第1話 またかよ
「またかよ」
帰宅途中、電車を降りて駅前の自販機の前でスマホを確認した。
LINEに未読が一件。送り主は“岸本忠司”。俺の父親だ。
嫌な予感しかしない。
「5万だけ頼む。来週には絶対返す。今度こそチャンス来た」
俺は缶コーヒーのボタンに伸ばしかけた指を止めた。冷たい風がワイシャツの裾から滑り込んできて、背筋をじわりと冷やす。
“来週には絶対返す”、“今度こそチャンス”。
どれも見覚えのある言葉だ。何度も、何度も見た。信用する価値なんてない。
この人が一度でも返したことがあるなら、話は別なんだけど。
駅から自宅までは歩いて十二分。
信号をひとつ渡り、団地の裏手にある古びたアパートへ向かう。
途中、制服姿の中学生たちがコンビニ前でたむろしていた。知らない顔だ。俺の学校の生徒じゃない。
俺が彼らを見ても、彼らは俺を見ない。いい距離感だと思う。
部屋に着いて靴を脱ぎ、そのまま床に座り込む。肩が痛い。背中が張っている。
でも、そのどれよりも、父からのメッセージが刺さっていた。
教師として、生徒に「夢を持て」と教えた数時間後に、親から詐欺まがいの金の無心が届くって、なかなか皮肉の効いた人生だと思う。
しかも、メッセージをうっかり開いてしまった。
既読がついてしまったら、スルーするにも胸がざわつく。
「金がない」と返せば、既読を確認した父から即座に電話がかかってくる。「今、送る」と返せば、父はきっと喜んで、来月もまた頼ってくる。
正解なんて、どこにもない。
風呂にも入っていない。晩飯もまだ食っていない。なのに、気づけば俺は銀行アプリを開いている。
そのことが、いちばん滑稽だった。
スマホが小刻みに震える。
既読をつけてしまった瞬間から、こうなることは分かっていた。
ブルブル、ブルブル…沈黙の圧が、夜の部屋に染み込んでいく。
「…はい」
俺は諦めて、通話ボタンをスライドした。
耳にあてたスマホの向こうから、あっけらかんとした声が飛び込んでくる。
『おう、晴人か。出てくれて助かったわ。今、大丈夫か?』
父、岸本忠司、五十八歳。元・運送業、今・自称「起業家」。
職を転々とした末に、現在は「在宅で稼ぐ」を信条に、ほとんど自室から出ていない。
この口ぶりも、相変わらずだ。
「何の用だよ」
ぶっきらぼうな返しにも、父はまったく動じない。というか、俺の態度なんて最初から期待してないのだろう。
『ちょっとだけ、金が要ってな。例のやつ、いよいよ動き出すんだよ。タイミング的に今しかなくてさ』
「例のやつ?」
『そう、仮想通貨の方。ていうか仮想通貨っていうと古くさいんだけど、ブロックチェーンの新規プロジェクトで』
「俺、仕事終わりでメシも食ってないんだけど。要点だけ言ってくれ」
『ああ、悪い悪い。要はな、五万でいい。すぐ倍にして返す』
倍にして返す。
この人は、何度このセリフを言ってきただろう。
投資、輸入雑貨、ネット通販、暗号資産、自己啓発セミナー、ドローンの代理販売。
夢はいつだって、「今がチャンス」って顔をしてやってくるらしい。
「…それ、また誰かに騙されてんじゃないのか?」
『違う違う。これは俺が調べた。今、Zoomで説明会とかもあってな。運営チームも日本人で、信用できる』
運営チームが日本人、という謎の安心感。
詐欺の教科書に載ってるパターンじゃないか。
「そのチームの名前は?」
『んー…なんだっけな、“イーリス・ジャパン”とか……ちょっと待て、パンフあるわ』
もうツッコミどころが多すぎて、疲れてきた。
俺はスマホを机に置き、スピーカーモードにしたまま、ジャケットを脱いだ。
ワイシャツの首元を緩めると、ようやく息が通った気がする。父の声はまだ続いている。
『でな、ポイントは“先行者利益”だ。今ならNFTが無料でついてくる。これを将来的に資産化して』
「俺、教員なんだけど」
『え?』
「生徒に“詐欺に気をつけろ”って言ってる立場なんだけど。そんな俺が、NFTつきの暗号資産に投資する金を出すと思うか?」
一拍の沈黙。
そのあと、電話の向こうで小さく笑い声が漏れた。
『…お前、そういうとこ昔から変わんねぇな。堅物っていうか、融通利かないっていうか』
「はいはい。じゃあ今日は切るぞ。飯もまだだし、疲れてんだよ」
『ちょっと待てって。今回は本当に—』
俺は通話を切った。
切る直前、父の声が「信じてみろよ、たまには」と言いかけていた気がする。
聞かなかったことにするには、やけに耳に残る声だった。
部屋の中は静かだ。
カーテン越しに外の街灯の光がうっすら差し込んでいる。時計はもう午後八時をまわっていた。
風呂は空のままだし、冷蔵庫には半額シールのついた焼きそばパンしか入っていない。
腹は減っている。けれど、食欲よりも先に来たのは、どこにもぶつけられない疲労だった。
俺はゆっくりと椅子に腰を下ろし、机に置いたスマホをじっと見つめた。
画面には父のLINEがまだ開かれたままだ。
「来週には絶対返す」「今度こそチャンス来た」この言葉を何度見たかわからない。
どれも嘘じゃない。たぶん、父にとっては“本気のつもり”なのだ。
でも、そんな“つもり”が積み重なった先にあるのは、俺の通帳の残高がじわじわ減っていく現実だけだ。
ネットバンキングのページを開く。
パスワードを打ち込む手が、途中で止まった。
やめとけ。どうせ焼け石に水だ。
金を送っても、感謝の言葉ひとつないぞ。
教師のくせに、何度同じ間違いを繰り返すんだ。
心の中で、何人もの自分が口々に叫ぶ。
けれど、そのどれもが“正しい”からこそ、動きを止められなかった。
正しいことにこだわりすぎると、誰も救えなくなる気がする。
「…五万だけな」
誰に向けて言ったのか、自分でもわからない。
口座番号は記憶している。というか、忘れようとしても忘れられない。
画面を確認しながら、数字を打ち込む。金額を入力する。確認ボタンを押す。
最後の「送金実行」ボタンだけが、やけに鮮やかに見えた。
指先がそこに触れるまで、五秒かかった。
ポン。
その音と同時に、五万円がどこかへ消えた。
画面には「振込が完了しました」の文字。
銀行アプリはいつもどおり丁寧で、無機質だ。
送金履歴のスクリーンショットを撮って、メッセージを一行だけ送った。
「送った。返せるときでいい」
既読がつくのは早かった。しかし、父からの返事はなかった。
これで、問題を一つ片付けたはずなのに胸だけが、妙に重くなっていた。