2 プロローグ 下
殺しきれていなかった、と俺は思った。思いつくままに行動するのはこれだからいけない、とも思った。どうしても雑になるのだ。
爪を指へと戻し、再び首を掴もうと手を伸ばす。
いきなり閃光に視界が塗り潰された。
同時に、見えない力が俺を襲った。喩えるなら、巨大なハンマー。俺をはっきりと拒絶しながら、かといって破壊するでもない。そんな、強烈な力。俺は弾き飛ばされ、宙を舞った。わけがわからなかったが、何かとてつもなくまずい事態が起きたというのは確かだった。そのまま、多分だが壁に叩きつけられ、床へと落ちた。人間の状態だったら、どうかしたら死んでいたかもしれない。だが、すぐ立ち上がれるほどには、俺も怪物だった。
どこからが夢だったのか、と思う。目の前に展開された光景は、現実を疑うに十分だった。――魔法陣。俺の貧困なボキャブラリーでは、そうとしか表現できないものが、少女を中心に敷かれている。ゆったりと光を発しながら、何パターンかの回転を続けている。突然のことでよく認識できていなかったが、きっと、あれが俺を拒絶したのだ。
さらにその上を光球が漂っている。目を凝らしてみても、それが何なのかよくわからない。光球の大きさ自体は、ここから見た限りではバレーボール程度だが、その中にいる何かは一回りも二回りも小さく、羽が生えている。よくある、元が何の生物かわからなくなるほど崩してデザインされたヌイグルミのようだった。妖精、あるいは、マスコットのようなものだろうか。
――不思議と、読めてきた。だがそれは決して、信じたくなるような考えではない。
どこからともなく声が聞こえてくる。
「汝、今一度命を燃やし、彼の者共を焼き払い給え!」
それなりに年を経た男の声だったが、それがあの妖精の発したものだと理解するのに、さして時間はかからなかった。
――俺は、退治されるのか。
少女の体が浮き上がっていく。それに合わせて魔法陣は分かれ、幾重にも少女を包み込み、そこから発せられた光の線と帯がさらに少女を取り囲んでいく。
何をしても無駄な気がする。今、俺がどんな手を使ってあれを邪魔しようとしても、全ては無駄に終わる――きっとそうなっている。
だが、この先を見ることが、必ずしも損ではないように思えた。
むしろ、知るべきことが待ち構えているのではないか。
線と帯は形を作り出し、魔法陣がその枠の中を埋めるように吸い込まれた。
光が破裂する。先程の衝撃を思い出し、反射的に腕で顔を覆う。
何も、来ない。
俺は少女を見た。
燃えている。そう錯覚するほどに鮮やかな、橙色のドレスへと装いを変えている。リボンとフリルがふんだんにあしらわれていて、デザインからは踊るためにあるかのような印象を受ける。炎のように翻ることが役目だと、揺らぎながら語っている。
最早彼女に死の色はなかった。
あまりにも、眩しい。
その輝きを浴びているだけで手に取るようにわかる。あれは太陽だ。闇の中にいる俺達を照らし、焼き尽くすための太陽。
殺しきれていなかったのではなく、生き返ったのだ。
恐怖を突きつけられている。
なす術もなく死ぬのではないか、という恐怖。
圧倒的な力が俺を睨んでいる。足が竦む。腕が震える。危険だ。目の前の少女は、最早弱々しい子羊などではない。獰猛な、ともすれば俺よりも苛烈な狼。今すぐこの場から去れと、脳が警告を発し続けている。
だが、それ以上に俺は、食欲を感じていた。
先程よりもさらに強く、さらに尖った、抗いがたい食欲。
恐怖を越えてなお、あの輝きが食欲を掻き立てている。
警告は所詮警告に過ぎない――いかほどの強制力があるというのか。
俺は今一度、指の先を爪に変えた。今度は肉を解体するのではなく、戦うために。爪の形成にはある程度自由がきく。大きさ、太さ、長さ、鋭さまでも、自在に変えることができる。しかし、それを振り回すのはあくまで俺の腕と手であり、そのために最適化されたいくつかの形状パターンというものはある。
