1 プロローグ 上
姿を変えたところでようやく、それほど腹が減っていないことに気付いた。
「δ君は、今日はどこを食べる?」
と同じく姿を変えたβさんに聞かれて、すぐに答えを返すことができない。薄紅色に光る双眸がこちらを見つめている。残り二つの影も、黙っている俺に気付いて同じように光る眼を向けた。暗闇の中にいるが、三人のモノトーンな姿はよく見える。
俺も同じ眼を持ち、同じ肌を持っている。同じ服も着ている。
「今日は……どうしようかな。すいません、まだ決まらなくて」
やっとのことでそう言い、人間でいる時よりもごつくなった手を、無意味に握ったり広げたりした。腹が減っていない、というよりは、あまり気乗りしない、が正しいだろうか。そうだ、腹はいつだって減っている。しかし、目の前の肉塊に、いつもより食欲をそそられない。原因の心当たりもある。一昨日、我慢できずに丸々一人食べたからだ。遺品整理で見つけた財布の中の学生証は、某お嬢様学校のもの。ポイントカードは持たない主義、どこかの観光地のテレカ、IC定期券、共通乗車パス、保険証、診察カードは歯医者のが一枚。シンプル。金には困っていなさそうな中身だったが、かといって本人が肥えているというわけでもなかった。しかしそれでも一人は一人、丸々食べてしまえば、どんな痩せ型でも結構な量になる。昨日の今日でみっともなくがっつくような気分にはなれなかった。ただ、今日の食欲のなさは、それだけが原因ではないような気がする。かといって、残る原因が何なのかまでは、わからない。
今日のパーティーも全員が集まっていた。αさん、βさん、γさん、そして俺こと、δの四人。いや、四匹。ささやかな集まりだ。そう、ただ集まって、慎ましい食事をするだけ。その夜、一等運の悪い少女のうちの誰かが、優しく首を絞められて、俺達の胃袋に収まる。
俺達は怪物だ。普段は普通の人間として社会の中に溶け込んでいるが、こうして食事をする時には、異形の姿へと変貌する。人型は保たれているが、それぞれに特徴を持っていて、例えば、俺が初めて怪物となった自分の体を鏡の前で点検した時に持った印象は、狼だった。二足歩行の狼――人狼。
「ふーん……珍しいよな。いつも、心臓! つって自分から抉るのに」
γさんは私立大学に通っている学生で、児童福祉系のサークル活動とアルバイトの合間を縫ってパーティに参加している。怪物になると目が大きな一つしかなくなるので、俺は密かにサイクロプスが変身のモデルだと思っている。βさんは鼬のようにしなやかな体を持っている。彼の特技はちょっとすごくて、風を操り、真空を作り出すことができる(ということで俺達は納得している)。きっと鎌鼬なのだろう。教材関係の会社に勤めていて、γさんのバイト先というのもそこだ。さらにその取引先の一つが、黙々と少女を解体している男、αさんの経営する文具店ということになる。αさんの外見は牛の特徴が出ていて、ミノタウロスのように、斧を使って肉ごと骨を断ち切っている。
「いやあ、なんだか腹の調子が悪くて」
と俺がおどけて言うと、みんな笑った。怪物は腹を壊さない。この中の誰一人としてそういう経験はないだろう。消化の感覚はあるが、排泄をしないので、食べたものがどこへ行ったのかさえわからない。
俺はこの四人の中では圧倒的に食い意地が張っている方だし、何より積極的だ。人間でいる時もよく食う。そんな俺に食欲のない時があるだなんて、自分でもおかしな話だと思う。
新しい血飛沫と共に、γさんの口笛が鳴る。
「あんなうまそうなのになあ。腹の調子が悪いんじゃ仕方ない。まあ、オレ達がその分も、しっかり食べてあげないと」
今日の獲物は、誰よりも関心を寄せられなかったから狙われた。いつもそうだ。そういうものだ。群れからはぐれたか、あるいは自分から離れていくような個体は狙われる。夜道を一人で歩いてはいけないという、初歩の初歩を忘れている人間は、意外と多い。
そして今日の食堂は、どこよりも関心を寄せられなかった廃屋だ。前は何かの事務所として使われていたのだろう。足の折れた机や、カバーの剥げたソファなどにその面影が見えた。誰にも使われず、かといって取り壊されることもない、忘れられた場所。
どちらも俺達にとって都合のいい状況だ。しかし、誰も俺達のことを知らない。
どうして俺達がこんな食事をするのか? 世の中には食人嗜好が存在して、ある時には恐怖の対象となり、ある時は薬の代わりとされ、ある時には食糧事情を解決したりもしたが、俺達のような怪物が年端も行かない少女を食べるのは、単純に腹が減るからで、必要だからだ。空腹を満たすために食べる。この空腹は特殊なもので、人間でいる時のそれとは全く別のものである。人間でいる時に何を食べようとも、怪物としての空腹が満たされることはない。変身した状態で少女を食べて初めて、腹は膨れる。この少女というのが重要で、どういうわけか、それ以外に何を食っても腹が満たされることはない。それどころか、味を読み取ることもできない。怪物の空腹は、人間でいるときの空腹よりは、ゆっくりと長いスパンで進行していくが、完全に満たされるということはない。程度の差こそあれ、俺達はいつも腹が減っている。そうして時間が経つと、我慢できないくらいに食欲が増大する。それを放置し続けると、やがて人間でいる時の体調に影響を及ぼし、医者へ駆け込んでもおそらく原因をつきとめてもらえない。そこまで試してみたことはさすがにないが、やがて死へ至るだろう。深刻なのだ。
