婚約破棄の夜会で契約印を解いたら、冷徹公爵に溺愛されました
シャンデリアの光が、夜会の床に宝石みたいな模様を落としていた。
「シャルロッテ。婚約は破棄する」
音楽の切れ目に、ルートヴィヒ・フォン・ローテンベルクが言った。
わざと、周囲の耳に入る声量で。
侯爵令嬢シャルロッテは、扇を閉じて微笑んだ。
胸の奥が冷えるのに、表情だけは静かに整う。
「承知いたしました。——理由を伺っても?」
「君は地味だ。華がない。辺境伯家には、もっと見映えのする妻が必要だ」
彼は隣に立つ令嬢を示した。
「イゾルデ・クライン嬢だ。魔力も強く、皆の目を引く」
イゾルデが得意げに微笑む。
ドレスが魔力で淡く輝き、周囲から感嘆の声が上がった。
シャルロッテは、ゆっくり頷いた。
「では、契約を解きましょう」
「……契約?」
ルートヴィヒが眉をひそめる。
「婚約だ。言葉だけで済む話だろう」
シャルロッテは左手の甲へ指先を添えた。
婚約の証《契約印》が、薄く光る。
「皆さまの前で解きます。後から『聞いていない』と言われるのは困りますから」
小さな囁きが広がる。
「シャルロッテ、何を——」
「婚約解除には条項がございます」
扇の先で空をなぞると、淡い文字列が浮かんだ。
「第一条。名誉を損なう形での解消を行った場合、損害の補填は宣言者が負担」
「第二条。引継ぎ妨害には追加の違約」
ルートヴィヒの顔色が変わる。
「あなたが署名しました」
シャルロッテは、にこりとした。
「——契約印、解除」
印がほどけ、光が消える。
空中の条項に確定の線が走り、会場がざわめいた。
「引継ぎは三日後。外交文書の作成履歴、取引契約の控え、人脈整理、領地帳簿の運用手順」
「……雑務だろ」
ルートヴィヒが、苦し紛れに吐き捨てる。
シャルロッテは笑みを崩さない。
「ええ。あなたが雑務と呼んだものです」
胸の奥が痛い。
けれど、ここで折れれば、七年が地味な失敗になる。
「今後、私の名を使った命令や署名は無効です。偽造があれば——契約印が証拠を残します」
ルートヴィヒは一瞬だけ目を逸らした。
嫌な予感が、確信に変わる。
シャルロッテは一礼し、会場を離れた。
*
部屋の鍵を閉めた瞬間、膝が崩れた。
七年。
十二歳で婚約が決まり、彼のために学んだ六カ国語。
条約文の癖、貴族の面子、商人の算段。
全部、彼の領地が困らないように。
「……地味で、華がない」
涙が落ちる前に、母の声がよぎった。
——誇りを持ちなさい。自分を貶めてはいけない。
シャルロッテは頬を拭った。
「泣くのは今夜だけ」
*
三日後。
引継ぎの使者が来た。
だが書類は途中で破られ、封蝋がすり替えられていた。
町では噂が走る。
『シャルロッテは帳簿を弄り、金を抜いたらしい』
——来た。
怒りが静かに燃える。
泣くのは終わった。次は、証拠だ。
その日の午後、王城から召喚状が届いた。
差出人は、王家監察卿。
エーベルハルト公爵マクシミリアン・フォン・エーベルハルト。
『君の名が汚されるのを、見過ごす気はない』
*
監察室は、静かすぎるほど整っていた。
黒髪の男が机の前に立っている。
「シャルロッテ・ヴェルナー嬢。来てくれたな」
「お呼びいただき、光栄です。……ですが私は今、疑いを——」
「疑いではない。噂だ」
マクシミリアンは紙束を一枚、机に滑らせた。
「横領の告発状。出所はローテンベルク家の執事」
胸が、きゅっと縮む。
「君に聞く。帳簿は君が管理していたか」
「はい。正確には、私が仕組みを作り、運用を整えました」
「では、その仕組みで噂が嘘だと証明できるか」
試されている。
けれど、これは得意分野だ。
「できます」
告発状の数字は雑だ。抜き方が素人の嘘。
「この告発は帳簿の合計しか見ていません。運用記録がありません」
「運用記録?」
「毎月の締め日に、触れた順と封蝋の印影が残ります。私は封蝋を《契約印》で記録する仕組みにしました」
淡い光の糸が机に走る。派手ではない。
だが、嘘を殺すには十分だ。
「この月——封蝋の印影が違います。担当者が私ではない」
マクシミリアンが、初めて眉を動かした。
「やはり、君は見た通りだ」
「見た通り……?」
「半年前。条約締結の控室で、君が外交官の草案に赤を入れていた」
「通訳がいなくて。誤訳が致命的でしたから」
「君が直した一文で、隣国の要求は半分に落ちた」
淡々と事実を言う。
「派手な魔力より国を救うのは、そういう地味だ」
胸が熱くなる。
同時に、怖くもなる。
——この人は、私を国益として見るだけ?
