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子どもができない妻はいらないそうです。ですが、不妊だったのは夫で、愛人のお腹の子は別の男性の子でした

作者: モーヒアス
掲載日:2026/06/27

 社交界では、私たちは『理想の夫婦』と呼ばれていた。

 伯爵家当主アレクシス・フォン・ローゼンベルク。

 そして、その妻である私、エレノア・フォン・ローゼンベルク。

 早いもので、結婚して五年。

 政略結婚ではあったものの、彼は穏やかな人だった。


「エレノア」


 書類に目を通していると、後ろから肩へ柔らかなショールが掛けられる。


「体が冷たいじゃないか。膝掛けはいるかい?」

「あら……ありがとうございます」

「君は仕事をすると周りが見えなくなるからね」


 そう言って微笑む夫を見て、使用人たちも頬を緩める。


「旦那様は本当に奥様想いですね」

「羨ましい限りです」


 そんな声を耳にするたび、少しだけ照れ臭くなった。

 確かに、アレクシスは優しい。

 記念日は忘れない。

 私の好きな花も覚えている。

 普段の何気ない会話も覚えているし、私の話も目をあわせてちゃんと聞いてくれる。

 体調を崩せば仕事を切り上げて帰ってきてくれるような、誰もが羨む夫だった。

 ……少なくとも、そう見えていた。

 



「今年の収支報告でございます」


 執事のセドリックが書類を差し出す。

 私は一枚一枚目を通し、小さく息を吐いた。


「今年もなんとか黒字ですね」

「はい。奥様のおかげでございます」

「私一人の力ではありません」

「ですが、旦那様は領地経営にはあまり……」

「……セドリック」


 たしなめるように名前を呼ぶと、老執事は慌てて頭を下げた。


「し、失礼いたしました」


 確かに、領地経営の実務は私が担っていた。

 農地の管理。

 商人との交渉。

 税の見直し。

 孤児院への支援。

 使用人たちの採用。

 領民からの陳情。

 貴族との付き合い。

 どれも決して楽ではない。

 それでも、この家のため。

 夫のため。

 そう思えば苦ではなかった。

 アレクシスは外交や王城での仕事が多い。

 ならば家は……伯爵家は私が守る。

 夫婦とは、支え合うものなのだから。

 



 そんな私たちにも、一つだけ悩みがあった。


「お子様はそろそろかしら?」


 夜会へ出席するたび、必ず聞かれる。


「跡継ぎはまだなのですか?」

「もう五年でしょう?」

「お身体は大丈夫ですの?」


 悪気のない笑顔。

 だからこそ胸に刺さる。


「……申し訳ありません」


 私はそう笑って誤魔化すしかなかった。

 結婚して五年。

 子どもは授からない。

 それだけで、周囲は原因を私に決めつける。


「伯爵夫人なのにねぇ」

「お気の毒」

「旦那様もお困りでしょう」


 結婚してから聞こえないふりを覚えた。

 笑顔の仮面を張り付けて心を殺す。

 そして泣くのは夫婦の寝室の中だけ。こんな私でも貴族としての矜持が泣くことを許さなかった。

 どんなに辛いことがあっても、家へ帰ればアレクシスがいた。


「また何か言われたのかい?」

「いえ、とても有意義な時間を過ごせたわ。……少しだけ。……いつものことよ」

「いいんだ、君は気にしなくていい」


 夫は私を抱き寄せる。


「子どもがいなくても、私は君がいれば幸せだ」


 その言葉に何度救われただろう。

 だから私は信じていた。

 この人だけは味方なのだと。

 



