2.コーヒーの香り
豆をミルで挽いてドリッパーに移す。
ネルではなくペーパーで淹れていた。祖父がそうしていたからだ。
お湯を注ぐと、挽き立ての豆はふわりと浮き上がりいい香りを漂わせる。一番好きな瞬間だ。するとそれを見ていた男が、
「それ、俺も見るの好きなんですよ。なんだか幸せな気持ちになりますよね…」
カウンターに肘をつき、穏やかな表情でこちらを眺めている。
「あなたも、ですか? ──そう、これ幸せを感じる瞬間なんです」
文人もニコと笑んだ。嬉しくなる。これは普段、淹れているものでないと分からない。
「ご自分でコーヒーを淹れるんですか?」
「ええ、まあ…。見よう見まねで。誰かに習ったわけじゃないんで、かなり適当ですが…。おかげで、味が毎回違うんですよ」
「そうですか。──よければコツをお教えしますよ? また、気が向いたら声をかけてください」
常連にはよくそう言っていた。が、今の所誰ひとり申し出ては来ない。
どうやらここへ来れば上手いコーヒーが飲めるから、自分で出来なくともいいらしいのだ。
しかし、男は身を乗り出すようにして。
「──本当ですか?」
あまりに驚いた様子に、こちらもつられて驚いてしまう。
「ええ。僕で良ければ──」
「俺、冗談は通じない方なので。…なら、遠慮せず、教えてもらってもいいですか?」
男の真剣な様子に、思わず笑みがこぼれてしまった。コーヒーの淹れ方を伝授するだけなのに、大ごとのようだ。
「いつがいいですか? この時間なら少し前に来ていただければ、お店を開ける前に教えることもできますが──」
「待ってください…」
そう言って、男は端末を取り出し、自身のスケジュールを確認する。それからほっとしたように顔をほころばせた後。
「なら、明後日。木曜日の昼の開店前に。──本当にいいんですか?」
「はい。どうぞ。持ち物は特になくて大丈夫ですから。良ければエプロンも貸しますよ」
「ありがとうございます!──っと、俺、まだ名乗ってもいなかったですね…」
男は慌てて胸もとから名刺を取り出し、
「喜嶋謙士です。ちょっと堅苦しい名前ですが…」
「いや、素敵なお名前ですね。僕は──湊本文人です。みなは、さんずいにかなでるで、もとは本。あやは文章の文で、とは人。名刺はないんですが…」
受け取った名刺には、肩書に写真家、ジャーナリストとある。アクティブそうな謙士には合っているように見えた。
「いいえ。ばっちり覚えました。──ちなみに…お幾つですか?」
「え…? ああ──」
「いや、急に聞いてすみません。ぶしつけですね…。俺はこう見えても、二十六才で──」
「二十六? 確かにもう少し上かと…」
「ああ。よく言われるんです…。オヤジ顔だって。で、文人さんは?」
すぐに下の名前で呼ばれて少しドキリとした。いや。常連客にも『文ちゃん』と呼ばれているのに今更だ。
「三十才です。じきに三十一。梅雨時生まれなんです」
「三十…。文人さんはもっと下に見えますね。てっきり年下かと…。いや。失礼ですね?」
「はは。僕もよく言われます。童顔なんでしょうね? すぐに下にみられてしまって…」
「それで誕生日はいつなんですか?」
「え…っと。六月の末、二十七日です」
「へぇ。本当にじきですね…」
謙士はじっと店内のカレンダーを見つめた。
「──喜嶋さんは?」
「あ! 喜嶋は止めてくださいよ。せっかくなんで、名前で。謙士でお願いします。──で、誕生日は十月三十日ですね」
「秋生まれですか…」
「よく同僚や仲間には夏顔だって言われますが。暑苦しいみたいで…」
そう言って顎髭を撫でる。
確かに、圧は凄いな。
しかし、口には出さずに笑みを浮かべ。
「でも、髭はよくお似合いですよ? 僕は似合わなくて…」
そう言って、淹れたてのコーヒーをカウンターに置く。
「どうぞ。…謙士さん?」
「ありがとうございます」
謙士は嬉しそうに笑んでこちらを見た後、コーヒーに口をつけた。
◇
豆は若干深入りで、苦いと感じるかもしれないが、その苦みが好きな人には好まれるだろう。飲んだ後は爽やかな後味が広がると思うが。
「──うん、うまい」
静かにそう口にした後、にこりと笑んで。
「やっぱり。プロが淹れると更に美味しくなるんでしょうね? しかも淹れた人がこれだけ素敵だと余計に倍増しますね…」
「は、はあ…」
ちょっと面食らってしまった。褒めてくれたのか。素敵だなんて言われたのはいつ振りだろう。
「え? 言われませんか?」
「いや。その…。この店に来るのは常連のお客様が殆どで。誰もそんなことは口にしないんで…」
「へぇ。誰も? 意外ですね? だって、かなり綺麗な人だと思いますけど…」
「ははは…」
笑顔がつい引きつってしまう。
綺麗なんて。
言われたのは──そこまで思いだして、きゅっと胸が締め付けられる思いがした。
『文人は綺麗だ』
いつか、自分なんてと卑下した時、崇がいった言葉だった。それを思い出したのだ。
「…どうかしました?」
急に黙り込んだのを不審に思ったのだろう。謙士が覗き込むようにしてこちらを見つめてきた。文人は慌てて顔の前で手をひらと振ると。
「なんでも。なかなかそんな風に言われたことなくて。いや、照れ臭いですね…」
適当に胡麻化し凌ぐ。
いまだに崇は至る所にいて、こうしてなにかの拍子に顔を出す。彼を忘れることなど、到底できないのだろうと思った。
「コーヒー美味しかったです」
その後、コーヒー談議に話は移り、それが一段落したところで、謙士はそろそろ行かないとと口にした。
コーヒーはだいぶ前に飲み終わっていたのだが、その後も話が弾みそのまま会話を続けていたのだ。
「どういたしまして。次は他のも試してみてくださいね」
「はい。必ず。──じゃあ、明後日。一時間前にここで」
「わかりました。気をつけて、いってらっしゃい──」
席を立ち、出口に向かったその背に声をかける。『いってらっしゃい』そう言って崇を送り出したのが、つい最近の事のように思いだされた。
「はい。気をつけます。──行ってきます!」
張り切って答えた謙士に、現実に引き戻された。思わず文人は吹き出す。
謙士は笑わなくても、そう言ってぼやいた後、手を振って店を出ていった。
雨はすっかりやんでいる。
それは文人にとって、久しぶりに、他人と二人きりで過ごした和やかな時間だった。