マクシミリアンが紙を一枚取り出した。
「提案がある。君の名誉を守るため、俺と契約婚を結べ」
「……契約、婚?」
「期限は一年。形式上の夫婦でいい。ローテンベルク家が君に触れられないよう、俺の名を貸す」
視線が真っ直ぐ刺さる。
「その代わり、監察業務を補助してほしい」
政略。取引。
また、利用されるの?
喉が詰まる。
だが一人で戦うには、相手が汚すぎる。
「……条件を確認しても?」
「もちろんだ。契約は公平にする。君が不利になる条項は入れない」
契約文は簡潔で、解消条項もきちんとある。
逃げ道を残す書き方。
——怖いだけの男じゃない。
「お受けします」
署名の瞬間、《契約印》が新しい形で結ばれた。
契約なのに、胸のどこかが軽い。
*
一週間後、王城の小会議。
ルートヴィヒが呼ばれ、告発状について問われた。
平静を装うが、視線が落ち着かない。
「告発の根拠は?」とマクシミリアン。
「帳簿の合計が合わない。抜かれていると判断した」
「では、運用記録を見せろ」
「……運用、記録?」
ルートヴィヒが詰まる。
シャルロッテは口を挟まない。
机の上に偽造された封蝋を置いた。
マクシミリアンが指を鳴らす。
《真実の灯》が灯り、封蝋の表面から薄い文字が浮かぶ。
『ローテンベルク家執事 署名:——(偽)』
会議室が凍る。
「契約印の記録と一致しない。偽造だ。誰が作った」
ルートヴィヒが唇を噛む。
逃げ道は、まだある。
だが焦りが勝った。
「シャルロッテだ! 彼女ならできる! いつも帳簿を——」
シャルロッテは扇を閉じた。
「私が作れない証拠が一つございます」
「何を——」
「この封蝋に付いた指紋の油分。私は監察卿の指示で薬品を扱っております」
静かに言う。
「油分が違います。私の手ではない」
沈黙。
そして、ざわり。
「つまり君は噂で人を殺そうとした」
マクシミリアンの声が冷える。
「婚約破棄の場で条項を確定させた相手に、だ」
ルートヴィヒの顔が青ざめる。
「結論だ」
マクシミリアンが立ち上がる。
「ローテンベルク辺境伯、王城出入りを三ヶ月停止。監査が終わるまで権限を制限する」
社交界にとっては致命傷。
ルートヴィヒは呻く。
「……イゾルデが派手で、皆が……俺は、見栄が——」
自白。
自分で扉を閉めた。
シャルロッテは、ようやく息を吐いた。
地味な証拠で、地味に、確実に倒す。
それが私のざまぁだ。
*
帰りの廊下で、シャルロッテは足を止めた。
「……助けてくださり、ありがとうございました。ですが私は」
言葉が震える。
「便利だから選ばれただけなら……また、私は折れてしまう気がします」
マクシミリアンは一拍置いた。
怒るのではなく、噛み砕くように言う。
「便利なら、ここまで手間はかけない」
「……え」
「君が汚されるのを、俺が嫌だった」
短い言葉なのに、胸の奥に落ちる。
「俺の都合だ。君のせいじゃない」
——都合、でも。
その都合が、私を守ってくれた。
*
半年後。
エーベルハルト公爵領は落ち着きを取り戻し、帳簿は透明になった。
派手な変化はない。
けれど領民の表情が明るい。
王都の夜会。
シャルロッテは控えめなドレスを選んだ。
「地味だと言われるぞ」
マクシミリアンが、手袋越しに指を絡める。