 ある日の昼下がり。

 王都の治癒院から帰ってきたアレクシスは、どこか疲れた顔をしていた。


「お帰りなさい、あなた」

「ああ」

「どこか悪いところでもあったの?」


 一瞬だけ、彼の表情が固まる。


「……いや」


 すぐに笑顔を作った。


「ちょっと寝不足でさ。午前の会議がだいぶ長引いたから疲れが出たのかもしれない。今日は先に休ませてもらうよ」

「そう」

「心配させて悪かったね。大丈夫だから安心しておくれ」


 それ以上、私は聞かなかった。

 夫にも一人になりたい時くらいある。

 そう思っていたからだ。

 まさか、その治癒院で――

 私たち夫婦の未来を左右する診断が下されていたなど、この時の私は知る由もなかった。




 それから半年後。

 王城で開かれた小規模な茶会。


「エレノア様!」


 明るい声とともに駆け寄ってきたのは、淡い桃色の髪を揺らす若い女性だった。


「リリアです。お久しぶりです!」

「あら、リリアさん。久しぶりね」


 彼女は男爵家の令嬢。

 まだ社交界に出て二年ほどだが、その愛らしい笑顔で誰とでもすぐに打ち解ける。


「アレクシス様にも、いつも親切にしていただいてます!」

「あら?そうなの?」

「はい!半年ほど前、王城の中で迷ってしまって……。どっちに行って良いか分からず困っていたら、たまたま通りかかったアレクシス様が助けてくださって!」

「それは良かったわ」


 アレクシスは昔から困っている人を放っておけない性格だ。

 だから私は何の疑いも持たなかった。

 少し離れた場所で、その様子を見ていたアレクシスは、私と目が合うと穏やかに微笑む。

 私は微笑み返した。


 ――その笑顔が、半年後には私の人生を根底から壊すものになるとは思いもしなかった。


 この時の私はまだ、自分が『理想の夫婦』という幻の中で生きていることに気付いていなかった。




 それから半年ほど後、私はいつものように執務室で書類に目を通していた。


「奥様」


 執事セドリックの声が、いつになく硬い。


「旦那様がお戻りです」

「ええ、すぐ行くわ」

「……その、ご来客もご一緒です」


 来客。

 珍しいことではない。

 私はペンを置き、応接間へ向かった。

 扉を開いた瞬間、足が止まる。


「……え?」


 夫、アレクシスの隣に立っていたのは、ある日茶会で会ったばかりの男爵令嬢リリアだった。

 彼女は怯えたように俯いている。

 そして、その腹部へ無意識に手を添えていた。

 嫌な予感が胸をよぎる。


「あなた……?」

「座ってくれ」


 その声音には、いつもの優しさがなかった。

 私は黙って椅子へ腰を下ろす。

 向かい合う夫婦。

 しかし、その間にはリリアが立っていた。

 アレクシスは一度だけ目を閉じると、静かに口を開いた。


「リリアが妊娠した。」


 思考が止まる。


「…………え?」

「私の子だ」


 世界から音が消えた。

 さっきまで明るかった部屋が 暗くなったように感じた。

 耳鳴りだけが響く。

 理解できない。

 理解したくない。


「……冗談、ですよね?」

「冗談じゃない」


 夫は真っ直ぐ私を見る。

 その瞳には罪悪感らしきものはある。

 けれど、迷いはなかった。


「跡継ぎができた。だから――」


 そこで一度言葉を切る。


「君とは離婚したい」


 離婚。

 その二文字だけが頭の中で何度も反響する。


「どうして……」


 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。


「どうして、こんな……」

「六年だ」


 夫は低く呟く。


「六年間、私は待った」

「…………」

「跡継ぎは貴族にとって、伯爵家にとって必要だ」

「で、でも、あなたは……」


 子どもがいなくても幸せだと言ってくれたではないですか。

 そう続けようとした私を遮るように、アレクシスは視線を逸らした。


「人は変わる」


 その一言だけだった。


「あの時の言葉に嘘はない。あの時は本当にそう思っていた。彼女……リリアに出会うまではね」


 胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちる。

 リリアが涙を浮かべながら頭を下げた。


「エレノア様申し訳ありません……。私、エレノア様を傷付けるつもりなんて、本当に……」


 だったら、どうして。

 その言葉は喉まで出かかったが、飲み込んだ。

 彼女のお腹には子どもがいる。

 覆水盆に返らず……。いくら彼女を責めたところで子供が出来たという事実は変わらない。

 

