その後3 温泉旅行
文人の希望で、謙士と温泉旅行を計画した。
たまの贅沢だからと、美味しい料理を出す居心地の良さそうな宿を選ぶ。
一日に三組しか泊まれないと言う宿は、静かで気兼ねなく過ごせた。各部屋に温泉が引かれていて、内風呂も露天もある。
すぐそばには川と山が迫り、せせらぎや風が木々を揺らす音が心地よく聞こえた。
やっぱりいいなぁ。
温泉で火照った身体に涼やかな風が吹き付ける。露天風呂の石段に座り、半身だけ浸して外の景色を眺める。温泉もいいが、こうして日常を忘れられる瞬間というのはとても大切だと思った。
「文人さん」
背後から声がかかった。振り返ると、謙士がこちらに向かって来る所。
謙士は先ほどまで屋内の浴室で身体を洗っていた。洗い終えてこちらに来たらしい。
「やっぱり露天風呂はいいよね」
「そうですね…。それより、文人さん、こっち。隣に、ね?」
同じく、石段に腰かけた謙士は、風貌に似合わず小首をかしげて誘ってきた。
「まったく…」
文人は入ったばかりの謙士の隣に場所を移す。隣に座るだけだ。断る理由もない。
その間、謙士はずっとこちらばかり見つめていた。今更ながら気恥ずかしい。
「…ちょっと、見すぎ」
「だって…。なんだか、いつにもまして色っぽい──」
「ここはゆっくりお湯につかるところだからね? わかってる?」
「…分かってる──けどさ。ちょっとは、いちゃいちゃしても──」
「何かの見すぎ。ここでそんなことしたら、汚れるし湯あたりするし。宿の人にめいわくかける」
「ちぇ。なら、こうして──っと」
「あ! ちょっと!」
言う間に謙士は文人を抱き上げ、自分の足の間に座らせてしまう。
「これならいいでしょ?」
「まったく…。油断も隙も」
「うーん。やっぱり綺麗だなぁ…」
文人の話しなど聞かない。背後からがしっと抱きしめてくる。
「…湯あたりするよ?」
「もう文人さんにあたってるから…」
首筋に額をこすりつけくる。まるで大型動物に懐かれている気分だ。
「口、上手いんだから…」
そう言ってから、文人も根負けして、背後の謙士に軽くもたれた。
「文人さん、温泉好き?」
「うん。各地を巡ってみたいって思ってる。まだ近場しか行けてないけどね」
「じゃ、一緒に全国、回ろう。楽しみ…」
そう言って首筋にキスを落としてくる。
「こら。キスしないの。ここはのんびりお湯につかる場所で──」
「分かってるって。これ以上はあとでまた…」
そう言って笑うと、湯あたり直前まで謙士は粘って、文人と温泉を楽しんだ。
◇
「ほら、言わんこっちゃない」
ぴたりと冷えたコーヒー牛乳の瓶側面を謙士の頬に当てた。結局、湯当たりした謙士は、椅子の上で伸びている。
「あー気持ちいい…」
無料でコーヒー牛乳、牛乳、いちご牛乳がおかれていたのだ。
懐かしくて二本とったうち、一本を謙士の頬に当てる。文人はいちご牛乳。
昔祖父母に連れられ入った銭湯でよくせがんで飲ましてもらったものだ。
紙のフタを剥ぐってひと口飲む。
「ん―、あま」
その声に謙士も顔を上げて、渡されたコーヒー牛乳の瓶を見つめる。
「俺、飲んだ記憶ないな…。初めてかも」
「世代だろ? まあ、僕がおじいちゃん、おばあちゃんに育てられたのもあるけど…。そう言えば、謙士の家族は?」
「下に妹が一人。父親は在宅で仕事して農業して、母親もパートしながら農業手伝ってる。とは言っても趣味の範囲をでないけど。田舎暮らしが好きみたいで。妹は大学出て、どっか海外に就職するとか言ってたな…」
「ふーん。皆色々だね?」
「ちゃんと紹介するんで」
「はは。無理はしなくても──」
「てか。もう言ってある」
「へ?」
