10.謙士の視点 2
コーヒー講習の当日。
休日だったため、今か今かと待ち構え、約束の時間より早くなってしまったが、文人は嫌な顔ひとつせず快く迎えてくれた。
文人が淹れてくれたコーヒーは格別美味しく感じる。この前試飲したコーヒーも、やたら美味しく、これは豆のせいだけではないと感じていた。
始める前に、文人がエプロンを貸してくれる。当然のように文人自身がエプロンをつけてくれた。
前に立った文人が、抱きつくようにして腕を回しエプロンの紐を締めようとする。
うっ。文人さんに抱きしめられてる…。
俺の腰回りが大きいせいでそうなったのだ。わ、おっきい、と小さく文人が呟いたのを聞き逃さない。
すんません、と心のなかで唱えつつ、ふわりとかすかに匂った、せっけんの様な清潔な香りにドキリとする。
本当に近づかないと分からないほどの微かな香り。こうして文人が抱きついたから香ったのだ。
意識した途端、胸が高鳴りだす。
細く白い首すじ。それに沿ってつい視線が下がる。このまま、腕を回せば抱きしめられる──そこまで思って、自身の思いを顧みた。
俺は、何を考えているんだ?
いやいやいや。まだろくに会話もしていないのに。そんな簡単に。
──でも。
チラと文人に目を向ける。エプロンを巻き終えて、一仕事終えたようにホッとして見せた。
かわいい人だと思った。
◇
その後、講義が始まったが、案の定、同じ豆を使って淹れたのに、俺のものはイマイチ。香りも味も違う。淹れ方がなっていないのだ。
やっぱり、センスない…。
がっくりしていると、文人が自分はもっと不器用だったと口にした。そう言って笑う姿がまたかわいい。
名前呼びと敬語禁止を頼み、その後、夕飯を食べるのにこじつけて無理やり洗い場に立った。
昔、バイトで鍛えたこともあって、洗い物は慣れている。文人のやや後方でその背を見つめながら手を動かした。
厨房に他人が入るのは珍しいのか、常連客は俺の姿を認めると、皆一様に驚き、次に不審の目、または威嚇の目を向けてくる。
気に入らない。そう伝えて来ていた。
その視線を受けながらも、黙々と作業を続けた。文人は時折、こちらに視線を向けて様子を見てくる。
それに笑顔で応えると、文人が面食らった顔をして、そのあと頬が朱に染まる。それから笑顔になって。
言葉を交わしたわけでもないのに、会話をしているようで。
ああ、嬉しいな。
こんな些細なことが幸せだと感じる。まだ、きちんと話すようになって二回目。なのにすっかり文人に夢中だ。
結局、常連にやんや言われ──厳しい追究に、思わず一度だけ飲みに来た事があると嘘をついた──仕方なく退散する羽目に。
しかし、しっかり次へのきっかけは掴み取った。手にするのは濃紺のデニム地のエプロン。これを返すのをきっかけに、また訪れる予定だ。
じきに誕生日でもある。仕事の都合もあって、その日は店に来られるか微妙だった。
なら、エプロンを返すついでに、プレゼントも用意しておこうか。
さっき調理場に立っていたとき、かなり足元に寒さを感じた。動いていればそうでもないだろうが、ああして立っているとジワジワとくる。
登山用のしっかりした靴下なんていいかもな。
もこもこしたパイル地の奴だ。あれはかなり温かい。早速、次の日、仕事終わりに買いに出かけた。
◇
三日目の夜。
俺は再び店の前に立った。
大きく息をはいてから、勢いをつけてドアを開ける。
真っ先に見た文人の笑顔の出迎えに、気分が良くなった。俺だけが特別じゃない。どんな客に対しても同じなのだろうけれど。分かっていても嬉しい。
エプロンを入れた袋の中に、プレゼントを忍ばせて渡す。我ながら名案だ。さり気ないことこの上ない。
気がついた文人は、嬉しそうに笑んでくれた。
その後、例の如く常連からの容赦ない攻撃を交わしつつ、飲んで食べて楽しく過ごした。
そんな中、常連のひとりに、ひそめた声で文人の過去の話をきかされる。カウンターの奥を陣取るクマのぬいぐるみについても。
あれは、数年前に亡くなった彼氏の代わりに置かれているのだと言う。そこが彼の定席だったのだとか。
置いたのは常連で、文人ではない。けれど、文人はそのままにしている。
それは──今もその心に彼が住んでいる証拠なのだろう。ツキリ、と胸がいたんだ。
どうして胸が痛むのだろう。
俺はその理由を考えるようになった。
◇
それからも、文人の店に頻繁に通った。
自分の気持ちを確認したかったのもあるが、単に文人の顔を見たかったせいもある。文人に会える日は、心が弾んだ。
そんな中、以前付き合ったことのある女性に飲みに行かないかと誘われる。最近、彼氏と別れたと噂で耳にしていた。
取り敢えず付き合っている相手はいない。それなら断る理由はなかった。けれど、気は進まない。頭に文人の顔が浮かぶが──。
これは、いい機会なのかもしれない。
彼女と会って、まだ心が揺らぐようなら、文人への思いは恋愛のそれではないと分かる。覚悟を決めた。
文人にも会いたい。店は文人の店、オルヴォワーを選んだ。
当日、彼女を連れて顔を出せば、丁度カウンター席に空きがある。調理をする文人の真向かいだ。
彼女との会話を聞かれるのではと気が引けたが、他に席もない。そのまま、空いた席へ並んで座った。
文人は女性連れに遠慮してか、店員に徹して、気を遣いはするけれど、必要なこと意外話しかけてくることはない。
飲みだしてしばらくすると、彼女は謙士と付き合っていた頃が懐かしいと口にした。その言動から、自分とよりを戻したいのだとわかる。
彼女の視線は熱を持つ。ついていた手の上に、彼女の手が重なった。多分、そう言うことなのだろう。
彼女とは働き始めた頃、二年ほど付き合って別れた。互いに仕事が面白くなってきた頃で。日々忙しく会っている間もない。それを機にいったん距離を置いたのだ。
店に寄った後、流れでホテルに立ち寄った。ここでまだ彼女に手を出せるなら、やはり自分は文人に対して、本気ではないと言うことだ。
彼女は女性として申し分ない。今までの自分ならのっただろうが──。
──結局、手を出せなかった。
心ひかれるものがなかったのだ。彼女ではない、それだけが分かった事だった。
その後、彼女にはきっぱり断りを入れた。
特定の相手がいないなら付き合えばいいじゃない、と言われたが、そうではないことに気付いた今、もう無理だったのだ。