危機
――「ふんぬばら」と、オヤジの叫び声。パチンと指を弾く音がする。「地面よ、取りモチになれ」
「うわっ」右足の踵が上がらぬまま踏み出した左足も地面にくっついて、両膝、両手の順に崩折れた。べちょっと、ねばねばの触感。
犬のような格好で動けやしない。地面が強力な粘着性の糊になっている。あの魔法だ。
「くそぅ。てめぇ何をしやがる。はやくこれを」俺はめいいっぱい首を後ろへねじ曲げた。「どうにか、し」
オヤジとバニーガールたちも地面に倒れていた。三人とも顔だけこっちへ向けてうつぶせに真っ直ぐ体を伸している。川の字だ。
オヤジはばつが悪そうに言う。「助けて」
「お前もかぁぁぁ」両の手足が地面に固着していなければいちメートルほどは飛び上がっていたに違いない。俺の背中がどくんと突き上がった。「ま、魔法で取りモチを消せ。地面を元に戻せ」
「無理じゃ。手が動かせない。指をぱちんと弾けない」
「なんだってぇ。あれは指を弾かないと出来ないことなのか」
オヤジは俺の質問に答えず遠い目をした。
「ワシら、このまま死んでいくんじゃなぁ」
「なんで地面をぜんぶ取りモチなんかにしたんだ。自滅じゃないか。馬鹿かお前は」
「気が動転しておったのじゃ。だからとっさに地面よ取りモチになれなどと叫んでしまった。言葉が足りなかった。おぬしの足元の地面、と言うべきじゃった」
ぐっと、俺は唇をかんだ。
オヤジは情けなく目尻をたれ下げている。
その両側のバニーガールたちも似たような表情。泣きそうだ。
「まぁ、これも死ぬまでの辛抱じゃ。そうすればここから開放される。別のところで甦る」オヤジは暗然と言った。「いっこくもはやく死ねるよう、神に祈ろう」
「お前のくだらない冗談はいいんだ。お前が神なんだろうが」俺はがなり立てる。「神なら真面目に考えろ。この窮状から脱する方法を」
「何も思いつかん」オヤジは逆ギレしてきた。「自分で考えろ」
「お前のせいでこうなったんじゃないか。ふざけるな。死に至るまでは苦しいに決っている。このままいけば餓死だ。神が不注意で人を殺してもいいのか。よくないだろ。ダメだろ」
「そんなもん、関係ない。思いつかんもんは、思いつかん」ぺっぺっぺっと、この距離で届くわけがないのにオヤジは俺めがけて唾を吐いてきた。
こんな醜行、小学生でもしやしない。コイツは本当に神様なのだろうかと、また俺の頭の中に疑念が湧いてきた。
いちおう不思議な能力を有しているのだから、人間ではない。人間ならば最初のあの空中浮遊の時点で……。
「あっ」と、俺は声を上げた。「お前、空中浮遊をしろ。空中浮遊を」
「それはやって見せたではないか」オヤジは生気のない半眼だ。「もう、なんだか疲れた。寝る」「おい、寝るな。あの空中浮遊は指を弾かなくても出来るよな。たしか弾かなかったはずだ。答えろ」
「あれは、念じるだけでいい」
「だったら今すぐやれ。空中に浮き上がって、それから俺たちを助けろ」
「あっ」今度はオヤジが声を上げた。「なるほど。その手があったか。うむ。おぬしは賢いぞ。よし、ならば」
めりめりめりと剥離音を立てて、オヤジが宙に浮かび始めた。
体と地面とをつなぐ取りモチの糸がぶちぶち千切れていき、完全な自由の身となるやいなや瞬く間にはるか二十メートルほどの高みへと達する。
オヤジは上空から俺に手を振った。破顔一笑だ。
「おぬしらもこい」 そう言うなり、俺とバニーガールの二人も浮び始める。
俺の靴が脱げ、つづいてズボンの膝が破れた。下半身から浮き上がったのだ。
残りは両の手。逆立ちの状態である。
「ぎゃぁぁぁ。痛い痛い」激痛が走った。目に見えぬ物凄い力で上へ引っ張られているのだ。俺の掌の皮膚が剥がれるのが先か、取りモチが切れるのが先かといった感じである。「魔法で助けろ。地面を元に戻せ」
鼻歌をうたいながら上半身でリズムを刻んでのりのりのオヤジ。
俺の言葉など耳に入らぬといったふうだが、本当は聞こえているに違いない。自分が空中浮遊をする際に痛かったから、俺も同じ目に合せようとしているのだろう。
ところどころに取りモチの付着したオヤジの体は赤く腫れていた。
「うぎゃぁぁぁ」
そしてぶちぶちぶちと取りモチの千切れる音がして、俺はオヤジの横へ至る。
慌てて掌を確認した。もしかしたら皮膚や肉が剥がれたかも知れないと思っていたが、幸いにも無事である。オヤジと同じく点々に取りモチが残って赤く腫れているだけだ。
少し遅れてバニーガールの二人も飛んできた。頭と両の手足を地上に向かってぐったり垂らしている。レオタードと網タイツの前部が破けていて、半裸に近い。
正気に戻るとすぐに胸と局部を手で隠し、俺を軽蔑のまなざしで見つめてきた。
「俺のせいじゃない。コイツだ、コイツがやったことじゃないか」オヤジを指差して訴えた。
しかし、バニーガールの二人はますます俺に対して軽蔑心を抱いたらしい。眉間が曇る。濡れ衣だ。
「何でそういう対応なんだ。どんな理屈だ。衣装が破れたのは取りモチでだろ。それを出現させたのはオヤジだろ。オヤジのせいだろ」と、ぜんぜん難しくないことを噛んで含んでやっているそばから、またしても俺は目に見えぬ強い力で引っ張られた。横に引っ張られ続けた。「うわぁぁぁぁぁぁ」
飛行である。前方三メートルくらいのところにオヤジの尻があった。フンドシからは金玉がハミ出していた。
「楽しいなぁ。楽しいなぁ」
「おい。この飛行には何の意味があるんだ。降ろせ、降ろせ、降ろせ。地面を元に戻してからゆっくり降ろせ」
「楽しいなぁ。楽しいなぁ」
無視だ。いや、これは本当に聞こえていないのかも知れない。
オヤジを先頭にして俺、バニーガールたちの順で空中を旋回し続ける。地面スレスレまできてまた上昇するあの芸当もセットだ。
「うわぁぁぁぁぁぁ。ぎゃぁぁぁぁぁぁ。やめろやめろ。降ろせぇぇぇっ」だんだんとここがどこなのか、自分が何をやっているのかも分からなくなってくる。
頭の中に靄がかかっていく……。