だから、怪物としてそれほど食欲がない状態、というのは、本当に不思議なことだった。しかも、これが初めてというわけでもない。これまで何度か、同じように感じることがあった。どれも最近だ。多くなった、と言ってもいい。だがそれも一人で食事をした時に感じていたことで、今のように皆で食べる時には気にしていなかった。
「まあまあγ君、そんな風に言ったらかわいそうだよ。δ君も、ちょっととぼけてみただけなんだから」
俺がこのパーティに参加したきっかけはまったくの偶然で、他の三人が使っていた別の食堂にたまたま俺も目をつけていて、そこで出会った。そのまま意気投合し、こうして時折一緒に食事をするようになったというわけだ。
「なんかすいません、変なこと言っちゃって」
「いいんだよ。それより、まずはどこを食べる?」
「……心臓で」
「そうこなくっちゃ」
会話を聞いていたαさんは黙ったまま、少女の心臓を手で抉り出し、俺の目の前に差し出した。既に止まって久しいが、それでも暗闇の中で赤黒く輝いて見えた。俺は心臓を受け取って、かぶりついた。新鮮なトマトのように、血が溢れ出して喉を流れていく。
俺は笑って言った。
「うまい」
「それはよかった」
心臓の他に、右足だけを食べて、パーティは終わった。他の三人もそれぞれの好物を食べた。αさんはいつものように顔のパーツをちぎりながら脳を啜っていたし、βさんは残った手足を主に食べていた。γさんも内臓をきれいに食べ尽くした。
何かが足りなかった。それがわからなかった。
最後に、αさんが指をパチンと鳴らすと、床に広がっていた血痕は煙のように消えた。
俺達は現実の外に生きているのではないかと、時々思う。
解散した途端に、人間として腹が減ってきた。少女を食べる前に夕食は済ませていたのだが、まだ少し足りなかったらしい。今夜は月がよく光っている。駅の近くのスーパーで総菜でも買って、お気に入りの場所で月見でもしようかと検討する。もやもやした気分を引きずっていることに対するいい気分転換のように思えたので、その案はそのまま実行された。
お気に入りの場所というのは丘の上にある廃教会で、屋根が半分ないので、晴れた日に空を見るにはうってつけだった。人なんか来ないし、周りに建物も少ない。
誰も来ない場所に一人でいるのが好きだ。怪物であることと、廃墟が好きなことには密接な関係があるのではないかと考えたことがある。誰にも見つからない場所を知っている者こそが、怪物にふさわしいのではないかと。
もちろんこれは単なる想像で、俺が怪物になったのは――そのことだけは今でもはっきりと憶えている。廃墟に寄りつくことすらしなかった、五歳の時だった。
当時の俺は所謂マセガキというやつで、同じ組の女の子に真剣に恋していた。愛していたと言ってもいい。理由はもう擦り切れて思い出すのも困難だが、事実には違いない。ある時、俺はその娘に愛の告白をしようと思い、誰にも知られていない場所へ呼びつけた。おそらく、彼女も俺のことを悪くは感じてなかったのだと思う。疑問を抱いている風もなくやってきた彼女に対して、俺は、極度の興奮を感じた。言うべきことを、言った記憶はある。だが、その後がひどく曖昧で、はっきりしているのは、俺がそのとき初めて怪物としての食事を行ったということだ。
証拠がなかった。たったそれだけのことで、疑われすらしなかった。誰も五歳の少年が、怪物へ変身して同い年の少女を食べるなんて想像できなかったからだ。人間が想像しうることは全て起こりうる、という考え方がある。事件に関わった人々にとって、俺の行動は想像できないことだったので、彼等の世界の中では、起こらなかったのだ。
誰にも言えなかった。言えるわけがなかった。俺は独学で自分の生態を学んだ。誰にも知られずに食事をするために、必要なことは驚くほど少ないということを知った。最低限どれだけの食事を行えばどれくらいの間健康に過ごせるかも把握しておかなければならなかった。だが、順応にそれほど苦労はしなかった。最初から刷り込まれていたかのように、俺は怪物であることを受け入れた。
これは後で知ったことだが、俺は珍しいケースだった。αさんもβさんもγさんも、怪物として覚醒するまでに、死を経験している。αさんは若い頃の交通事故が元になっていて、βさんには持病があった。そして、γさんは、純粋な人間であった頃に、怪物の食事現場を見てしまった。口封じのために殺されたのが、いつの間にか怪物として生き返っていたそうだ。
俺達は何者なのか? というより、一体全体、何なのか?
