第二話 ジョン・スミス ―ダウンタウンに落ちた影―
灰色の重い雲が空を覆っていた。
「寒いと思ったら、やっぱり降ってきやがった」
チラつき始めた雪に舌打ちし、俺は肩をすくめた。
コートのポケットに手を突っ込み、ダウンタウンの夜の路地を足早に歩く。
街はクリスマスムード一色だ。
ショーウィンドウにはツリーが飾られ、足元には色とりどりのプレゼントボックス。
街路樹には金色のイルミネーションが巻かれ、眩しいほどに輝いている。
──だが今の俺にはその光が、木を締めあげる鎖の様に見えた。
幸せそうにショッピングバッグを提げて歩く連中を鼻で笑いながら、俺はレンガ造りの雑居ビルの影に身を寄せた。
ここなら、少しは風がしのげる。
こんな夜に、一人でこんな場所にいると、妙な感傷に浸ってしまう。
ダウンタウンの外れにあるボロアパートから、ずっと咥えている“タバコではない”甘い煙が、街の明かりで白んだ空に消えていった。
俺は小さくなったそれをアスファルトに吐き出し靴で踏み、ポケットの奥からひしゃげた包みを取り出した。
(ちっ……あと二本かよ)
トントンと指で弾いて一本を咥え、手で風を避けながら鈍色のZippoを擦った。
「!」
途端、ブワッっと大きな炎が立ち上がった。
チリッと前髪が焦げる。
「っ!……なんだよ、畜生!」
一昨日買ったばかりの、質流れの年代物。
店先でなんとなく気に入って衝動買いした。
割といい値だったのに……まさかの不良品か。
慌てて蓋を閉じようとした瞬間、燃え上がる炎の中におかしなものが見えた。
『やった!ブレイン社の鉄道模型だ!!それにフライトジャケット!どっちも欲しかったやつだ!』
プレゼントの包みをビリビリに破いて、歓声を上げる男の子。
少年特有の甲高い声まで聞こえる。
だがそれは、驚いた俺がZippoを取り落として炎が消えると同時に、パッと霧散した。
「なんだ今の?」
幻覚?
俺は拾い上げたZippoを呆然と眺めながら、何度も瞬きした。
(ヤバいな。ちょっとヤリ過ぎたか……)
咥えていた巻き紙をポケットにねじ込んで、大きなため息を吐いた。
「……ん?」
そこでハッと気が付いた。
炎の中に見えたあの少年の顔に、妙な既視感があった。
一呼吸置いて、俺はZippoをもう一度擦った。
再び炎が勢いよく立ち上がる。
『リズ……どうか、俺と結婚してほしい!』
現れたのは、二十代半ばの青年。
彼は片膝で跪き、指輪の箱を開けていた。
女性は口元を両手で覆い、感極まった涙を流しながら青年に抱きついた。
見つめ合った二人は、ゆっくりと顔を近づけ──
そこで炎がふっと消えた。
俺は慌ててZippoを擦った。
『お爺ちゃん!お婆ちゃん!結婚五十周年おめでとう!!』
次に現れたのは、沢山の家族に囲まれた、幸せそうな老夫婦。
皺が深く刻まれたその二人の顔に、俺は見知った面影を見つけた。
「おいおい……嘘だろ?」
俺は取り憑かれた様に、それから何度もZippoを擦り続けた。
擦る度に様々な場面が、立ち昇った炎に映し出された。
年齢も場所も様々だったが、火柱の中にいたのは全て同じ男だった。
初めて歩きに感動した両親に、抱き上げられる幼児。
テストで連続で満点を取り、それを褒められる少年。
中学校の廊下に、首席となって飾られた少年の写真。
アメフト部の花形となり、チアリーダーからキスされる青年。
大きなプロジェクトのリーダーになり、意気揚々とプレゼンする男。
美しい妻から、生まれたばかりの我が子を手渡されて戸惑う新米パパ。
娘を肩車し、息子と手を繋ぎ、妻を抱いて歩く幸せな家族。
バージンロードで大泣きして、花嫁に呆れられる新婦の父。
孫にせがまれるまま玩具を買い、妻と娘に同時に叱られる好々爺。
──炎に映る男は、どの場面でも幸せそうに笑っていた。
「なんだよ……これ」
俺は震える手で口元を覆いながら、ズルズルとその場にへたり込んだ。
知っている。
俺は、この男を知ってる。
これは──俺だ。
最後に一際大きな火柱を上げて、炎が消える。
シャボン玉のように、目の前にあった幸せな幻がパチンと弾けた。
「おい、待て!!」
俺は慌ててZippoを擦ったが、パチパチと小さな火花が飛ぶだけで、辺りは闇に包まれたまま。
Zippoを握りしめ、俺は頭を搔きむしった。
炎の中にあったのは全部、叶えられなかった俺の“夢”。
過去に欲しかったもの、未来に手に入れたかったもの。
ずっと、俺が渇望してきた“幸せ”だった。
両親は俺に無関心だった。
兄のように、俺の写真がどこかに飾られることはなかった。
運動が苦手な俺が、アメフト部との縁があるはずもなく。
ずっと好きだった幼馴染のリズは、大学入学と同時に町から出て行った。
俺が就職したのは、地元の吹けば飛ぶような小さな運送業者。
大手通販会社の荷物を、早朝から深夜まで運ぶ日々。配達が増えるクリスマスが大嫌いになった。
何一つ上手くいかず、寄り添う家族など──いない。
「あ、ああああーー!!」
どれだけそこに座り込んでいたのか。
雪降る空に向かって慟哭した瞬間、凍えた掌から鈍色のZippoが、真っ白な地面に落ちた。
拾おうとしても、冷え固まった体は思うように動かない。
「ハァ……ハァ……」
喉が焼けるように渇く。
震える手で、トラッシュ缶の蓋に積もった雪をかき集め、貪った。
「頼む。もう、一度だけ……」
俺はあの燻んだ鈍色を、白一色に探した。
どこだ?
どこにいった?
夢でも幻でも構わない!
こんな糞みたいな現実よりマシだ。
もっと見たい。
……頼む、もっと見せてくれ!!
しかし、高揚する気持ちとは裏腹に、体は動かない。
視界が白くかすんでいく。
『シュッ、ボッ』
耳元でZippoが擦れる音がした。
目の前がふわりと明るくなり、頬が熱くなる。
誰かが笑っている。
そんな──気がした。
「はっ、はははは!」
俺の口から笑い声が漏れた。
寒いはずなのに、心は弾み温かい。
ああ、やっと手に入れた。
ずっとずっと、俺が欲しかったもの。
満ち足りた恍惚感に包まれながら、俺は虚空に手を伸ばし──
静かに目を閉じた。