「……いつからですか」

「出会ったのは一年ほど前だ」


 一年。

 一年前といえば、夫が一人で治癒院へ通っていた頃だ。

 私は何も知らず、領地の収穫祭の準備に追われていた。

 夫は、その頃からもう彼女と――。

 胃の中がひっくり返るような吐き気を覚えた。

 そんな私の様子を知ってか知らずか、夫は追い討ちのように残酷な言葉を投げつける。


「エレノア、君にも責任はある」


 その一言で、私は顔を上げた。


「……え?」

「いつまで経っても子どもを授かれなかった」

「…………」

「もちろん私にも多少責任はあるかもしれない。だが、結果として我が伯爵家に跡継ぎはいない。これはまぎれもない事実だ」


 責任。

 私に。

 私は何度も治癒師の診察を受けた。

 薬も飲んだ。

 神殿で祈りも捧げた。

 子宝に恵まれるという聖樹へも足を運んだ。

 食事も見直した。

 できることは、すべてした。

 それでも、それでも授かることが出来なかった。

 それなのに。


「私、だけの責任なのですか……?私が悪いのですか?」


 夫は何も答えない。

 代わりに応接間の扉が開いた。


「話は終わったか」


 入ってきたのは義父だった。

 その後ろには義母もいる。

 二人とも、驚いた様子はない。

 まるで最初から知っていたかのように。


「お義父様……」

「エレノア」


 義父は重々しく口を開く。


「家を存続させるためだ。理解してほしい」


 理解。

 その言葉が、こんなにも残酷だとは思わなかった。


「もしかして、お義母様も……?」


 義母は小さくため息をついた。


「あなたはよくやってくれたわ。ローゼンベルグ家の一員として本当によく働いてくれた。でもね」


 その続きを聞きたくなかった。


「我がローゼンベルグ家には跡継ぎが必要なの」


 誰一人として。

 誰一人として、私の味方はいなかった。

 夫は裏切った。

 義父母は受け入れた。

 そしてリリアは、夫の隣でお腹を守るように両手を添えている。

 私はこの家で六年間積み上げてきたものが、一瞬で無価値になった気がした。


「離婚届には、明日にでも署名を」


 夫の静かな声が響く。


「君には慰謝料も十分支払う。私達の間に子供はいない。エレノアの義父母もきっと分かってくれるだろう」


 全部、決まっていた。

 私だけが。

 私だけが、何も知らなかったのだ。

 私は立ち上がる。

 泣くものかと思った。

 けれど、一歩踏み出したところで視界が滲む。


「……失礼いたします」


 最後の気力だけで頭を下げる。

 伯爵夫人としての矜持だけは、失いたくなかった。

 部屋を出た瞬間、膝から崩れ落ちる。

 嗚咽が止まらない。

 扉の向こうからは、誰一人追い掛けてくる気配はなかった。

 その日、私は初めて知った。

 愛していた人は、もうとっくに私の夫ではなかったのだと。




 離婚は、驚くほどあっさり成立した。

 伯爵夫人でなくなった私は、実家であるグランディス子爵家へ戻ってきた。


「……お帰り、エレノア」


 父は多くを語らず、ただ私を抱きしめた。

 母は涙をこらえながら、温かなスープを用意してくれていた。


「何も考えなくていいのよ」

「辛かっただろう。今はゆっくり休みなさい」


 その優しさが、かえって胸を締め付ける。

 ローゼンベルク伯爵家では泣くことすら許されない気がしていた。

 だから私は、実家へ戻って初めて声を上げて泣いた。

 



