんだから、そうだろう。文系国公立。それ以外はない。少なくとも今は。一時期、理系に行くことも考えてはいたが、結局やめている。俺自身が、すでに科学で説明をつけるのが難しい存在だ。少なくとも現行の科学では。生きているうちに何らかのブレイクスルーが起こりそうな気配もない。そんなものをバックにつけて研究するとして、モチベーションなど上がるわけがない。
むしろ、俺の求めているものは虚学にこそあるのではないかと、最近特にそう思う。
「あ、そう? 私立の推薦も受けるのかと思ってたけど」
「……数学とかの点がもう少し良けりゃ、考えたかもしれない。けど、駄目だな。まあ、来年になって成績が確定するまではなんとも……」
もっとも、こんなことを言っている始末なので、元から理系は望み薄だが。
「そっかあ」
それきりタカハシは黙った。変な沈黙だった。
「……なんで、そんな事聞くんだよ」
「いや、一応だけど来年もクラス変えあるわけだろ? まだ先の話かもしんねーけど、そのうち今のメンツで遊べなくなるかも、って、アサノのヤツがうるせーんだよ」
「何言ってんだあいつ」
どのみち受験モードに入れば、遊べる時間など減るに決まっている。
「そう邪険にしてやんなよ。あいつ、おめーにお熱なんだから」
「……変なこと言うなよ」
確かにアサノはどんな時でも誰かと一緒に居たがるし、少し女々しいところがあって、男らしい趣味もないが、俺には奴がゲイセクシャルとは思えなかった。
「別にアサノだけじゃねーぞ」
「やめろって」
「だってなあ、おめーは本当のことばっかり言うからなあ。そりゃみんな気に入るさ」
「……あのな、俺は、俺から見てそう思ったことをただ言っているだけで、それを本当のことって言うのは、ちょっと危険なんじゃないのか」
「だからあ、そういうこと言うから……」
「当たり前のことだろうが。むやみに他人を崇拝したり盲信したりするのは誰にとってもよくないし、何もいいことないし、なにより感心しない」
「それはアサノに言ってやれ」
「……俺はアサノが傷つくようなことは言わない」
「……ちっとは反省しろよ」
誰かが誤魔化していることを、俺は誤魔化そうとしていないだけだ。天は平気で人の上に人を作るし、二物も三物も与えるか、あるいはまったく何も与えない。生きとし生けるものが全て尊いわけがないし、信じる者は足元を掬われる。倫理や人権は誰も幸せになどしてくれないし、かといって自分より不幸な人間はいくらでもいる。適切な努力を積み重ねたからといっていい結果に繋がるとは限らないし、間抜けな奴やダサい奴、面白くない奴や見ているだけで不愉快な奴がいじめられるのはごく自然なことだ。役に立たない英語ばかり教えるのは国策だからで、自分の意見を持ちそれを表現する人間は面倒だからできる限り減らそうとするのも国策だからで、教師という肩書きだけを尊敬しろと言っても効果はないし、葬式に喪服を着るのも就職活動でリクールートスーツを着るのもバレンタインにチョコを渡すのも企業がそれを売るために方便を使っている。日本が戦争に負けたのは国力に差があったからでも運が悪かったからでもなくて判断を誤ったからで、そんなことばっかりやっていて金がないから、人類はいつまで経っても宇宙に進出できず、サンタは基本的にその家の親父だ。
俺は、そういうことを言っているだけなのだ。
次のパーティまでには、少女との戦いで負ったダメージはすっかり回復した。
俺達はいつものように集まり、いつものようにターゲットを捕まえ、いつものように食堂の一つにそのごちそうを持ち込んだ。今日は廃工場だった。工作機械などが全て運び出されてしまった、だだっ広い作業所。ただ荒れて劣化した空間。暗いは暗いが、ずらりと並んだ窓の向こうから、微かに街の明かりが入ってきている。
俺達が廃墟を選ぶのは、人目につかないのはもちろん、人払いがしやすいからでもある。これも怪物の特殊な能力の一つだ。さすがに人混みをいきなり雲散霧消させることはできないが、最初から人の寄らない場所には効果覿面、怪物が使っているうちは、もう普通の人間はそこへ入れなくなる。入ろうとして急に何か用事を思い出したりするのか、そもそも入ることを思いつかなくなるのか、それはわからないが、とにかく結界のようなものに阻まれるのだと思う。
「まったく不愉快な話ですよ!」
