正体
そんな俺の肩をオヤジが軽くぽんぽんと叩く。気を使ってくれたに違いない。
オヤジは口を開いた。
「おぬしらの世界の尺度でここを計るのはたいへんじゃ。ひとつひとつ覚えていけばよい」
「うんうん」俺は目頭を拭った。
この涙は何の感情によるものなのかは自分でもさっぱり分からない。
バニーガールの二人もやってきて、両側から俺の太股を叩き始めた。こっちの方は事務的である。能面とみまごうばかりの無表情。叩きかたも、雑だ。
「ありがとう。もう、なぐさめてくれ、な」くらっと、俺は目眩を起こした。
「どうした」すかさずオヤジは心配そうに唇をとがらせる。
俺の腹がぐうっと鳴った。
「考えてもみたら、長いこと食事にありついていない。死ぬ前の日にインスタントラーメンを食ったきりだ。やたらと体も動かしたし、腹と背中がくっついちまう。ごちそうしてくれ」
「ごちそう、とな」
「ああ。さっき責任を取ってくれるとか言っていたが、その代わりに飯を腹いっぱい食わせてくれるだけでいい」
「なんじゃとう」オヤジは片方の眉を吊り上げて額にシワを刻んだ険しい顔で仁王立ちとなった。頬がぴくぴくと痙攣する。
これはマズい。オヤジの首を絞めた直後に図々し過ぎたか。そう思い、俺は大慌てで訂正した。
「いや、できればってことなんだ。できればって。そうして貰えたら、うれしいかな、なんて」
「ふんぬばら」と、オヤジは右腕を振りかざした。
「ひゃっ」俺は頭を抱え込んだ。ぶん殴られるのを覚悟した。
が、オヤジは俺とまるであさってな方向に体をひねり、指をパチンと弾く。「そこにいでよ、キッチン」
腕を伸ばした先にぼわんと白煙が立ち昇る。
「おおおっ」俺はぶったまげた。
なんとそこには周りと同化するような真っ白い長方形の建物が現れているではないか。これこそイメージ通りの魔法だ。
オヤジは俺に満面の笑みを向けた。
「腹がへっているならへっているで、なぜもっとはやく言わん。もう、いやねぇ」
なぜか少しオカマキャラになっている。これはたぶんギャグのつもりなのだろう。どっちみち気持ちの悪いことに、変わりはない。
俺はオヤジにたずねてみる。
「キッチンと叫んだように聞こえたが、あれは、もしかして……」
「ご明答」オヤジはウインクした。「楽しみに待っておれ。主婦の意地にかけて、ぜったい満足させるわ」
いそいそとキッチンの中へ入って行った。
バニーガールの二人がぱちぱちぱちと拍手を送っている。
やがて、油の投入された中華鍋をあやつるような音。
俺はバニーガールに話しかけた。
「なぁ、あんたらはいったい何なんだ。あのオヤジが神様だとしても、あんたらの存在意義というか正体というか、それがいまいちよく分からない。召使みたいなものなのか。現世でバニーガールをやっていて、あのオヤジに気に入られたとか」
料理が出来るまでの暇潰しと、最初からの疑問である。
バニーガールの二人はそろって俺に顔を向けた。相変わらずの無表情。質問に答える気配すらない。
「まさか、あんたらも神様じゃないよな。女神様」俺はことさら軽薄な調子で喋り続ける。このほうが彼女らも取っ付きやすいだろうとの計算からだ。「いや、発想の転換で悪魔ってことも。なんてね。あはははは。あっ」
俺は自分の発した言葉にぞっとした。なんてことだ、今の今まで考えもしなかった。その可能性もあったのだ。
俺は重い腰をあげてバニーガールたちに歩み寄る。
「尻を見せろ。悪魔なら先のとがった黒いシッポが付いているはず。いやらしい気持ちからではない。確認だ」
まさに脱兎の勢いでバニーガールの二人は逃げ出した。
元が人間の女なら、今日会ったばかりの男に尻を見せるわけがない。悪魔なら悪魔で正体を知られたくはないだろうし、女神様にしたって威厳がまる潰れだ。
どっちにしたって逃げ出すに決まっている。
俺は追いかけた。
「尻を見せろ尻を見せろ尻を見せろ」
客観的には変態そのものであろう。しかしここは死後の世界。なにかまうものか。
俺とバニーガールたちはキッチンの周りをぐるぐる、ぐるぐる駆け続けた。
体調が万全なら女の足なんかに負けやしない。すぐに捕まえきれたはずである。
が、俺は空腹状態。差は開き、バニーガールたちの姿が角に消えた。
「くそぅ」またしても目眩を起こして、俺は地面に膝をつく。「逃げられちまった」
くやしくて歯がみした。ーーその瞬間である。俺はどんと後ろから衝撃を受けて突っ伏した。
「痛ててて」振り返ると、そこにはバニーガールの二人も倒れている。
俺もバニーガールたちも気づかなかったのだ。一週遅れである。
「このやろう」俺はバニーガールのひとりに踊りかかって行った。
足を捕え、レオタードに手を伸ばす。
それを必死に打ち払うバニーガール。
もうひとりが立ち上がり、仲間を助けるべく俺にビンタの雨をくれる。「こら、無駄な抵抗はするな。尻だ。素直に尻を見せろ。尻尻尻」俺は尻を連呼した。
と、キッチンのドアががちゃりと開いて、オヤジが顔をのぞかせる。額には玉の汗。
「なんじゃ。騒ぞうしい」
「尻だ尻だ尻だ、尻」
オヤジに一瞥をくれたのが間違いの元だ。暴れるバニーガールの蹴りが俺のみぞおちに入った。
「ぶはっ」急所である。息が詰まって俺は失神しかけた。
体をくの字に曲げたまま動けやしない。
バニーガールの二人はオヤジの背後へと隠れてしまった。
「あの世にきてまでセクハラか」オヤジは憐れみに満ちた様子で頭を震る。
「ちがう」俺は脳髄まで痺れるような痛みに堪えながら、否定した。「あんたらの正体を確かめようとしたんだ」
「正体、とな」
「ああ、そうだ。もしかしたらあんたらは悪魔かも知れない。尻に黒いシッポが」
「ほれ」と、オヤジはフンドシをずり下げ、尻をこちらへ向かって突き出した。
発疹だらけで薄毛の生えたそこは汚いことを除けばいたって普通。シッポなんて、ついていない。
オヤジはフンドシを締め直しながらぶちぶちと陰毛を引っこ抜く。
「疑いは晴れたじゃろ」指でつまんだそれをふっと吹いた。「そもそもシッポ云々のその発想なら、影を見れば済むことではないか」
「影、だって」俺はオヤジの陰毛を避けながらきき返す。
「そうじゃ。悪魔がうまく化けていても影が正体を」
「あっ」と短く叫んで、俺はオヤジとバニーガールたちの影に視線をやった。
オヤジはオヤジの影であり、バニーもバニーでそのままだ。
オヤジは溜め息をもらした。
「だいいち、悪魔とは神の元を追放されて地に堕ちた天使のことをいう。つまりは堕天使。現世に災いをもたらしたり、人間をそそのかしたりするのが奴らの役目じゃ。魂と引き換えに願いを叶える、なんて話は聞いたことがあろう。死んでしまったおぬしの前に現れて、なんの意味がある」
冷静になってみれば、オヤジの指摘通りである。
俺はテレ笑いした。「あはははは。やはり俺は馬鹿だな。軽率に過ぎた。すまんすまん」
「もう少しで料理は出来るはずじゃ」オヤジは邪魔臭そうに手で追い払う仕草をする。「あっちで待っておれ」