12.雨あがり
「あ…、雨やんだね」
「ん…」
文人の声に、謙士の太いがっしりとした腕が、布団に寝転がったままの文人の腰に絡まる。
「ちょっとさ。動けないんだけど?」
「ん―…。もうちょっと、ゆっくり…」
「まったく…」
同じく布団に横になったままの謙士の頭をぽすりと軽く叩いた。それでも起きる気配はない。
が、まだ朝は明けたところ。起きるのには確かに早い時刻だ。もう少しゆっくりしたところで罰は当たらない。
こっそり、眠る謙士に抱きついてみた。
人の体温があたたかいと感じたのは久しぶりだった。雨が降るとまだ肌寒いこの季節に、丁度いい温もり。
あの告白のあと。
流れのまま謙士に身を任せ今に至る。
あれほど気にした謙士の抵抗だったが、まったく何も感じさせなかった。気にしない、と口にしたのは伊達ではなかったらしい。
異性とは造作が違うが、好きになったのはそこではないから気にならないとのことだった。多少、勝手が違ったくらいだとか。
抱きしめると額に顎髭が当たる。筋肉の塊のような身体は、細い文人とはまったく違った。
ジムにも通っているらしいが、それにしてもどうやればこれほど筋肉がつくのか。なにか格闘技でもしているのではないかと睨んでいる。にしても。
気持ちいいな。こうして抱きしめるの。
と、不意に腰に絡んでいた腕に力がはいった。
「謙士? 起きた?」
「──起きますよ。それは…」
顔を上げれば、謙士が僅かに顔を赤くしてこちらを見下ろしている。
「それ、誘ってるんですか? 俺はかまわないですけど…」
言う間に横に並んでいたはずの身体が、謙士の下になる。
「え? 誘ってなんて…」
「いいや。誘ってます。てか、本当は俺がしたいってだけですけど──」
抵抗する間もなく、謙士のキスが唇に落ちてくる。
いったいどれだけの女性と付き合ってきたのか。キスも慣れたものだ。こっちはそんなに経験はないというのに。
ただし、かなり情熱的なのは相手が自分だから、そう思うことにしている。
「──謙士、っちょっと、まてって」
「嫌です。…もう無理です」
まるで子どもだ。
「うー、もうっ。仕方ない…」
言って文人も謙士の頭を抱きしめた。その間もキスの雨がふりつづく。
やまない、雨は…ない…か。
そんな言葉を聞いた事がある。
けれどこの『雨』は当分、ふり続けるのだろう。文人が嫌だと言うまで。
クスリと笑んで、謙士のほどけた長い黒髪を梳いてキスをする。
「──文人さん?」
何だろうと、半ば夢見心地の謙士が顔を上げた。
小さな店の二階で、こうして再び大切な人と抱き合えることの喜び。
ささやかだけれど、それがどれほど幸せな事なのか、文人は知っている。
「なんでもない…」
言って、文人は幸せを抱きしめた。
◇
「きっと、友だちになりたいって思った時から──好きだったんだと、思う…」
朝ごはんを小さなテーブルについて取りながら、謙士はぼそっと口にした。いつから好きになったのか、そんな話題になっての答えだった。
あれから、休日前には店の洗い場に立ち、泊まって次の日帰って行くのが謙士のルーティンになっている。
ちなみに、付き合いだしたのだからと、敬語は無しにしてもらった。いつまでも、デスマスではやはり距離を感じる。
謙士は言ったあと、照れくさくなったのか、急いでご飯をかきこんだ。
半ば昼ご飯と化している朝食メニューは、だし巻き玉子に漬け物、昨晩の余りの魚を焼いた焼き魚に冷ややっこに、サラダ、味噌汁となる。
自分だけの時は、納豆ご飯をかき込むことも多々あったが、さすがに栄養のバランスを考えると、謙士にそれだけでは申し訳なかった。
「ふーん。顔、真っ赤。耳まで赤いよ? 子どもみたいでかわいいね」
「からかわないでよ。…じゃ、文人さんは? 前に、初めて会った時からっていったけど」
「そうだよ。初めて会った時、大きいなって、思ったのと同時、ああ、他人じゃないなって思ったんだ…」
「それ、なに?」
「そのまんま。ただ、そう感じただけ。多分、他人で終わる気がしなかったんだ。それまで出会ってきた人たちは──大抵、そんな気がしてた。長くは続かないって」
「…崇さんは、違った?」
遠慮がちに尋ねてくるのに笑うと。
「気にしなくていい。聞いちゃいけない事じゃないし。──崇もそう思った気もするけど、彼はいつの間にかそこにいたって感じでさ。自然に入り込んでいたから──てか、謙士はそう言うの、聞くのいやじゃないの? 過去の話なんて…」
「俺は、聞きたい! だって、文人さんのことは全部知っておきたい…」
文人は笑うと。
「子どもみたいでかわいいね」
「あ! また、子ども扱い…。これでも立派な大人なんだけど…」
「わかってるよ。謙士はカッコ良くて素敵な大人だよ。ほんと、もったいないくらい…」
「そんなこと、ない。だいたい、俺の方が文人さんにつりあうのか…。でも、だからって俺は引いたりしないけど」
「引かなくてけっこう」
そう言って、謙士のテーブルについていた手に自分の手を重ねた。
「謙士の手、好きなんだ──。大きくてごつごつしてて。大人の男の手だ。とても、安心できる…」
「文人さん…」
呼ばれて伏せていた視線をあげれば、
「キスしたい…。してもいい?」
「ふふ、ごはんつぶ、つくよ──」
言い終わらないうちに、テーブル越しにキスされる。唇に軽いキスだ。
「…今日、予定変更しても?」
額をこすり合わせて、熱のこもった眼差しの謙士が尋ねてくる。
ああほんとうに。
「どうぞ。予定って言っても、二人でのんびりするのが目的だったから…。なにもかわらないね?」
そう言って微笑めば、謙士がまた、顔を赤くした。
「…文人さん。かわいすぎ」
「それは謙士だって。さ、さめないうちに食べちゃおうか? 明日も休みだし。ゆっくりしよう」
「…はい!」
雨があがって。
晴れ渡った空には、まだ雨雲の残りがある。道も濡れたまま。
でも、雨は嫌いじゃない。すべて洗い流してくれるから──。
その後の、晴れ上がった空はもっと好きだった。
ー了ー