「だって、内緒にしておくことでもないし。うち、オープンなんで。両親も成人した子どもは放任してて。自分たちの生活がまず一番って言ってるくらいで。元気で人様に迷惑をかけていなければそれでいいってのが口癖」
「はぁ…。そうだなんだ…」
「緊張しなくても大丈夫ってことで」
「そうかなぁ。いざそうなると、変わるんじゃ…」
「心配しない。俺見ればわかるだろ? こんな自由に生きちゃって。かっちかちの真面目な頭の固い両親だったら、ここまで奔放にいきてませんって」
「そう…?」
「そう!」
言って、謙士はコーヒー牛乳に口をつけた。やはり、あま! と口に出す。
「けど、なんだか──懐かしい…。飲んだこともないのに」
「なんだろうね? そう言うものなんだろうね」
ガラス瓶に入ったそれは、どこか胸を張っているようにも思えた。
◇
今回、取った部屋は、純和風の室内。けれど、ベッドがしつらえられていて、とても静かだった。
他の部屋の音が聞こえてくるかと言えばそうでもない。それぞれが別棟になってるため、早々物音は聞こえてこないらしい。
夜も深まる中、ベッドに腹這いに寝転がった文人は、
「いい宿だね…」
そう口にした。
「──だね」
文人の言葉に答えながら、謙士は背中にキスをしてくる。既に甘い時間を過ごしたあとだ。けれど、謙士は名残り惜しいのか、キスを止めない。
「ん。くすぐったいって」
「──だって、あんまり綺麗だからさ。ずっとキスしたいって思ってた…」
「お風呂で?」
「そう。浴衣着替えてる時も、ずっと…」
「あ! ちょっと、もう無理だって…」
かなり意図のあるキスを背中にされて、文人の身体はぴくりと反応を示した。
「そう言わずに…。明日も泊っているんだし。もうちょっと──」
「…さっきから、何度そう言ってる?」
「──忘れた」
身体を反転させ、謙士のキス攻撃を邪魔するが、逆に今度は唇にキスが落とされる。
結局、謙士の押しにながされてしまうのだ。こんな僕でもいいと言ってくれる謙士は本当に貴重な存在で。
「…いつか、飽きるって」
「飽きない──」
謙士はそう言って頬を捉え、見下ろしてくる。なんて優しい眼差しだ。
「…負けた。謙士には勝てないな。本当」
「やった!」
言ってまたキスされる。
謙士はいつも全身で好きだと伝えてくる。
そのうち、一緒に住みたいと言われていた。あの小さな家に。
けれど、大柄な謙士にあの家は少々せまいはず。もう少し資金が溜まったら、改築も考えていた。店舗はそのままに、居住スペースだけ広くする。
そう儲からなくてもいい。あの店を必要としてくれる人たちの為に、続けて行きたかった。
それに、海外を飛び回る謙士の為に帰ってくる場所になりたかったのだ。
「謙士…」
「なに?」
「一緒にいてくれて、ありがとう」
「──」
ぼっと謙士の顔が赤くなる。
「なに、照れてんの?」
「だってさ…。改めて言われると…。俺だってそう思っているけど」
「フフ、謙士はかわいいよね? 一見すると強面なのに。すぐ赤くなる…」
「相手が文人だからだ。──こちらこそ、ありがとうございます──。好きだ…。文人」
耳元でそう囁く。ボボっと赤くなった文人に謙士は声をたてて笑うと。
「これであいこ、だ」
「謙士…」
下から謙士を軽く睨んで見せたが──それが続くはずもなく。二人、顔を見合わせて笑った。
謙士との時間は、今までの文人のすべてを塗り替える。もう、昔の彼の思い出は、ふと現れても文人を悲しませることはない。優しい思い出として胸へしまわれた。
すべて、謙士のおかげだ。
「どうした?」
不意に沈黙した文人に謙士が尋ねてくる。文人は首を振ると、
「大好きだよ…。──とてもね」
そう言って、首すじに腕を絡めキスをする。謙士の顔が更に赤くなって、文人も声を上げて笑った。
甘い時間はこれからも続く。
ー了ー