5.彼女
それから謙士はちょくちょく訪れるようになった。平日の時もあれば休日の時もある。
平日、仕事の日は皆と楽しく飲む。
休日はコーヒーの淹れ方を教わりに。そのまま夕飯を食べて、なぜか手伝って帰って行く。
いつの間にかそんな流れが出来上がってしまっていた。講師料の代わりだと言われれば、断ることもできず。
それに、謙士は意外に器用で仕事も丁寧で。洗い物のやり方も、一度教えれば後は言われた通りきちんとこなし、なにも言われなくともできるようになっていた。お陰でいる時はかなり助かっている。
が、そんなある日、とうとう、謙士がパートナーと思われる人物を連れてきたのだ。
それまでは、時折、同僚とおぼしき青年らを伴ってくることがあって。それは話している内容で分かる。大抵は仕事でのミスやトンデモ話で盛り上がっているからだ。
だが、今回は違った。
連れてきたのは女性で、かなり綺麗な人物だ。長身ですらりとしているが、化粧もあっさりしていて着飾りすぎてもいない。
つんと澄ました風でもなく、笑うとくしゃりと表情が崩れ可愛い。長い髪を背中でひとまとめにしていた。香りも僅かにするくらい。きちんと時と場所を心得られる人物らしい。
やっぱりな。
そう思った。
謙士の様な男には、美しい彼女がいて当たり前なのだ。そこで自分の中に、僅かに期待していた気持ちがあったことに気付く。
僕も馬鹿だな…。
周囲のおだてに乗って、うかれていた部分があったのかもしれない。もしかして──などある訳がないのだ。
「はい、今日は何にする?」
おしぼりと水を出す。メニューはホワイトボードに書かれている。謙士は彼女とそれを見ながら、
「俺は──焼きサバ定食。お前は?」
「えっと、麻婆定食。中華食べたい!」
お前か。うん、彼女だな。
決定的だった。
「焼きサバ定食と、麻婆定食、ね。なにか飲む?」
「俺はなしで。お前は飲めば?」
「うーん。じゃ、一杯だけ」
そう言って、焼酎のレモン割りを注文する。カクテルの類も用意できたが、若い女性にしてはなかなか渋い選択だ。
その後も親し気な雰囲気で。時折、額を突き合わせるようにして語り合っている。
いつもなら、文人にも声をかけてきて会話に混ざることもあったのだが、今回はまったくそれがなかった。明らかに特別なのが分かる。
いやだな。なんか…。
表面上はいつも通りだった。ただ、心が落ち付かない。
会話が気になってしまうのだ。耳にしたくないのに、入ってきてしまう。
常連たちは、時折、謙士をからかいつつ、やっぱりいたんなら早く連れて来いと怒っていた。
でも、本当だ。もっと早く連れて来れば良かったのに…。
謙士と彼女は、食べ終わると早々に帰って行った。このあと飲み直すのだろうか。それとも──。
──邪推だな。
そんな自分を笑うしかない。謙士が自分に懐いてきたため、つい、油断していたらしい。
いや、誤解だな。
心のどこかにもしかして──そんな思いがあったのだ。
◇
謙士とは、コーヒーの講習の時にこんなことがあった。
謙士はいつぞや、拾い上げたクマのぬいぐるみがそこにある意味を常連から教えられて以降、カウンターの一番奥には座らなくなった。
その隣に座り、文人が淹れたコーヒーを飲む。
「やっぱり、味が違うなぁ…」
「そう? だいぶ謙士もうまく入れられていると思うよ? 初めのころとは全然違うもの。きっと家でも同じだって。豆だってうちと同じの使ってるでしょ?」
「うーん。そうなんですけど…。微妙に違う気がして──」
と、そこまで言ってから、謙士ははたと顔を上げ。
「なら、今度家に来て、俺の淹れたコーヒー飲んでくれませんか?」
「え…」
「これで、文人さんが同じだって言ってくれれば、俺もようやく卒業できそうですよ。──だめですか?」
「えっと。…僕は、構わないと言えば構わないんだけど…」
謙士は文人の好意の対象が同性と知っているはず。
異性愛者でも、異性とふたりきりになると事には気をつかうだろうに…。
つい、同性だと男友達と同じと考えてしまうのか。あまり気は進まないが、謙士が誘うのにそこまでの意識がないのなら、こちらもそれに乗るべきなのだろうか。
本当はここで、異性に興味があるから、二人きりは無理なんだと言ってしまえば良かったのかも知れない。が、その勇気がなかった。
それを言ってしまえば、謙士はこうして無邪気に自分に近付くことも、話しかけることもなくなってしまう気がして。
「なら、約束ですよ? 来月の予定が決まり次第、また連絡しますから、ぜひ!」
「謙士…。そこまでコーヒー好きなんだ?」
「…文人さんの影響です」
「僕の?」
「これで繋がってますから」
そう言って、淹れたコーヒーの入ったカップを掲げて見せたのだ。
繋がっている、か。
こんな僕でも繋がりたいと思ってくれるのか。
謙士の言葉にそれ以上の意味はないのは分かっている。
けれど、どこか甘い思いが湧き上がったのを認めないわけにはいかなかった。
◇
そんな事があっての、今回だった。
暖簾を下げながら、ため息をつく。
まだ、家を訪問する日は決まっていない。スケジュールがはっきりしないらしい。
彼女がいるのなら、やはり文人の考えすぎだったのだ。自分を誘うのにためらいがないのは、文人の性志向をあまり意識していないせい。
ありがちな事で。やはり男友達を誘うのと同じ感覚でいるのだろう。
これは、やっぱり、きっちり断った方がいいんだろうな…。
彼女がいると分かった以上、余計に二人きりになることは避けたかった。後になって彼女がそれを知れば、あらぬ誤解をまねくとも限らない。
そこまで考えなくてもと言う人もいるかもしれないが、文人自身がそれを許せないと思うからだ。
彼女に隠れて、もう一人の女性に会っているようなもの。あり得ないだろう。
こういうことは、はっきりしておかないとな。
謙士に悪気はないのだろう。だから誘ったのだ。やはり、今のうちにこういうことは、はっきりさせて置くべきだったのだろう。
次の日、文人はいつかやり取りした連絡先へ、通信アプリを使って断りをいれた。
直接電話するのも躊躇われ。
店が忙しくなり、当分、休みが取れそうにないからと言う、当たり障りのない理由で、謙士の招待をやんわりと断った。