用意されたメニューはすぐに食い尽くされてしまって、さっきからずっとγさんが喋り続けている。俺達は適当に相槌を打つだけだった。
「だからね、そこで言ってやったんですよ、そんなにセックスがしてえならどっかで女買ってこいよ、って。そしたらそいつなんて言ったと思います? そんな行為には愛がないし、なにより犯罪だって! 自分は後輩食おうとしてんのによくもそんなことが言えたもんだっつー話ですよ! そいつ自分にゲスな下心があるってことすら理解できてないんですよ。どう思います? な、δはどう思う?」
「どう思うって言われても、俺には全然縁のない話で……」
「ああ、男子校だもんな……って、あそこ今年から共学化してるじゃねえか。全く女に縁がないなんて言わせねえぞ!」
「ないですよ。俺達と一個上は男しかいないままなんですから」
男子校に通おうと思ったのは、少しでも楽になろうとしたからで、食い物を目の前にしたまま空腹を抑えることの辛さを少しでも軽減できないかという苦肉の策だった。それが入って半年もしないうちに共学化が決定してしまい、アテが外れてしまった。少子化の波だとかいう話だが、受験した頃には定員割れで困っているという情報はなかった。俺達がいる中高一貫の六ヵ年課程と高校からの三ヵ年課程は校舎も違ってほとんど別々の扱いだから、接触も少なくまだ救いがあるとはいえ、世の中何が起こるかわからないものだ。
俺がよく出入りしている文化部も例に漏れず女性部員が定着している。女三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、新勢力にタカハシも少々手を焼いているようだった。俺もあまり落ち着かないので少し困っているのだが、元よりただの客である。どうすることもできはしない。
しかし、それ以上にどうすることもできていないのは、俺の食欲の変化だ。目の前の犠牲者を見て、この間よりも一層、食べたくなる気分が萎えている。腹は減っているのに、だ。どうにも不安な症状だ。ある種の病気なのかもしれない。心因性の。
何かが俺の中で変わりつつあるのか?
あの少女のことを話さなければいけない、と思う。俺はそれができずにいる。
俺が劇的な体験をしたからといって、世間では何も変化など起こってはいなかった。三日も経てば、俺はあの夜のことが夢なのではないかと思ってしまうようになった。怪物になると現れる肩の傷だけが現実を証明していたが、それも完治した今となっては、一体何を根拠に話をしていいかわからなかった。いくら必死に説明しても、笑われて終わるような気がした。
いや、違う。それは言い訳だ――俺はきっと、頭のどこかで、あの少女を独占したいと考えている。あの少女の存在を、自分の中だけで留めておきたいのだ。それが話をややこしくしている。
「ねえ、何か物足りない気がしませんか?」
とβさんが言った。αさんは無言でそれに頷いている。
「あ、βさんもそう思います? なんでだろうなあ、オレも今日は食い足りないっつーか……。いやね、最近、なんか今までよりも腹が空きやすくなったような気がすんですよ。そんな感じしません?」
「なぜだろうね……。こんなことなら、今日はもう一人か二人、多く捕まえてもよかったかもしれないなあ。δ君、今日、足りた?」
「足りましたよ?」
足りなかった。全然、足りない。もちろん、これでまた命を長らえることはできる。だが、もうそんな問題ではなくなってきている。俺はあの輝きを知ってしまった。あの匂いを、あの肌触りを知ってしまった。
食べたいのはあの少女だ。
「まあ、でも、今からまた捕まえに行くってのもね」
「ですよね。しゃーない、また今度にしましょう」
「じゃあ、今日は解散ということで。次は、」
「どうやら、話は済んだみたいね」
いきなり、だった。異質なものが割り込みをかけたことに気付くまで、少々の間が必要だった。俺達は声のした方を見た。
まるで亡霊のようにその二人は現われた。両方とも、少女だった。
片方は、切れ長の瞳がきちんと収まるような細長い眼鏡をかけていて、長い髪を二つ結びにしている。俺達を前にして、少しも怯えていない。それどころか、変に楽しそうな、それでいてどこか好戦的な目を向けている。
そして、もう片方は、あの夜の炎の少女だった。眼鏡の少女とは対称的に、表情がなく、何を考えているのかは読み取れない。
明らかに場違いだった。