 一週間ほどが過ぎた頃。

 父に呼ばれて応接室に入る。

 父は静かな表情でソファーに座っていた。


「エレノア、少し話がある」

「はい」


 父の隣には見覚えのない老人が座っている。

 純白のローブ。

 胸元には王国治癒師協会の紋章。


「初めまして、エレノア様」

「私は王国治癒院で魔力診断を担当しております、治癒師オーウェンと申します」

「治癒師様が、私に……?」


 老人はゆっくり頭を下げた。


「まず、お詫びを」

「え……?」

「本来なら、もっと早くあなたへお伝えすべきでした」


 そう言うと、一枚の封筒を差し出す。

 見覚えのある紋章。

 王国治癒院の封印。


「あの、これは……?」

「ご主人……いえ、元ご主人が受けられた、生殖魔力鑑定の結果です」


 鼓動が大きく鳴った。

 震える指で封を切る。

 中には、魔力水晶を用いた鑑定書が入っていた。

 そこには、冷たい文字が並んでいる。


 ――被検者。


 アレクシス・フォン・ローゼンベルク。


 ――判定。


 生殖能力、著しく低下。

 自然受胎の可能性。

 極めて低い。




 私は何度も文字を読み返した。

 読めば読むほど、意味が理解できない。


「え……これ……」

「一年ほど前の診断結果です」


 一年前。

 ちょうどアレクシスが、一人で治癒院へ通っていた頃だった。

 私は顔を上げる。


「彼は、アレクシスは知って……いたのですか?」

「はい」


 治癒師は苦しそうに目を伏せる。


「ご本人には、正しく説明しております」

「魔力水晶での鑑定に誤りはございません」

「ですが、ご本人は結果を持ち帰り、『妻には決して話すな』と」


 息が止まりそうになる。


「そんな……。」

「守秘義務がございますので、我々はご本人の許可なく第三者へお伝えすることはできませんでした。ただ今回の事情を子爵様から伺いまして、どうしてもジッとしていられませんでした。この後、守秘義務を破ってしまった責任として治癒院は辞職いたします。私もよい歳です。引退が少し早くなったと思えば平気ですのでエレノア様は気にしないで下さい」


 治癒師は深く頭を下げた。


「結果として、あなたを苦しめることになってしまいました。申し訳ありません」


 私は首を振る。

 責められるはずがない。

 悪いのは、この人ではない。


「では……」


 声が震えた。


「私は、私の体は……」

「あなたには異常はありません」


 治癒師ははっきりと言った。


「結婚二年目に受けられた健康診断でも、生殖魔力に問題は確認されておりません。とても健康なお身体です」


 涙が頬を伝う。

 六年間。

 私は自分を責め続けた。

 子どもを授かれないのは私だから。

 伯爵家に申し訳ない。

 夫に申し訳ない。

 両親に申し訳ない。

 そう思い続けてきた。

 でも違った。

 最初から違ったのだ。

 私は何も悪くなかった。

 それなのに。


「アレクシス様は……」


 知っていた。

 自分に原因があることを。

 それでも私へ、


『君にも責任はある』


 そう言った。

 責任を押し付けた。

 そして愛人を妊娠させたと言って、私を捨てた。

 怒りより先に、涙が止まらなかった。


「どうして……。どうして、そんなことができたの……」

 



 その頃。

 ローゼンベルク伯爵家では、祝いの席が設けられていた。


「伯爵家に跡継ぎが生まれるぞ!」


 義父は上機嫌で杯を掲げる。

 義母はリリアの身体を気遣い、高価な絹のドレスを贈っていた。


「無理はしてはいけませんよ」

「ありがとうございます、お義母様」


 リリアは幸せそうに微笑む。

 その隣で、アレクシスも満足げに笑っていた。

 書斎の引き出しには、一枚の鑑定書が眠っている。


 『自然受胎の可能性、極めて低い』


 その文字を見た日のことを、彼は思い出していた。

 絶望した。

 もう跡継ぎは望めないのだと。

 だがリリアは涙を浮かべながら告げた。


『私……子どもができたみたいなんです』


 奇跡だ。

 治癒師の診断が間違っていたのだ。

 そう思った。

 そう信じたかった。

 だから、鑑定書は引き出しの奥へ押し込み、二度と開くことはなかった。

 自分に都合の悪い現実から、目を背けるように。




 それから三か月。

 王都では一つの噂で持ち切りだった。


「ローゼンベルク伯爵家に跡継ぎが生まれるそうよ」

「ようやく後継者問題も解決ね」

「伯爵様もさぞお喜びでしょう」


 その話題を耳にするたび、私は静かに紅茶を口へ運ぶだけだった。

 もう、何も感じない。

 そう思っていた。

 



