脱出
「う、うぅぅぅん」気がつくと、俺は地面に横たわっていた。
さっそくオヤジの顔が目に飛び込んでくる。人工呼吸はされていない。オヤジも横になって互いが向き合うかたちだ。
暗澹とした気持ちになった。意識が戻って目を開くまでのわずかな間、ここは生前に住んでいた自分の家のような錯覚があったのである。二十四年の習慣であろう。
しかし、全て夢ではなかったのだ。事故に遭ったことも、恐怖の空中浮遊も、オヤジに押し潰されての接吻も、バニーガールたちとの悶着も、ゲテモノ料理も、取りモチも、何もかも。
上半身を起こしてみるとオヤジの後ろでバニーガールの二人も寝息を立てていた。破けていたはずの衣装は俺の服やズボンと同じく元に戻っている。
地面も、だ。あの強力な取りモチはどこにもない。オヤジや俺やバニーガールたちに付着していたやつまでも。赤い腫れだけが少し残っていた。
「がぁぁぁ。がぁぁぁ」と、オヤジはイビキをかいて寝返りを打つ。
あんぐりとした口の奥で喉チンコを震わせ、ヨダレの糸を引き、鼻水まで垂らしていやがる。なんたるアホ面。
俺はむかっとした。今までの経緯もあって殴打の衝動に駆られたが、それをすんでのところで我慢した。
「もうコイツらと関わり合いになるのはヤメだ」かたわらに転がっていた靴を履き、黄金色の扉から外へ出る。「じゃあな。バニーガールたちと糞オヤジ」
糞オヤジとはなかなか巧いことを言うな、などと心の中で自賛しながら扉を閉めた。お別れである。こんりんざい会うものか。
「このまま真っ直ぐだな、真っ直ぐ。最初に目覚めた場所は」二、三歩ほど進んで、あることに思い至った。立ち止まる。「食べ物を持ってくりゃよかったかな」
食べ物とはオヤジの排泄物のことではない。調味料だ。あれもいちおうカロリーにはなる。まだ口に出来そうなやつが残っていた。床で混ざり合っていようが、嘔吐感を催すほどの味であろうがないよりはマシ。また腹が減る可能性は大なのだ。
俺はくるりと方向転換して、舌打ちした。「ちっ。やっちまった」
黄金色の扉は閉まっている。自分で閉めたばかりだ。それが、いけなかった。
黄金色の扉にはノブがついていない。さらに枠組みと扉の隙間さえもない。外からどうやって開ければいいというのだろう。
ためしに押してみた。が、やはり開かない。
「しょうがないな。ここから飲まず食わずで行くか」俺は諦めた。「オヤジとバニーガールたちを起こして中から開けてもらうわけにはいかないし。そんなことしたら逆戻りだ。酷い目に合ってしまう。キッチンで摂取したマヨネーズと醤油とサラダ油の混合調味料、あれのカロリーだけで頑張ろう。元の世界に帰れたらマトモな飯を腹いっぱい食えるんだ。そうでなければ、餓死するのだが……。あの世で命掛けだな」
俺は黄金色の扉から遠ざかりつつ愚痴をたれる。
「だけど、なんで俺がこんな目に合わなきゃならないんだ。車にはねられただけじゃないか。不注意ではあったが、死んでしまったのはこっちの方だぞ。誰も巻き添えにはしていないし」
だんだん腹が立ってきた。ここへやってきてからというもの泣いたり怒ったりばかりで、ひとつも楽しいことなんかありゃしない。まさに虐待。虐待につぐ虐待である。
生き返れるかどうかは分らないが、とにかくここからはいっこくもはやく脱出するよう努力しなければ。
「ん。なんかずっと向こうに光が見えてきたな」俺は歩きながら手庇をかざした。「なんだあれは」
自然と速足になる。それは、だんだんとかたちをとり始めてきた。
「あっ。扉ではないか。銀色に発光しているぞ」ついには駆け出した。希望の光である。あそこがあの世と現世をつなぐ扉かも知れないのだ。「やったぁ。やったぁ」
そこへ近づけば近づくほどに加速していった。陸上競技でなら世界記録を出していたことだろう。
「もうすぐだ。もうすぐだ」
しかし、いったいここはどういう仕組みになっているのだ。俺が最初に目覚めた場所はまだまだ先のはず。
あの銀色の扉はその中間地点くらいではないのか。あんなものは、ぜったいになかった。
だいいち、あの世に扉がある意味も分からない。そんな教えを説く宗教があっただろうか。少なくとも俺は知らない。
あの世で気絶したり死にかけたりなどの肉体的反応もおかしいが、神様のイメージもまるで違う。あのオヤジがそうだとするならば。罪もない者を虐げるのが神なのか。
いろんな疑問が湧いてきて、その答を考えているうちにとうとう俺は扉の前までやってきた。
「はぁはぁ。はぁはぁ」こんなに走ったのは何年振りであろう。脇腹が痛い。
「ここにもノブはついていやがらない」俺は顔を歪めて言った。「だが、ここは押せば開くことだって有り得る。開き戸と決めつけるのは早計だ」
祈るような気持ちで手を伸していく。
扉がばたぁぁぁぁぁぁんと凄まじい音を立てて勢いよく開いた。
「ひゃあ」あやうく突き指をするところであった。いそいで引っ込めた手を俺はまじまじと見つめる。
奥の方から聞き覚えのあるドラ声が飛んできた。
「はやく中に入ってこい」
覗いてみると、あの神を名乗るオヤジの姿。胡座を掻いて両側にバニーガールを従え、仏頂面で手招きしている。
俺は力まかせにばたぁぁぁぁぁぁんと扉を閉めた。ついでにどかんどかんと蹴りも入れてやる。
「くそ。本当にここはどうなっていやがるんだ」俺は肩をそびやかして大股に前へ前へと進んで行った。「なんで銀色の扉の中にオヤジとバニーガールたちがいたんだ。先回りされた覚えは、ないぞ。こんなところで追い越されようものならすぐ気がつくに決っている。地下通路でもあるのか。いや、魔法か」
振り返ってみると、あの銀色の扉は遥か彼方。
歩きながら目を右や左にきょろきょろさせる。オヤジとバニーガールたちの姿はない。
感覚的にいって俺が最初に目覚めた場所はこの辺りだったのだろう。そう思った時、またもや前方に光が現われた。
「ん。今度のは赤い扉か」俺は悪い予感に襲われながらも駆け出した。
他に行く当てなんてない。あれに望みを託すしかないのだ。
「はぁはぁはぁ」
そして息も絶えだえそこへ到着すると、図ったかのように扉は中からばたぁぁぁぁぁぁんと開いた。
「おい。はやく」
俺はオヤジの言葉を最後まで聞かずに扉をばたぁぁぁぁぁぁんと閉めた。
ばたぁぁぁぁぁぁん、ばたぁぁぁぁぁぁん、どかんどかん、ばたぁぁぁぁぁぁん、ばたぁぁぁぁぁぁんとやかましいこと、この上ない。耳鳴りがする。