6.それは突然に
その日も雨だった。
梅雨はそろそろ明ける時期だったが、雨は時折降る。お陰で、客の出足は鈍かった。
文人はその日の定食のひとつ、アジの南蛮漬けを皿に盛り付けながら、ふと店の出入口に目を向ける。
謙士の既読はついたものの、あれから返信はなかった。返信するまでもない、と言うことか、他に考えあってのことか。今の文人に確認するすべはない。
仕事も忙しいのだろう。ここへも姿を現さないのがいい証拠だった。
彼女との時間を大切にしているのかもしれないしな…。
ここへ来たのも、空いた時間を持て余していたからに過ぎないのだろう。そこを埋める相手が現れれば、当然、こちらへ足が向かなくなるのに決まっている。
「文ちゃん、あいつ来なくなったな…」
と、ひとりの常連客の問いかけに、他の常連がこのバカ! と小さな声で怒鳴りつけ袖を引いた。どうやら気を使わせていたらしい。文人は笑うと。
「仕事が忙しいんでしょうね。すっかりここに馴染んでいたんで、少し寂しい気もしますが…。そのうちまたひょっこりあらわれるでしょう。──彼女を連れてね」
「そ、そうだな…。あいつ、彼女もちだったな…」
常連達は互いに目くばせをし沈黙したが、しばらくして、他の常連客が来店したのをきっかけに、いつもの空気に戻った。
けれど、分かっている。
突然、来なくなったものはそのまま消えてしまうものだと。続くものは細々とでも顔を出す。要は来る気はなくなったからそうなるのだ。
出来上がってきた常連客の一人が、コップ酒を傾けながら。
「ったく。荒らすだけ荒らしやがって…。だから若い奴は気に食わねぇんだ」
常連の妙齢の客はちっと舌打ちした。隣の客も頷くと。
「文ちゃんには俺たちがいるからな? 俺たちがこなくなる時は、死んだ時だ。それまではきっちりここに嫌がられても来るからな?」
「はは。嫌だなんてそんなことありませんよ。──でも、ありがとうございます。これからもごひいきに」
そう言って、追加で筍の土佐煮を出す。
「知り合いに筍を作っている人がいて。おすそ分けがあったので良ければ。おごりです」
おおっと声が上がった。それでしんみりとした空気が一掃される。
お酒と美味しい料理で人はいくらでも幸せになれる。悲しみも和らげてくれるのだ。
いなくなった大きな存在も、そのうち気にならなくなるはずだった。
◇
そんなある夜。
そろそろ閉店時間になるからと、暖簾を下げに外に出た所で。
「──文人さん!」
突然呼ばれて振り返ると、そこに謙士が立っていた。
急いできたのか、大きな身体を揺らし肩で息をしている。片手にはスーツケースを引きずっていた。
「どうしたの? そんなに慌てて──」
「あの、閉店なのは分かっているんですが…。──少しだけ、簡単なもの、食べさせていただけませんか?」
「いいよ、大丈夫。簡単と言わず、定食出せるから。ほら、入って、入って」
暫く訪れていなかったことなど、気にしない素振りで中へと招き入れる。それに、やはり嬉しかったのだ。
常連の深酒で暖簾はしまっても、店は開けていることはままある。一人分の食事位どうということはなかった。
「何食べる? 今だせるのは銀鱈定食に、オムライスかな?」
本当は他にもあったのだが、すでに材料を切らしていた。謙士はすかさず、
「銀鱈で」
「了解。はい、おしぼり」
温かいおしぼりを渡すと水を出し、早速料理に取り掛かる。
冷蔵庫に入れたあった銀鱈を取り出し、ついていた酒粕その他調味料を拭き取る。しばらく室温に戻してからじっくり焼くのだ。
「急いでいるようだけど、帰りも急ぐ? 時間はあるの?」
「なんとか。二時間は大丈夫です」
「そう。って、仕事帰り──ってふうでもないね? 今日はどうしたの?」
「出張先からここに直行して…。この後、空港に行きます」
「空港? って、海外かなにか?」
「はい。取材で南米の方に…」
「へえ。それは──期間はどれくらい?」
「一カ月くらいです…」