 リリアの出産は予定より少し早かった。

 母子ともに健康。

 男児。

 その知らせは瞬く間に社交界へ広がった。


「伯爵家に嫡男誕生!」

「めでたい!」

「おめでとうございます!」


 祝いの品が次々と屋敷へ届く。

 義父は満面の笑みを浮かべ、使用人たちへ褒美を配っていた。


「これでローゼンベルク家も安泰だ!」


 アレクシスも生まれたばかりの赤子を抱き上げる。


「私の息子だ……。」


 目には涙すら浮かんでいた。


「やっと父親になれた」


 その姿を見て、リリアも安堵したように微笑む。

 ――だが。


「旦那様」


 執事が一枚の書状を差し出した。


「王家より、通達でございます」

「王家?」

「はい、おそらく血統登録でしょう」


 それを聞いていたリリアの顔色が変わる。

 そこには簡潔に書かれていた。


 『嫡男誕生につき、王国血統登録を行うこと』


 貴族、それも伯爵位以上の嫡子は、生後間もなく王国へ血統登録を行う決まりとなっている。


 その際に用いられるのが――


 魔力水晶による親子鑑定。

 王家や高位貴族の血筋を守るため、何百年も続く制度だった。


「当然だ」


 義父は笑う。


「何も問題はあるまい」


 アレクシスも頷いた。


「もちろんです」


 問題などあるはずがない。

 この子は、自分の息子なのだから。

 ただ一人、青ざめているリリアにアレクシスは気付かない。




 数日後。

 王国血統管理局。

 淡く青白い光を放つ巨大な魔力水晶の前へ、赤子が寝かされる。

 担当官が儀式を始めた。


「父、アレクシス・フォン・ローゼンベルク」


 光が伸びる。


「母、リリア・フォン・ローゼンベルク」


 再び光が伸びる。

 最後に赤子へ触れた瞬間。

 魔力水晶の光が赤く染まった。

 担当官の表情が変わる。


「……もう一度」


 周囲がざわつく。

 再検査。

 結果は同じだった。

 担当官は静かに羊皮紙へ記す。

 そして、淡々と告げた。


「判定、父子間に魔力的血縁反応は確認できません」


 沈黙。


「…………は?」


 アレクシスが固まる。


「そんなはずない!もう一度だ!誤作動に決まってる!」

「失礼ですが」


 担当官は冷静だった。


「王家で用いられる魔力水晶に誤判定はございません」

「嘘だ!そんなはずがない!私はこの子の父親だぞ!」


 叫ぶ声が部屋へ響く。

 リリアも真っ青になった。


「そんな……。そんなはずありません!」


 三度目。

 四度目。

 結果は変わらない。

 父子関係なし。

 義父が震え始める。


「アレクシス……これはどういうことだ!?」

「リリアさん、あなたのお子様でしょう!?」


 義母が取り乱す。


「そうです!」


 リリアは涙を流しながら叫ぶ。


「間違いなくアレクシス様の!」

「では」


 担当官が静かに問い掛ける。


「妊娠前後に、伯爵様以外の男性と肉体関係を持たれましたか?」

「!!」


 リリアの肩が大きく震えた。


「…………」

「お答えください」

「私は……」

「ここは神聖魔法で結界を張っている場です。虚偽の申告をされますと神罰がくだりますのでご注意を」


 長い沈黙。

 やがて小さな声が漏れる。


「……覚えて、いません」

「何?」


 アレクシスが聞き返す。


「夜会で……お酒を飲んで……その後も……友人に誘われて……何度か……」


 義父の顔から血の気が引く。


「まさか……誰の子か……」


 リリアは泣き崩れた。


「分からないんです……!」


 部屋中が凍り付いた。

 彼女の相手は一人ではなかった。

 酒宴のたびに違う男。

 旅先でも。

 夜会でも。

 相手の名前すら思い出せない者もいる。

 妊娠に気付いた時、最初に頭へ浮かんだのは――


 『一番お金を持っている人』


 それがアレクシスだった。


「伯爵様なら信じてくださると思って……跡継ぎが出来れば正妻となって、一生困らないと思って……。でも伯爵以上は血統登録があるなんて知らなかったんです!もし知っていたらとっくに堕ろしていました!」