右手と左手、合わせて十本の両刃を、できうる限り鋭く、脆く研ぎ澄ます。やり方を間違えれば、自分を切り裂いてしまうほどに。
馬鹿なことをしている。それは充分承知している。
だが駄目なのだ。
俺は、やはり腹が減っている。それで、気が立っているのだ。もうこの衝動を自分で制御できない。怪物としての本能が冷静さを抑えつけてしまっている。
可憐に変身した目の前の少女の、あのなんと美味そうなことか。死んで月光に照らされている時の何倍もそそる。
喰らい尽くす――生きたまま。全ては俺のものだ。
相手の出方は探らない。知恵比べも力比べもする気はない。先手を取って、両腕を使い仕留める。大振りの一発目はもちろん囮で、速度も精密さも段違いのコンパクトな二発目を認識した時には手遅れ、体の一部とお別れするという寸法だ。
作戦は単純。だが、だからこそ、純粋に全力の込められた二発目に対応することはできないだろう。なにしろ相手はこれが初陣なのだ。素質で負けていることは認めるが、経験の差はそんなことを問題にしない。世界はより狡猾で強かな者のためにある。
少女は、蘇生してからは眠たそうな目で一歩も動かない。それでいて俺は見据えられている。意識を取り戻せていない、というわけでもなく、状況に混乱している、というわけでもなく、ただただ、動く必要が今はない、という感じだ。
どこからでもどうぞ、とでも、言われているかのよう。
作戦に変更はない。優先権を放棄するというのなら、好きにやらせてもらう。
俺は少女との距離を詰めた。初めは歩き、次に走って、最後は跳んだ。とにかく、俺をとんでもない脳無しと思わせる必要がある。それが作戦の肝であり、そのために大振りの一発目はどうしてもうまいことやらないように我慢しなければならなかった。
少女はちょっと体を傾けるだけでこれを避けることができるし、実際、彼女はそうした。まったく予定通りだ。さて、俺はさっき、少女の目の前でこれ見よがしに爪を変化させた。ゆっくりと。だが、今のコンディションなら、やろうと思えば爪の変形など一瞬で終わる。頭の回転が追いつく限り、俺はその場その場で武器を変化させながら戦うことができる。最初に見せたままの爪で戦ってやる理由なんかどこにもない。だから二振り目は一振り目よりも格段に速いし、狙いも精密で、動作中にリーチが伸びる。避けられるわけがない。
自分の爪が少女のドレスを引き裂き、腹部の柔肉へと突き刺さる様を想像する。
そして、少女は消えた。それが回避と、懐へ入り込まれたことによる現象だと理解するのに、本当に長い時間がかかった。きっと、数字にしてみれば一瞬と切り捨てていいような短さだったのだろうが、それは凝縮された感覚の中では、本当に長く――少女からは、俺が止まって見えたことだろう。
顎を思いっきり殴られた、のだと思う。はっきりと確認できなかった。それはただの打撃を遥かに超えていた。俺は立っていられないどころか、光に弾かれたのよりもさらに激しく吹き飛び、転がった。必死に短くした爪を床に突き立てて勢いを殺す。少女は余裕で追いついてくる。腹を蹴られ、また床を転がる。サッカーボールのように。
「かっ、ハ……」
咳き込む。薄紅色の血を吐く。怪物の目の色、変身する際に身に纏うオーラと同じ色。
すぐに立つことができない。ダメージが大き過ぎる。内側をやられた? 骨も折れている可能性が高い。吐いた血が燃えている。当然、口の中も燃えているが、熱くはない。本当に燃えているわけではないからだ。空気に触れると血がそのような反応を起こすというだけだ。
少女が近付いてくる。体は言うことを聞かない。
「立て――!」
彼女はそう言うと俺の胸倉を掴み、無理矢理立たせようとしたが、俺にその気がないのを悟ると、そのまま床に叩きつけた。今度は俺が転がり過ぎないように、丁寧な蹴りが何度も加えられる。俺は苦しみ、悶えた。一発一発がおそろしく重い。動こうという気力まで根こそぎ奪っていく。怪物は人間に比べると頑丈だ。頑丈過ぎるくらいだ。その怪物にここまで有効打を与えられるこの力は、一体何だ?
