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雨やどり  作者: マン太
10/16

10.謙士の視点 2

 コーヒー講習の当日。

 休日だったため、今か今かと待ち構え、約束の時間より早くなってしまったが、文人は嫌な顔ひとつせず快く迎えてくれた。

 文人が淹れてくれたコーヒーは格別美味しく感じる。この前試飲したコーヒーも、やたら美味しく、これは豆のせいだけではないと感じていた。

 始める前に、文人がエプロンを貸してくれる。当然のように文人自身がエプロンをつけてくれた。

 前に立った文人が、抱きつくようにして腕を回しエプロンの紐を締めようとする。


 うっ。文人さんに抱きしめられてる…。


 俺の腰回りが大きいせいでそうなったのだ。わ、おっきい、と小さく文人が呟いたのを聞き逃さない。

 すんません、と心のなかで唱えつつ、ふわりとかすかに匂った、せっけんの様な清潔な香りにドキリとする。

 本当に近づかないと分からないほどの微かな香り。こうして文人が抱きついたから香ったのだ。

 意識した途端、胸が高鳴りだす。

 細く白い首すじ。それに沿ってつい視線が下がる。このまま、腕を回せば抱きしめられる──そこまで思って、自身の思いを顧みた。


 俺は、何を考えているんだ?


 いやいやいや。まだろくに会話もしていないのに。そんな簡単に。


 ──でも。


 チラと文人に目を向ける。エプロンを巻き終えて、一仕事終えたようにホッとして見せた。

 かわいい人だと思った。



 その後、講義が始まったが、案の定、同じ豆を使って淹れたのに、俺のものはイマイチ。香りも味も違う。淹れ方がなっていないのだ。


 やっぱり、センスない…。


 がっくりしていると、文人が自分はもっと不器用だったと口にした。そう言って笑う姿がまたかわいい。

 名前呼びと敬語禁止を頼み、その後、夕飯を食べるのにこじつけて無理やり洗い場に立った。

 昔、バイトで鍛えたこともあって、洗い物は慣れている。文人のやや後方でその背を見つめながら手を動かした。

 厨房に他人が入るのは珍しいのか、常連客は俺の姿を認めると、皆一様に驚き、次に不審の目、または威嚇の目を向けてくる。

 気に入らない。そう伝えて来ていた。

 その視線を受けながらも、黙々と作業を続けた。文人は時折、こちらに視線を向けて様子を見てくる。

 それに笑顔で応えると、文人が面食らった顔をして、そのあと頬が朱に染まる。それから笑顔になって。

 言葉を交わしたわけでもないのに、会話をしているようで。


 ああ、嬉しいな。


 こんな些細なことが幸せだと感じる。まだ、きちんと話すようになって二回目。なのにすっかり文人に夢中だ。

 結局、常連にやんや言われ──厳しい追究に、思わず一度だけ飲みに来た事があると嘘をついた──仕方なく退散する羽目に。

 しかし、しっかり次へのきっかけは掴み取った。手にするのは濃紺のデニム地のエプロン。これを返すのをきっかけに、また訪れる予定だ。

 じきに誕生日でもある。仕事の都合もあって、その日は店に来られるか微妙だった。

 なら、エプロンを返すついでに、プレゼントも用意しておこうか。

 さっき調理場に立っていたとき、かなり足元に寒さを感じた。動いていればそうでもないだろうが、ああして立っているとジワジワとくる。


 登山用のしっかりした靴下なんていいかもな。


 もこもこしたパイル地の奴だ。あれはかなり温かい。早速、次の日、仕事終わりに買いに出かけた。



 三日目の夜。

 俺は再び店の前に立った。

 大きく息をはいてから、勢いをつけてドアを開ける。

 真っ先に見た文人の笑顔の出迎えに、気分が良くなった。俺だけが特別じゃない。どんな客に対しても同じなのだろうけれど。分かっていても嬉しい。

 エプロンを入れた袋の中に、プレゼントを忍ばせて渡す。我ながら名案だ。さり気ないことこの上ない。

 気がついた文人は、嬉しそうに笑んでくれた。

 その後、例の如く常連からの容赦ない攻撃を交わしつつ、飲んで食べて楽しく過ごした。

 そんな中、常連のひとりに、ひそめた声で文人の過去の話をきかされる。カウンターの奥を陣取るクマのぬいぐるみについても。

 あれは、数年前に亡くなった彼氏の代わりに置かれているのだと言う。そこが彼の定席だったのだとか。

 置いたのは常連で、文人ではない。けれど、文人はそのままにしている。

 それは──今もその心に彼が住んでいる証拠なのだろう。ツキリ、と胸がいたんだ。

 どうして胸が痛むのだろう。

 俺はその理由を考えるようになった。



 それからも、文人の店に頻繁に通った。

 自分の気持ちを確認したかったのもあるが、単に文人の顔を見たかったせいもある。文人に会える日は、心が弾んだ。

 そんな中、以前付き合ったことのある女性に飲みに行かないかと誘われる。最近、彼氏と別れたと噂で耳にしていた。

 取り敢えず付き合っている相手はいない。それなら断る理由はなかった。けれど、気は進まない。頭に文人の顔が浮かぶが──。


 これは、いい機会なのかもしれない。


 彼女と会って、まだ心が揺らぐようなら、文人への思いは恋愛のそれではないと分かる。覚悟を決めた。

 文人にも会いたい。店は文人の店、オルヴォワーを選んだ。

 当日、彼女を連れて顔を出せば、丁度カウンター席に空きがある。調理をする文人の真向かいだ。

 彼女との会話を聞かれるのではと気が引けたが、他に席もない。そのまま、空いた席へ並んで座った。

 文人は女性連れに遠慮してか、店員に徹して、気を遣いはするけれど、必要なこと意外話しかけてくることはない。

 飲みだしてしばらくすると、彼女は謙士と付き合っていた頃が懐かしいと口にした。その言動から、自分とよりを戻したいのだとわかる。

 彼女の視線は熱を持つ。ついていた手の上に、彼女の手が重なった。多分、そう言うことなのだろう。

 彼女とは働き始めた頃、二年ほど付き合って別れた。互いに仕事が面白くなってきた頃で。日々忙しく会っている間もない。それを機にいったん距離を置いたのだ。

 店に寄った後、流れでホテルに立ち寄った。ここでまだ彼女に手を出せるなら、やはり自分は文人に対して、本気ではないと言うことだ。

 彼女は女性として申し分ない。今までの自分ならのっただろうが──。

 ──結局、手を出せなかった。

 心ひかれるものがなかったのだ。彼女ではない、それだけが分かった事だった。

 その後、彼女にはきっぱり断りを入れた。

 特定の相手がいないなら付き合えばいいじゃない、と言われたが、そうではないことに気付いた今、もう無理だったのだ。



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