「大変だ。いつもそうなの?」
「はい。つい最近も海外出張があって…。殆どとんぼ返りです。急に行けなくなった奴の代わりで東南アジアの方へ取材に行ってて…」
「そっか…。だから急に来なくなったんだね? 連絡もないから心配したよ? 常連の皆もね」
「そうですか…。心配かけてすみません。連絡も慌ただしくてしていられなくて…」
「いいって。こっちは別に。気をつかう場所じゃないからさ。もっと他の事に気をつかって。──はい、先に小鉢。魚もじきに焼けるから」
他のこと。
それは、彼女の存在に他ならない。
謙士の前に小鉢を三つほど並べる。すべて旬のものばかりだ。
アスパラ、そら豆、ゼンマイ。それぞれゆでたり、炒ったり、和えたり。冷ややっこもつく。謙士はそれらをじっと見つめた後。
「すごく、気にかかってたんです…」
「謙士?」
「俺、──何かしでしたでしょうか?」
「え…?」
「家に誘ったの、いけなかったですか? …返事を聞くのが怖くて、つい、返信もしないままになってしまって…。結局、当分だめになりますけど…」
どうやら、謙士には分かっていたらしい。
「いけない、ってことはないけど…。謙士は──僕の性的志向は知っているよね?」
「…はい」
「だから、相手がいるのに、僕がそこへ行くのはどうかなって。二人きりはね? 何もないにしても、相手が知ったら誤解するかもしれないし。だから断ったんだ。ごめんな。でも、これはけじめとしてで──」
「相手って…?」
「この前、女性連れてきたよね? 彼女でしょ?」
ああ! と謙士は声を上げて頭を掻きむしった後。
「…あれは、同僚です。まあ、その…。過去に付き合った時期もありましたけど…」
「今も付き合っているんじゃないの? いい子そうだったよ? 彼女、まだ気がありそうだった…」
二人が話しているとき、彼女はかなり熱っぽい目で謙士を見ていたのだ。
「…みたいですけど。断りました」
あっさり謙士は口にする。
「どうして? あんないい子、もったいない」
「その──色々思う所があって…。てか、俺のことはいいんです。俺、分かってます。──分かってて、誘ったんです」
言って謙士は文人を見つめてくる。
「…だって。謙士──」
どういうつもりで?
そこでタイマーが鳴る。慌ててグリルを確認した。
大丈夫、丁度いい焼け具合だ。
いつもならきちんと見ながら焼くのだが、つい気をそらしてしまった。
手早く皿に盛り付け、味噌汁と一緒にカウンターに並べる。謙士は手を合わせたあと、いただきますと口にして黙々と食べ始めた。
文人は特別サービスに、いただきもののスイカを食べやすい大きさに切り分け差し出すと、同じく黙っていた。
分かっていて誘ったって…。どうしてだろう?
謙士は最後に出されたスイカまで、美味しそうに食べ終え、お茶を飲み干すと。
「──はぁ、生き返った…。やっぱり、文人さんの料理はおいしいです。本当、生きてて良かったって思える」
「そんな大げさな…。ごく普通のものしか出してないよ?」
「いや。違うんです…。海外に行っている間、文人さんの料理が食べたくて食べたくて…。それで、帰ってきて、急いで仕事を片づけてすぐここに寄ったんです。次の出張に出る前にどうしても食べたくて」
「あはは。そこまで? まあ、確かに日本食を食べたくはなるんだろうけれど──」
「文人さんの料理が食べたかったんです!」
言い終わらないうちに、謙士はひたとこちらを見つめ強い口調で否定してくる。
なんだろう。これは──。
それから、ああもう! と半ば叫ぶように再び声をあげると、謙士はがしがしと頭を掻きむしって。
「──出張から帰ってきたら、ちゃんと話します。…いろいろ」
「う、うん?」
「じゃあ、これで──」
そう言って、謙士は取り出した財布から料金を出そうとするが。
「あ、餞別だからお代はいいよ! 無事に帰ってくればそれで──」
財布から取り出そうとした手を軽く押さえる。その時、謙士の太くガッシリとした指に初めて触れた。少しかさついた指先。
