理由
「なぁ、何でここには俺とお前らしかいないんだ」地面で大の字となったまま俺は素朴な疑問を口にした。「おかしいじゃないか。現世でこれまでに大勢の人間が死んでいる。なのに、誰もいない。俺だけがここでヒドイ目に合っている」
不条理かつ理不尽だ。涙が止まらない。
「他の者たちはそれぞれ現世での行いに応じたところにおる。あの世は、ここだけではない」
「現世での行いに応じたところだってぇ。ここが俺にとってそうだと言うのか。俺が現世で、何をした」
「悪い行いじゃ。むろん二十四年も生きていれば良い行いもあるにはあった。が、それは微々たるもの。おぬしの場合、悪い行いのほうが圧倒的じゃった」オヤジは久しぶりに畏怖堂々たる険しい表情となった。
「悪い行いだと。それは何だ。具体的に言ってみろ」怒りの感情がぶり返してきた。
これほどヒドイ目に合ういわれはない。そんな悪事は、働いていない。ぜったいに。
俺はオヤジに抗議してから、また泣き出した。号泣である。情緒が不安定だ。
耳にオヤジの声が降ってくる。
「いや、おぬしはこのような目に合うだけのことをやった」
「やってない。ぜったいに、ぜったいに、ぜったいだ」泣きながらかぶりを振った。「やってない、やってない、やってない」
「やっておる」オヤジは恫喝する。「具体的に言ってやるぞ」
「言ってみろ。何をした。俺は」泣き叫んだ。
「シコった」
「うわぁぁぁぁぁぁ」そのひとことで俺の中の何かがぶつりと音を立てて切れた。「シコったら悪いのか。罰を受けなきゃ、ならないのか」
「違う。その後が問題なのじゃ」危険を察したオヤジは素早く俺から二、三歩後ろへ退いた。
握り拳で立ち上がった俺はバニーガールの二人に羽交い締めされて、いっそうオヤジから引き離される。
「シコった後、おぬしは実家の二階にある自室から裏の畑へ精液まみれのティッシュを投げ捨てておったな」安全な距離からオヤジは言う。「ほとんど毎日じゃ。日に四、五回捨てることもあった。猿かおぬしは。年に平均四百七十三回捨てておった。シコるのを覚えた小学校六年の三学期から死ぬまでの二十四才までに。十二年間もじゃ。その間、畑の持ち主はえらい迷惑をしておった。捨てられているティッシュの地点から、ほぼ間違いなくおぬしが犯人と推測はしておった。しかし、証拠がない。いつもおぬしは部屋の電気を消して夜中にティッシュを捨てておったから目撃できぬ。おぬしのところは田舎で街灯も届かず、そのうえ畑の持ち主である老人は視力が低い。近所づき合いだってある。下手に嫌疑をかけて関係を悪くしたくはなかろう。犯人であるおぬしを捕まえることなく、十二年間もイカ臭いティッシュを回集し続けたのじゃ。なぜあのような行いをした。馬鹿め」
「面倒くさかったんだよ」指摘をされると恥ずかしいものだ。このオヤジに一部始終を見られていたのか。「二階の自分の部屋でエロ本をオカズにシコって、一階のトイレへティッシュを流しに行くのが。ゴミ箱に捨てたら臭いで親とか友達とかにバレるし。だけどたったそれだけの理由で俺はこんなヒドイ目に合わなくちゃならないのか。釣り合いが取れてないだろ。明らかに」
かっかっ、かっかっと顔面を熱く火照らせながら俺はバニーガールたちを振りほどいた。
もしかしてコイツらにもあれの現場を見られていたのだろうか。目も合わせられない。
「それだけではないぞ。他にもいろいろやった。罪なことを」オヤジはもうよいといったふうに頷いて、バニーガールの二人を側へ手招きした。
「何だ。他に何をやった。俺は」出来るだけバニーガールたちを見ないようにしながら俺は訊いた。
「電信柱の選挙のポスターにマジックペンで鼻毛やホクロを描いたし、友達から借りたゲームを返さなかったし、酔っ払って飲み屋の立て看板に小便をぶっかけたし、燃えるゴミと燃えないゴミをいっしょにして出したし、人の飼い猫を蹴飛ばしてウサ晴らししたし、それからえっと」
たまらず俺は半分悲鳴のような、半分怒号のような、そんな声を張り上げた。
「つまらん理由ばかりじゃないかぁぁぁ」
「何じゃ。つまらんとは」オヤジは心外そうに眉間を曇らせる。
「ぜんぶだ。ぜんぶだ。罪と呼べるようなものは、ひとつもない」
「いや、おぬしの言動は人に迷惑をかけておる」ピシャリとオヤジ。「それすなわち罪なのじゃ」
「誰でもやっているだろ。それくらいは」俺は顔中を口にして喚き立てる。「そんなことすらやっていないというなら、よほどの聖人君子だ。俺は普通だ」
「普通、とな。多くの者がやっていることなら何でも許されるのかのう。そうではないじゃろ」
「何でも許されるとは言ってないだろ。ここまでヒドイ目に合うほどのことを俺はやっていない、ってことだ。何度も繰り返すが」
「たしか中学に入ったばかりの頃」オヤジは片手で目を覆い嘆いた。「バスに乗って小学生料金を払ったこともあったな。中学生は大人料金、小学生は子供料金じゃから。金額が倍も違うから」
俺は地団駄を踏んだ。
「だからたいした罪じゃないだろ。お前の言ってることは。どれもこれもぜんぶ」
「みんながおぬしと同じ考え方ならば、一大事じゃぞ。大人がみな子供料金しか払わなかったらバス会社は潰れる。社員は路頭に迷う」
「中学へ入ったばかりの頃に、ほんの数回しただけだ。だいいちその理屈でいったら何でも大事になってしまう。みんながみんな立ち読みで済ませたら書店は潰れる。働いていた奴らは路頭に迷う」
「悪いことに変わりはないんじゃがのう。罪なことに」オヤジは鼻でふんと笑った。「では、おぬしがここへやってきたのはどうしてじゃ。死因は、何じゃ」
「車にはねられたんだ。赤信号に気づかなかった。不注意だ。それが、そんなにいけないことなのか」俺は激しく抗弁する。「損をしたのは俺だ。痛い思いをしてこんなところにきてしまった。周りの奴らは無事だったはず」
「なぜ赤信号に気づかなかったんじゃ」
「それはパチンコの新装開店が」と、俺はぎくっとした。
我が意を得たとばかりにオヤジがにんまりする。
「そのパチンコをする金、母親の財布から盗んだじゃろ」