7.お土産
その日も雨が降っていた。
小雨だが一日降り続くらしい。とっくに梅雨の時期は過ぎている。けれど、ここ最近、雨が多かった。
窓から外の景色を眺めた後、傘立てをいつものように外へと運び出す。重いそれは祖父母の頃から使われている年代物だ。
そういえば、謙士が軒先にいたのも、こういう日だったな。
今はあの時より暖かい。けれど、降り続く雨で少し肌寒くも感じた。
「よっと」
背中でドアを押しながら、外へと運び出せば。
「文人さん…」
ふいに呼ばれて顔をあげる。
と、雨の中、スーツケースを手にした謙士が立っていた。
無精ひげが前より濃くなっている。さらに日に焼けたらしく真っ黒に見えた。まるで大きなクマのよう。あれから、丁度ひと月経っただろうか。
「──久しぶりだね? 出張、どうだった?」
たいして時間が経っていないかのように声をかければ、謙士はくっと眉根をひそめ。
「…その、お土産を…」
そうボソボソと口にして、手にしていたビニール袋を突き出してきた。文人は軒先に傘立てを置くと、
「とにかく、こっち入りなよ。濡れるって」
「直ぐに社に戻らないといけないんです。とにかく、顔だけ見たくて…」
そう言いながらこちらに近づくと、軒先に立つ文人の胸元に、袋を押し付けてきた。中はチョコレート菓子のよう。
それを受け取り、再び謙士を見上げると。
「ありがとう──」
久しぶりに間近で見た。
身長まで伸びたのではと思えるほど。見下ろす謙士の眼差しはどこか哀し気で、それでいて優しい。
黙って見つめてくる謙士を訝しく思い、首をかしげる。
「──謙士?」
「すみません…」
急にあやまってきた。
なんだろうと思った次の瞬間、文人の肩に手が置かれ、唇にひんやりと冷たい、でも柔らかいものが触れる。
──あ…。
謙士が文人のそれへ。自分の唇を重ねてきたのだ。
屈んで傾けたそれが、確かに押し付けられている。お土産を手にしていた文人は、胸をおしのけることも、顔を払いのけることもできない。
──もとより、そのつもりはなかったが。
視界一杯にひろがる謙士の顔。文人は目を閉じた。雨音が遠くに聞こえる。
謙士は合わせただけの唇を、ゆっくり離すと、文人を熱の籠った眼差しで見下ろし。
「──また、来ます…」
「……」
文人は息をするのも忘れて謙士を見つめる。きっと目が真ん丸になっていたはずだ。
うっすらとその思いに気づいていたとはしても、こうして実力行使に出るとは思ってもみなかった。たいてい、怖くて手もだしてこないと言うのに。
それから、振り返りもせず、謙士は足早に立ち去った。
いったい、何が?
暫く呆然として、店の軒先に立ちつくす文人だった。
◇
その後、なんとか平常心をたもちつつ、文人はカフェの時間を終え、夜の為に店を開けた。
ぽつぽつと常連がやってくる。
雨の日は出足が遅い。または来ない客も多かった。
今日のメニューはホッケ定食に、メンチカツ定食にポトフ。ポトフだけパンかご飯を選べる。出足を考えてあまり量は用意していなかった。
調理や接客の間中、謙士からされたキスが頭の中を巡っていたが、それをなんとか端に追いやって仕事を続けていた。考えた所で答えが出るわけではないのだ。
しかし。
謙士がもし、自分を好きだったとして。応えると言う選択肢はあるのだろうか?
──わからない。
謙士がどこまで真剣なのか。
それを見極めない限り、近付くことはできない。余計な傷は増やしたくないのだ。
雨は止まない。それでも常連客はそれなりに増えてきた。いつも通り賑やかになった頃、新たな客が入ってくる。
「いらっしゃいませ―…」
言いながら顔を上げて、思わず固まってしまう。謙士がそこに顔を見せたからだ。
暖簾の間からぬっと顔を出し、中を見回した後、こちらに視線を向けてきた。文人は軒下でしたキスを思い出し、思わず視線を逸らしてしまう。
「おお、来たな?」
「もう来ないと思ったぞ!」
皆から声がかかった。謙士は頭を掻きつつ、空いている席に大きな身体を縮こませ座る。
「はは、すんません。実は仕事で海外に行ってて──あ、俺、直ぐめしで! えーっと、メンチカツ…も、いいけどポトフもいいなぁ…」
「じゃあ、メンチがメインで、味噌汁の代わりにポトフ半分にしとく?」
「あ! それで」
声を弾ませて答える。ニコニコ顔がまるで幼い子供のようだ。
思わず口元に浮かびそうになった笑みを堪えて、顔を引き締めると準備を始めた。
「しかし、久しぶりだな? ええ? 二月近くはきてねぇだろ?」
「そんなになりますかね…。もっと早くに来たかったんですけど、色々急がしくて。あ! でも、文人さんには少し会ってました。その…さっきも──」
その言葉に、皆が一斉に謙士を見た後、こちらにも視線を向けてきた。ギンと音がしそうなくらい強い眼差しだ。
「あれ? 文ちゃん。そんなこと一言も言わなかったよね?」
「あ…えっと、慌ただしかったからつい言いそびれて…」
「うーん。隠すってことは何か言いたくない事でもあったのかな?」
常連の一人がニヤニヤ笑って見せた。文人は何も言えない。ただ、頬だけが熱くなった。