 その言葉に、アレクシスの瞳から光が消えた。


「…………」


 ふらり、と後ろへよろめく。

 頭の中に蘇る。

 約一年前。

 治癒院。

 魔力水晶。


 『自然受胎の可能性は極めて低い』


 あの日、自分は確かに聞いた。

 それでも。

 極めて低いということはゼロではないということ。

 奇跡だと信じた。

 いや。

 信じたかった。

 都合の悪い現実から逃げた。

 そして。

 罪のない妻を追い出した。

 ようやく授かったと思った跡継ぎは、自分の子ですらなかった。

 すべてを失った瞬間だった。

 数日後、この一件は社交界中へ知れ渡る。


 『不妊を妻のせいにして離婚した伯爵』

 『愛人の子を嫡男にしようとした愚か者』


 そんな噂とともに。




 ローゼンベルク伯爵家の没落は、あっという間だった。

 社交界は噂話が何よりも好きだ。

 だが今回ばかりは、単なる噂では済まなかった。

 王国血統管理局で行われた親子鑑定は、公的な記録として残る。

 隠しようのない事実だった。

 愛人の子は伯爵の子ではない。

 そして何より、人々の口に上ったのは別の話だった。


「おい、聞いたか?」

「伯爵、自分が子を授かれない体と知っていたらしい」

「それなのに奥方へ責任を押し付けて離婚したそうだ」

「なんという男だ……。」


 六年間。

 領地を切り盛りしていたのは誰だったのか。

 収支を改善し、商人との販路を広げ、飢饉に備えて備蓄制度まで整えたのは誰だったのか。

 ようやく、人々は知った。

 ローゼンベルク伯爵家を支えていたのは、エレノアだったのだと。




 血統登録の日から半年。

 ローゼンベルク伯爵の領地経営は急速に悪化した。

 そんなある日。


 グランディス子爵家へ一人の来客が訪れた。


「エレノア様、アレクシス様がお見えです」


 使用人の報告に、私は思わず顔を上げる。


「……お断りしてください。」

「ですが、『どうしても一度だけ会いたい』と」


 私は静かに首を横へ振った。


「会いません。理由は必要ありません。今の私に、あの方とお話しすることは何もございませんから」。


 使用人は深く一礼すると、そのまま玄関へ戻っていった。

 



 屋敷の門前。

 アレクシスは呆然と立ち尽くしていた。


「……私は、会っても、もらえないのか」


 返ってきたのは、丁寧だが冷たい断りの言葉だけ。


『お嬢様は、お会いになるお気持ちはないとのことでございます』


 たったそれだけだった。

 以前なら。

 彼女は必ず笑顔で迎えてくれた。

 疲れて帰れば温かい食事を用意してくれた。

 悩みがあれば隣で話を聞いてくれた。

 そのすべてを、自分は当然だと思っていた。

 胸の奥が締め付けられる。


「エレノア……私はなんということを……」


 謝りたかった。

 許されたいなどとは思わない。

 ただ、一度だけ謝罪したかった。

 だが、その資格すら失ってしまっていた。

 



