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第2話 希望の朝

 朝のホームルームが終わり、教室のざわめきが廊下に吸い込まれていく。


 廊下を歩く生徒たちの声は、どれも元気で、どこか浮ついていて、季節の変わり目みたいに不安定だ。


 俺は職員室の自席に戻り、机に突っ伏したい衝動を抑えながら椅子に腰を下ろした。


 昨夜は結局、焼きそばパンを食べて、風呂も入らず寝てしまった。睡眠時間は十分ではない。


 日が昇ると、起きてシャワーを浴びた。朝食はプロテインのみ。

 

 胃が重い。


 机の上には、生徒たちが書いた進路希望調査票の束がある。


 「高校に行きたい」「働きたい」「進学も就職もいやだ」…文字はバラバラで、筆圧の強いもの、やけに薄いもの、空欄のものも混じっていた。


 ふと、ある一枚に目が留まる。

 森下玲央(3年B組)

 「将来の夢:社長になる。できれば有名になりたい。」


 …うん、なんていうか、わかりやすくていいな。


 でも、どうしても“社長”という言葉に、昨夜の父の声が重なってしまう。


 「俺はもう雇われない生き方を選んだ」と、ビール片手に言っていたあの人の姿がちらついて、思わず眉をひそめた。



「おやおや、朝からしかめっ面ですね、岸本先生」


 後ろからかけられた声に、肩をすくめる。振り返ると、案の定だった。


 白衣のポケットにボールペンを差した水原美咲先生が、紙コップのコーヒーを手に立っていた。


「なんか胃のあたりがね」


「それはストレス性ですね。もしくは、揚げ物の食いすぎ」


「夕飯、焼きそばパンだったよ」


「…先生、もう三十路でしょ?」


 そう言って水原は苦笑し、隣の椅子に腰を下ろした。


 彼女は理科教員で、頭が切れる上に図太い。生徒にも人気がある。


 俺が「黙って燃える炭」なら、水原は「派手に燃えるキャンプファイアー」みたいな性格だ。


「ていうか、何見てたの?」


「進路調査票」


「夢とか、書いてあるやつ?」


「“社長になりたい”って書いてる生徒がいてさ」


「…ああ、B組の森下くん? あの子、やたらとビッグマウスなんだよね」


 水原先生はコーヒーを一口すすり、紙コップをひょいと振った。


「でも、まあ…そういう子の方が案外うまくやるのかもね。いまの時代」


 俺は曖昧にうなずいた。


 “うまくやる”。それがどういう意味か、いまの俺にはまともに言葉にできなかった。


 でも授業が始まれば、そんな考えも一時保留になる。


 教師の顔は、理想と現実の間に貼りつける仮面みたいなものだ。


 机の上の進路票をもう一度見直す。


 夢、希望、将来。教師として、それを応援するのが仕事だ。


 でも、“夢に賭けて失敗した大人”を、俺は身近に見すぎた。


 信じた相手に裏切られた顔。借金。言い訳。誤魔化し。


 それでも、「夢は持て」と言えるのか?


「…水原先生」


「ん?」


「夢って持たなきゃダメなのかな」


「…なにそれ、今さら思春期?」


 肩をすくめると、水原先生は小さく笑った。


「ダメじゃないけど、持ってりゃ幸せってもんでもないよね。てか先生、そういうの生徒に聞かれたらどうしてるの?」


「…そりゃあ、教科書通りに答えてるよ。自己実現することは尊いって」


「それ、本音?」


「…さあな」


 コーヒーの香りが、職員室の天井のあたりでぼやけていった。



 チャイムが鳴る。次は2時間目、3年生の現代文だ。


「……じゃあ今日は、“将来”について考える文章を書く前段階として、少し話をしておこうか」


 チャイムが鳴り終わり、生徒たちのざわめきが静まりきらないまま、俺は黒板の前に立った。

 3年B組。受験を控えたこの時期、進路に関する課題を絡めて書かせる作文が国語の定番になっている。


 「これからみんなには、『私の将来像』ってテーマで文章を書いてもらう。ただ、“なりたい職業”を並べるだけじゃなくて、“なんでそれになりたいか”、“そこにどんな意味があるのか”まで掘り下げて書いてほしい。いいか?」


「えー、難しそー!」

「意味って何書けばいいんすか?」

「ユーチューバーとかでもいい?」


 教室のあちこちから声が上がる。

 そういう反応にも、もう慣れてる。

 俺は口角だけ少し動かして答えた。


「別に、芸人でもバンドマンでもいい。ただし、“本気”で考えてるなら、な」


 黒板にチョークで「将来像」「自己実現」「動機」と3つのキーワードを書く。


 いつの間にか、机の上に突っ伏していたやつも、顔を上げ始めていた。


「たとえば、“医者になりたい”って人がいるとして。それは“人を助けたいから”かもしれないし、“安定した職業だから”って理由かもしれない。どっちでもいい。でも、その中身をちゃんと掘っていくと、自分が何を大切にしてるかが見えてくるんだ」


 言いながら、どこか遠い場所に向けて喋っている気がした。“なりたい理由を掘る”。


 父の「俺は社長になる」「これは時代の流れだ」という言葉が、どれもペラペラに思えるのは、それを“掘ってない”からだ。


 「ねえ先生」


 挙手なしで話し始めたのは、森下玲央だった。

 後ろの席から声を張るタイプ。空気は読めるが、読まないことを選ぶような生徒だ。


 「先生はさ、なんで国語の教師になったの? 昔からなりたかったの?」


 俺は、チョークを持つ手を止めた。クラスがすっと静まるのがわかった。


 お前、今それ聞くか、という空気が全体に漂う。だが、玲央は悪びれた様子もなく、じっと俺を見ていた。


「なんでっていうと、うーん…」


 口を開いたものの、言葉が続かない。


 なりたかったから、なのか? 本当に?


 それとも、“なれるもの”がこれだったから?


「小説とか、言葉に関わることが好きで…それが理由かな」


 ようやく絞り出した言葉に、我ながら“模範解答感”があった。


 だが生徒たちは、それ以上は何も言わず、ノートを取り始めた。


玲央はうっすら笑って、こう言った。


「ふーん。俺、社長になりたいっす」


「…その理由は、作文で掘ってもらおうか」


 軽く流すように言ったが、俺の声は少しだけかすれていた。

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