「地味で結構です」
シャルロッテは笑った。
「私は地味で守れますから」
彼の口元が僅かに緩む。
会場で、影のように近づく男がいた。
「シャルロッテ」
ルートヴィヒ。
頬がこけ、目の下に濃い影。
隣のイゾルデは苛立ちを隠さない。
「……ローテンベルク辺境伯」
呼び方を戻さない。
それだけで彼は刺された顔をした。
「頼む。戻ってくれ」
声が震える。
「君がいないと何も回らない。契約も外交も、全部——」
「今なら分かるんだ! 君のやっていたことが、どれだけ——」
シャルロッテは静かに微笑んだ。
「七年、私はあなたのために尽くしました」
「そうだ、だから——」
「でもあなたは、それを雑務と呼びました」
柔らかい声で、刃を入れる。
「……違う。あれは、あの時は——」
シャルロッテは一歩、距離を取る。
扇を閉じる音を、はっきり響かせた。
「私はもう、公爵夫人です」
「……!」
泣かなかった私の、最後の区切り。
「もう、遅いのです」
ルートヴィヒが言い返そうとした瞬間。
マクシミリアンが、シャルロッテを自分の側へ引き寄せた。
「俺の妻に近づくな」
低い声で会場が凍る。
「お前は……契約だからだろう? 形式の——」
ルートヴィヒが縋る。
「違う」
マクシミリアンは即答した。
そして皆に見える高さで、彼女の手に指先を重ねた。
《契約印》が淡く光る。
——契約の印ではない。誓約の印だ。
「俺は契約の前から決めていた」
冷たいはずの声が、熱を帯びる。
「君の才も、君の誇りも、君の沈黙も。全部、俺のものにする」
シャルロッテの呼吸が止まった。
「逃げ道は残した。だが今夜は残さない」
囁きが、耳だけを焼く。
「君が望むなら、契約を終わらせて本物にする」
胸がいっぱいで、言葉は出ない。
だから、頷いた。
マクシミリアンは会場に向けて言う。
「本日をもって、我が妻シャルロッテとの契約婚は終了する」
「以降は誓約だ。——俺が生涯、守る」
貴族たちが息を呑む。
遅れて拍手が起こった。
ルートヴィヒは、その拍手の中で立ち尽くす。
自分が捨てたものの価値を、世界に示されながら。
*
帰りの馬車で、シャルロッテは小さく笑った。
「……私、また裏切られるのが怖かったんです」
「知っている」
マクシミリアンが答える。
「だから契約にした。君が逃げられるように」
少しだけ、不器用に付け足す。
「……逃げる必要がなくなるまで、俺が待つつもりだった」
優しい言い方が、痛いくらいに胸に染みた。
「もう逃げません」
シャルロッテは見つめ返す。
「誇りを持て、と母が言いました。私は、私の価値を信じます」
「なら、俺が証明し続ける」
マクシミリアンが、彼女の手の甲をそっと包む。
「地味で、結構だ」
「君は目立たずに世界を動かす」
「そんな君を——俺は一番目立つ場所で愛する」
シャルロッテは、涙が出そうになって笑った。
今度の涙は、痛みじゃない。
「……はい」
「ずっと、一緒に」
窓の外の月明かりが流れ、二人の手の上で《誓約印》が静かに光っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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