第3話 進路について
放課後、3年B組の教室はがらんとしていた。
部活へ行く生徒、まっすぐ帰る生徒、友達と寄り道をする生徒。
最後に残ったのは、机にだらしなく腰掛けて、水筒のお茶を飲んでいる森下玲央だった。
「森下。進路相談、今日だぞ」
声をかけると、彼は肩をすくめて笑い、水筒のキャップをねじ込む。
「社長になるってやつ、先生、突っ込みたいでしょ?」
自分から話を振るあたり、やはり空気は読めるらしい。ただ、その笑顔はどこか挑発的でもあった。
面談票を手に、俺は教室の隅に置かれた簡易の机に向かう。
玲央が向かいの椅子に腰を下ろすと、窓から差し込む夕方の光が彼の顔を斜めに照らした。
「突っ込むというか、理由を聞きたいな。なんで社長?」
「金。あとは自由。誰にも命令されないで、自分のやりたいことをやる」
「なるほど」
口ではそう言いながら、胸の奥で父の声が重なる。俺はもう雇われない生き方を選んだ。
ビールの缶を握った手の映像が、不意に蘇る。
「でもさ、社長って言ってもいろいろあるだろ。何の会社をやりたいかは決まってるのか?」
「それはまだ。時代の波に乗れるやつ。チャンスが来たら動く感じ」
…チャンスが来たら。
それも、あの人と同じ言葉だった。
「波待ちしてるだけじゃ、溺れることもあるぞ」
「へえ、先生ってそういうこと言うんだ」
玲央は片眉を上げて笑った。からかわれているのか、本気で感心しているのか分からない。
「先生はさ、失敗したことある?」
「あるよ。山ほど」
「ふーん。先生やってて楽しい?」
短い沈黙が落ちた。
「…正直、楽しくない日も多い。でも、誰かの力になれるなら、やってる意味はあると思ってる」
「ふーん。でもさ、役に立たないことの方が多くない?」
その無邪気な暴言に、思わず笑ってしまった。
そして同時に、自分が父に対して思っていることと似ていることに気づき、少し胸がざわついた。
「ま、そういうときもあるな」
俺は面談票に「将来:社長 理由:自由と金」とだけ書き込み、ペンを置いた。
「森下、お前が本気なら、ちゃんと“何で金がほしいか”“何で自由が必要か”を掘れ。それをしないと、社長になる前に、誰かの都合のいい駒になるぞ」
玲央はニヤリと笑い、「やっぱ先生、突っ込むじゃん」と言って席を立った。
教室を出たところで玲央が振り返る。
「まあ、俺は前に進んでるって思われたいな」
独り言のように呟くと、廊下に靴の音を響かせて帰った。
その背中を見送りながら、俺は面談票を閉じた。
“何で金がほしいか”。
それを掘ったことが、一度でもあっただろうか。父も、俺も。
教室には夕陽が差し込み、机の影が長く伸びていた。