「そうだ。もっと弱らせるんだ。スターヴリングは並大抵のことでは死なないからな」
ドレスの肩部分にしがみついた妖精がそんなことを言っている。少女は答える。
「うるさい」
立てない。本当に弱らされている。うつ伏せの状態で、首だけを回して、なんとか少女が歩いてくるのを確認する。
少女の足が、靴から炎を纏った。ドレスと同じ橙色だ。彼女は少しも熱がらない。
きっと、あれが彼女の武器なのだ。今度こそ、ただでは済まないだろう。
靴音が、タイムリミットを告げている。
這って逃げようとする。
カウントはすぐに早まり、彼女は燃えていない方の足で俺を踏みつけた。たったそれだけのことで、杭を打たれたかのように逃げることができない。
抵抗のために右腕を伸ばしたが、あっさりと手首を掴まれて自由に動かせなくなった。
そして、彼女はもう片方の――燃えている足で、俺の肩を骨ごと踏み砕いた。
「グっ……ッ」
吠えた。響き渡る自分の声は、ひどく耳障りだった。
少女はそのまま、俺の腕を引きちぎった。
逃げなければ、と思う。
勝てない、駄目だ、このままでは駄目だ、死ぬ、殺されてしまう。一度は殺した相手に? 冗談じゃない。そんなことがあってたまるか。これまで、自分が怪物というだけで現実から大きく逸脱してきた。今、俺はその地点からさらに遠くへと歩を進めて、行き過ぎて虚無へと向かいつつある。傷口が激しく燃えている。目に映る何もかもが、夢でも幻覚でもないことにひどく狼狽する。冗談のような存在は俺達だけで充分なはずだ。何故、今になって、このような状況に陥らなければならないというのか。
俺は何に出会ってしまったのか。
俺は、なんというものに出会ってしまったのか。
怪物には再生能力がある。少しの損傷でも、時間さえあれば治るようになっている。だが、これは駄目だ。再生を上回る速度で肉体を破壊されれば、いつかは死ぬ。
彼女は、バッタの脚や、トンボの翅を抜くような気分だっただろうか?
俺達が普通の少女を手にかけるような簡単さだっただろうか?
だとしたら、もう勝ち目はない。
少女は俺の腕を投げ捨てた。
逃げよう。
逃げるだけなら、できるかもしれない。
「ぐ――ウ、ぁ――!」
痛みを誤魔化すように、強く身をよじる。予想外の力に驚いたのか、少女は俺を踏みつけたままではいられなかった。肩を庇いながら転がって、なんとか立ち上がり、俺は残った左腕の爪を調整した。
「コアを潰すんだ」
と妖精が言う。
「うるさい!」
と少女が言う。
俺は彼女が動くより先に床を蹴った。そのまま飛びかかるように見せかけて直前で方向を変え、少女が投げ捨てた俺の腕に標的を変える。飛び散ったガラスの中にそれはあった。爪を指に戻し、拾おうとする。一瞬、ガラスの中で影が躍る。振り返る。炎に包まれた靴が目前に迫っていた。その飛び蹴りを紙一重で避ける。少女は着地するなり拳に炎を纏わせて、それを振るう。俺は屈むと同時に足払いを仕掛けた。少女はあっけなくバランスを崩す。片手落ちでこれほどの動きができたことに自分でも驚く。多分次はもうない。
「いかん!」
少女のドレスを掴み、ありったけの力で放り投げる。
「うわ――」
結果を気にする余裕はなかった。壁に激突したのか、瓦礫の山へ突っ込んだのか、とにかく痛そうな音を聞きながら、ようやく右腕を拾った。月を見る。それに向かって跳躍する。屋根のない部分が広くて助かった。
それから、右腕と肩の傷口を合わせて押しつけながら、すぐそばの林の中へ入って、がむしゃらに走った。走り続けた。少しでも足を止めたらすぐ後ろまで少女が迫ってくるような気がして、それが恐ろしかった。
走って、走って、走り続けて、そのうち疲れて、俺は足を止めた。林の中は思っていたよりもずっと広かった。近くの木の幹を背にして座り込む。
腕はもう繋がりつつあった。
怪物は頑丈なのだ。