 屋敷へ戻ると、さらに追い打ちが待っていた。


「旦那様」


 顧問弁護士が深刻な顔で頭を下げる。


「リリア様が姿を消されました」

「……何?」

「宝飾品、現金、貴金属も一部持ち出されております」

「馬鹿な!」


 屋敷中を探しても姿はない。

 残されていたのは、一枚の手紙だけだった。


『探さないでください』

『私は私の人生を生きます』


 それだけ。

 アレクシスは震える手で紙を握り潰す。

 自分は彼女に利用されただけだった。

 その事実だけが残る。




 さらに数日後。

 義父は机へ拳を叩き付けた。


「王家より沙汰だと!?」


 血統を偽って嫡男登録を試みた責任は重かった。

 故意ではないと認められ、爵位こそ剝奪されなかったものの、王家から多額の制裁金が科される。

 信用も失った。

 取引先は次々と離れ、融資も打ち切られる。


「全部……」


 義母が椅子へ崩れ落ちる。


「全部、あの子を追い出したせいね……」


 屋敷は静まり返る。

 エレノアがいた頃は、いつも整っていた。

 季節の花が飾られ。

 使用人は笑い。

 領民からの贈り物が絶えなかった。

 今は違う。

 笑う者は誰もいない。


「私たちは……」


 義父はかすれた声で呟く。


「本当に宝を捨ててしまったのだな……。取り返しのつかないことをしてしまった……」


 その後悔は、もう二度とエレノアに届くことはなかった。




「旦那様!」

「北の農地から抗議が来ております!」

「南の商会が契約を打ち切ると……!」

「来月には赤字になります!」


 執事たちの報告に、アレクシスは机を叩く。


「なぜだ!」

「今まで問題などなかったではないか!」


 老執事セドリックは静かに答えた。


「いえ、問題はございました」

「なに!?」

「ただ、奥様がすべて解決されていただけでございます」

「…………」

「旦那様は、ご存じなかっただけでございます」 


 言葉を失う。

 そうだ。

 私は書類へ判を押すだけだった。

 交渉も。

 税の見直しも。

 領民との話し合いも。

 冬の備蓄計画も。

 全部、エレノアがしていた。

 彼女は一度も自分の功績だとは言わなかった。

 だから、当然だと思っていた。

 いて当たり前。

 支えて当たり前。

 愛してくれて当たり前。

 そんな存在を、自分の手で捨てた。


「……エレノア。本当に私はなんということを……」


 その名を呼んでも、返事はない。

 



 その頃。

 私は父の仕事を手伝いながら、穏やかな毎日を過ごしていた。


「この契約書ですが、こちらの条文を少し変更した方が商人側も受け入れやすいかと思います」

「さすがエレノアだ」


 父は嬉しそうに笑う。


「戻ってきてくれて助かった。ありがとう」

「仕事をしていると何も考えなくてすみます。こちらこそ任せていただいてありがとうございます」


 以前なら。

 私はきっと『夫の役に立てている』と喜んでいただろう。

 けれど今は違う。

 私は、私自身の力で誰かの役に立てている。

 それだけで十分幸せだった。

 



 ある日の午後。

 父が一通の手紙を持ってきた。


「ローゼンベルク伯爵家からだ」


 封は開けられていない。

 差出人はアレクシス。


「読んでみるか?」


 私は少しだけ考えた。

 そして首を横へ振る。


「いいえ」


 父は何も聞かず、暖炉へ手紙を入れる。

 炎がゆっくりと封筒を飲み込んでいく。

 あの日の私なら。

 謝罪してほしかった。

 後悔してほしかった。

 戻ってきてほしいと願っていた。

 でも今は違う。

 謝罪されても、失った日々はもう戻らない。

 信じていた心も戻らない。

 だから、もう十分だった。

 



 春。

 庭に咲いた白い花を眺めながら、私は静かに空を見上げる。

 あの日。

 子どもができないのは私のせいだと思い込み、自分を責め続けた。

 愛されていると信じて疑わなかった。

 そのすべてが嘘だった。

 それでも。

 あの嘘があったからこそ、本当の自分を取り戻せた。


「お嬢様」


 セドリックによく似た老執事が微笑む。


「ご当主様がお呼びです」


 思わず笑みがこぼれる。


「すぐに参ります」


 私は歩き出す。

 もう後ろを振り返ることはない。

 あの屋敷も。

 あの人も。

 私の人生には、もう必要ないのだから。


 ――『理想の夫婦』と呼ばれた日々は終わった。

 けれど。

 ようやく私は、自分自身の人生を生き始める。

 その足取りは、春風のように軽やかだった。


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人は生きている限りやり直せる‥嘘ではない、それでもやり直せないことはありますわねえ。 穏やかな時間の中で幸いに巡り合いますように、もちろんエレノア様にだけ。
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