誰も答えてくれない。誰も知らないからだ。
廃教会は、いつもと同じようにそこにあった。そろそろ本格的に暖かくなってくる頃だが、虫の音すら聞こえない。限りなく静寂に近い。俺が動いた結果生じる音だけが聞こえる。教会は全体的に朽ちている。屋根の大部分が無くなっているし、窓に打ちつけられた板にすら、かなりの劣化が見られる。錠前のぶら下がった扉がその中で唯一時を感じさせないのだが、わざわざそんな所を通らなくても裏口の鍵が壊れているので、そこから入ることができる。言うまでもなく壊したのは俺だが、今のところその状況は放置されている。
そこは忘れ去られているのだ。
――そういう認識が頭の中にあったので、俺は中へ入って初めて、泣き声に気付いたのだった。いつもと変わらぬ静寂があるというのはただの俺の思い込みで、声量から察するに、外にいた時点でも耳をすませば拾うことができたはずだ。
まず最初に、今すぐ引き返すべきだという案が挙がった。これは実にシンプルで妥当な考えで、メリットとしては余計なトラブルを避けることができる。次に、誰なのか確認まではしておくべきだという案が挙がった。この場所を知っているのは俺だけだ、という前提が消えた今、声の主は間違いなく危険人物である。俺以外の誰かがこの場所を使っているというのが既に腹立たしいし、彼女は、俺がここの鍵を壊していなければ果たしてこんな場所を選んで泣いただろうか、という気持ちもある。
そう、声の主は女である。しかも、年若いという確信さえ持てる。
第三の案――食事の時間だ。
衝動。霧が晴れていくような感覚。先程までの気分が嘘のように、俺の怪物としての食欲が復活している。既に走り出した。身体は勝手に動いている。
変身する。
何が行動へ移させたのだろうか? 物理的な材料としては音だけしかなかった。だが、それでは説明がつかない。もっと膨大な情報を処理している感覚がある。
月の夜、廃教会で、偶然見つけた、泣いている少女を、俺は今、感じ取っている。
運命だろうか?
俺は、怪物としての食事に運命を求めているのだろうか?
偶然性か? あるいは可能性? またあるいは、何だろうか?
この場で計画もなく食事を行うことに対して、何を感じているのだろうか?
わからない。確かめる必要があった。
もう殆ど距離はなかった。割れたステンドグラスが一瞬視界に入り、また一瞬で出ていく。月明かりに照らされた少女の顔を見て、俺はそれだけでかなりの充足感を得た。合致している、と思った。俺の衝動と、寸分違わず。理想的な――こんなことがあるのだろうか? 恐怖と放心、困惑、悲しみと、何故か諦めが、程よくミックスされたその表情を、たまらなく愛おしく感じる。
少女は、一つだけ壊れていない長椅子に座っている。俺もいつもはそこに座っている。首を掴む。細い。片手だけで締め上げることができる。俺は少女を激しく、それでいてどこも傷つけないよう、床の上へ引き倒した。俺はいつも、プランに狂いさえなければこうしている。すぐに食べるという前提があれば、これは生前の状態をきれいに保存できる方法のうちの一つだ。楽しみが増える。
少女の表情はめまぐるしく変化したが、内訳それ自体はあまり複雑ではない。苦しみが混じった程度だ。その中で諦めの色がどんどん濃くなっていくことに少し引っかかりを感じたが、すぐに気にならなくなった。俺は手に込める力を徐々に強くしていき、途中からは一定に保った。
やがて少女は死んだ。俺が殺した。
今までにない高揚を感じる。今から、この少女を喰うのだ。昂らない方がおかしい。俺は指先を爪へと変化させた。鋭さには多少自信があるが、それだけといえばそれだけの代物。
服を脱がせる手間も、持ち物を検める手間も惜しい。心臓を取り出そうと、爪を胸に突き立てようとして、止めた。急いでいるのではなく、焦っているような気がしたからだ。あまり俺らしくない。そうだ、すぐに終わらせてしまうのはあまりにもったいない。久々のまともな食事になりそうなのだから、時間をかけてじっくりと味わうべきだ。
まずは、食す前に獲物の姿をしっかりと目に焼き付けておかなければならない。
冷静になって眺めてみると、少女は混血だった。おそらく白い欧州人の血が混じっている。月の光が肌の色を強調するように照らしていた。開かれたままの瞳の虹彩も、どこか日本人離れしている。染めているのかと思った髪も、きっと地毛だろう。考えてみれば、こういうタイプの少女を食べるのは初めてかもしれなかった。
ふと、気付いた。
いつの間にか、少女の首に、何か、黒いチョーカーのようなものが巻きついている。元から、ではない。俺が締め上げる前、少女の首には何も巻きついてなどいなかった。
では、これは一体何か。
ただの記憶違いか。それとも――。
調べるために、触れてみようかみまいか、迷いに入ったその時だった。
少女が、俺に目を合わせた。