「そんなことは…」
すると一方の常連が。
「まあまあ、言いたくない事のひとつやふたつ、あるさ。ね? ──けど謙士」
そう言って、隅っこに座る謙士に、厳しい顔をして向き直ると。
「文ちゃんには不真面目な気持ちで手を出しちゃいけねぇよ? もし、文ちゃんが傷つくようなことがあったら、俺たちがゆるさねぇからな?」
そうだ! そうだ! とほうぼうから声が上がった。謙士は困ったように身体を小さくする。
文人は助け舟を出す様に、その場の空気に割って入ると。
「さあさあ、それくらいで。──はい。先に小鉢」
「あ、有難うございます…」
へへっと笑んだ謙士は嬉しそうにそれに箸をつける。
茄子の煮びたし風、ピーマンのきんぴらにトマトとキュウリの三杯酢和え。メンチカツは揚げている真っ最中だ。ぱちぱちと細かい泡が出はじめ、揚げ時を知らせる。
謙士はいつも美味しそうに食べてくれる。自分が作ったものをそうして食べてくると本当に嬉しくて。やっていて良かったと思える瞬間だ。
笑みを浮かべて、そんな様子をを眺めていれば。
「あーあ、とうとう春が来たか…」
空になったお銚子をひっくり返しながら、常連客がそう口にした。
「え? これから夏真っ盛りですよね?」
天然なのか、謙士が驚いて答える。
それでどっと笑いが起こった。文人も苦笑するしかない。
まあでも、本当に春がくるのかは、蓋を開けてみなければわからないのだ。
──キスは、されたけれど。
何かの気の迷いもあるかもしれない。
いつだったか、好意を寄せられた相手に、試しにとキスを迫られたことがあった。
それでオーケーならいいが、だめとなった時の自分がかわいそうで、丁寧にその申し出を断ったことがある。
謙士は──どうなのだろう?
こうして以前と変わりなく、みなに混じって酒を飲み、文人の作った定食を食べてはいるが。
何を考えているかなど、幾ら詮索しても分からないのだ。
◇
雨が降る中、常連客がそれぞれ帰宅の途に就き、ようやく店内は静けさを取り戻した。
いつの間にやら、謙士は洗い場に立っていて。疲れているだろうに、殆どの食器を洗うのを手伝ってくれた。あとは明日の簡単な仕込みをして終われる。
「ありがとう、謙士。疲れたでしょ? コーヒー飲んでく? サービスで。──ていうか、時給の代わりに今日のお代はいらないよ。本当に人がいいんだから…」
文人は返事のないまま、コーヒー豆をはかりミルに入れる。ついでに自分の分も入れた。
豆を挽き出すといい薫りがうっすらと漂い始める。
本当はなんでもない会話をしながらも、ドキドキと胸が高鳴ってはいた。これはどうしようもない。
謙士は黙って最後に残った皿を丁寧に拭き、棚へと片付けていた。どこかぼんやりしているようでもある。返事がないのが証拠だ。
「謙士?」
「あ…はい。飲みます!」
「…良かった」
沸かしたお湯を一旦冷ましたあと、サーバーの上にドリッパーを置いてお湯を注ぐ。もこもこと豆が盛り上がった。
いつものあれだ。まるで生き物の様なそれは見ていて飽きない。コーヒーの香りが本格的に漂う。
と、気が付けば謙士がこちらを見つめていた。
「どうした?」
「いえ…その…。変わりないなって…」
もどかしそうな顔をして俯く。
「──そう、見える? これでもさ。結構緊張してるんだ。…意識もね」
「!」
その言葉に謙士がぱっと顔を上げた。
まるで、褒められた犬の様だと思う。クマだったり犬だったり。謙士は忙しい。
文人は手元のドリッパーにお湯を注ぎながら。
「…僕ね。結構怖がりなんだ。前に付き合っていた人、亡くしてから余計に…。もともと同性同士は気を遣うけど、傷つくのももう嫌で…。慎重になってる」
「…はい」
「謙士がさ、どこまで真剣なのか分からない。…けどもし、どこかに付き合えばなんとかなるとか、好きなら乗り越えられるとか。思っているなら、やめた方がいい。──というか、やめて欲しい」
「……」
「こう見えて、僕一直線なんだよね。好きだとなったら。──なのに、そこまで思いがないのに来られると──大抵壊れてさ。…もう、こりごりで」
情けないが本音だ。
好きになる自分が悪いのだ。相手が乗せたから、じゃない。
引き返すことだってできたのに、相手がひるんでいるのを分かって付き合って。
結局、寂しかったのだ。それでもいいからと、付き合ってしまう自分。弱いと思う。
きちんと一人で立てるようになって、初めてひとと付き合うべきなのだろうと思った。
もう、吹っ切れてはいると思うけれど。
時折、現れる元恋人の影に、やはり心揺さぶられる。
「俺…」
謙士が口を開こうとするが。文人は淹れ終わったコーヒーをカウンターにおくと。
「飲もう。冷めちゃうよ」
「……」
言われて謙士はカウンターにつく。文人もその隣に腰かけた。
横からクマのぬいぐるみがじっと見ている。
これで終わるのか、始まるのか。
今の言葉でもしかしたら──終わりに傾いたかもしれない。
それならそれでいい。これくらいで引くなら、それまでだったのだ。けれど、それを哀しく思う自分もいた。
返事次第では、もうここへ謙士が来なくなってしまうのだから。