でも温かい。
当たり前なのだけど。
謙士はじっとしていたが、ふと我に返ったように顔を上げて。
「その──俺が帰って来るまで、誰とも付き合わないでくれませんか?」
「え……」
「お願いします!」
そう言うと、ペコリと頭を下げ荷物を掴むとさっさと出て行ってしまう。
「ちょ、謙士なに──!」
慌てて追いかけたが、タイミングよく通りかかったタクシーを止めて乗り込んでしまった後だった。
「謙──」
文人はただ遠くなるタクシーのテールランプを見送ることしかできなかった。
◇
「あいつ、まだ来てないのかい?」
常連が手酌で日本酒を口にしながら、ちらと文人を見上げた。
「──そう、みたいですね? お仕事が忙しいようですよ?」
文人は何ごともなかった素振りで返す。
あの日のことは常連客に言ってはいなかった。言うほどのことでもないだろうし、それに言ってなにか勘ぐられても困る。
いったい、謙士が何を思ってあんな事を言ったのか…。
帰ってきて話を聞くまでは自分の胸の内にしまって、大事にしておきたかったのだ。
あの夜以降、謙士からは連絡がない。海外出張はひと月近く。当分、謙士は姿を見せないだろう。
謙士とは連絡先のやり取りはしてある。だが、必要以上にしない主義らしく。
コーヒーの淹れ方を講習した時も、少し遅れそうになったとき以外、連絡はしてこなかった。連絡は直接言葉で、顔を合わせて。謙士とのやり取りはそれが主だった。
まして、海外になど行ってしまえば、顔など合わせられるはずもなく。用がない限り連絡をしてこないタイプなら、余計に意思疎通はなくなる。
文人も相手が嫌がることはしたくない。
頻繁に連絡を取ることで、時間を取らせることにもなる。それくらいなら、連絡をしない方が良かった。
それはそれで、元気にやっている証拠なんだろうな。
カウンターの奥の席には、件のクマのぬいぐるみが鎮座してる。常連客はそれを眺めつつボヤいた。
「…あいつなら、文ちゃんにいいかと思ったけどさ。上手くはいかねぇなぁ」
文人はそれに、笑みを浮かべるだけにとどめた。
上手く行くときは、トントンと物事が進んでいく。どこかでつまずくのは──そう言うことなのだ。
謙士とはどうなのか。トントン…とは行かないまでも、繋がりは切れそうで切れていない。
帰ってきたら──また、顔をだしてくれるようだったし。
最後の言葉を思い出す。
帰ってくるまで、誰とも付き合うなって、早々、そんな相手が見つかる訳ないのにな。
文人はくすと笑う。
つまずいては、いないはずだ。最後に会ったあの時の様子から、やはり謙士はなんらかの思いを文人に持っていると言っていい。
元彼女の存在やノンケだと言うことは、とりあえず置いておいて。
どんなに打ち消しても期待が残る。
──でも、期待は怖い。
そうして、裏切られることがあったからだ。
恋人を亡くしてから、なんとなくそういう雰囲気になった相手がいた。
けれど、最後はやはり無理だと去られ。相手から近付いてきたのに──だ。
ため息がもれてしまう。
それなら、近付かないで欲しかった。ただの客としてそこにいて欲しかったのに。
別れ際、文人が女性だったら良かったのに、そう言われた。
なんだよ、それ。
と思う。
僕は僕だ。
他のなにものかになんて、なれるはずもないのに。
結局、そこまで強い思いではなかったと言うことだ。興味本位とまでは行かないにしろ、実際、近付いてみて、現実を目の当たりにしたら怖くなった──そんな所だろう。
もう、傷つきたくない。
だから、自分からは近付かない。
謙士が連絡をしてこないなら、それでいいのだと思える。
確かに寂しい。けれど、自分から近づいて、これ以上、余計な傷を作りたくはなかった。
「いらっしゃいませ」
常連客が暖簾をくぐって入ってくる。
ただこうして、皆がなごむ居場所を作ること、それが今は大事なのだ。
例え謙士と、トントン拍子に行かなかったとしても。