第2章「シュカ」 第5部~はじまり~
目覚めて一番に感じたのは、ひやりとした冷たい感触だった。
息を吸おうとした瞬間、僕の口内がどろりとしたもので満たされていることに気づく。
急いで息を吸うのを止めたが、それは喉にまで侵入していた。
強烈な吐き気と顔面を覆う閉塞感に身体が硬直し頭に血が集まる。
咄嗟に僕は全身の力を振り絞って身体を横に一回転させた。
粘着質な音を立て、僕の頭は液体のようなものから離れた。
すぐさま僕は地に向かって何度もえずいた。
僕の口から出てきたのは、粘り毛のある重たい泥だった。
激しい吐き気とともに、泥は僕の腹からとめどなく放出された
その最中にも酸素を欲する肺がタイミングなどお構いなしに息を吸おうとして、吐き出そうとした泥をまた吸い込み、吐き出し、隙を狙って息を吸い、むせ込み、吐き出し、僕はひたすらにもがいていた。
口と喉を泥が伝う感覚はとても気持ちが悪く、飲み込んだ泥を全て出してからも、僕はしばらく黄色い胃液を口から鼻から、吐き出し続けていた。
重量感のある暗い色をした泥の上を、黄色い胃液がさらさらと滑るように伝っていく光景が、しばらくの間僕の視界を占領していた。
どれくらい経っただろうか。
嘔吐が収まった後も、しばらく僕はその場にただ横たわっていた。
僕の頭の重みで泥が凹み、そこに生ぬるい液体、恐らく僕の胃液だろうか、が流れ込み耳の中に入ってくる感覚がひどく不愉快だったが、それ以上に強い肺の詰まるような息苦しさと、酷い頭痛と、泥のような疲弊感に僕は押しつぶされていた。
やがてなんとか呼吸を整えた僕は、ゆっくりと重たい頭を動かした。
耳の中の水分がぬるりと動く感覚は快感に最も近い不快感を感じる。
僕は隣へと視線を向けた。
そこは、僕の頭より少し大きいくらいのぬかるんだ穴だった。
先ほどまで僕の顔はそこに突っ伏すように沈んでいたのだろう。
ひやりとした感覚が身体を包み、僕は髪にまでべっとりとついた泥を払うように頭を震わせた。
頭痛と耳鳴りが増す。
穴のすぐ横には、盛り出した木の根があった。
思い出したように足の痛みが再来する。
そうか、僕は暗い森の中を歩いていて、木の根に躓いて、この穴で溺れかけていたんだ。
確かめるように僕は呟いた。
穴にもう一度目をやると、再び閉塞感と寒気が僕を包む。
すぐさま穴から目を逸らし、僕は自分を落ち着かせるように何度も大きく息を吸った。
まだ肺からは何かが絡んでいるような嫌な音がする。
僕は頭痛と折り合いをつけながら何度か咳き込んだ。
僕は目を閉じ、これまでの記憶を手繰り寄せた。
夜、箱に詰められて、海に捨てられて、暗闇の中揺られて、白い光を見つけて外へ出て、不思議な砂浜に辿り着いて、黒い翼の美しい人に「義務がある」と言われて、不思議な光に導かれて進んで、暗い森を彷徨って、それで……。
僕の脳裏にあの少女の存在が浮かぶ。
少女との時間は、夢だったのだろうか。
もしかしたら、あれが誰かが言っていた天国というものだったのだろうか。
あの穴に溺れかけていた間の、都合の良い僕の妄想なのだろうか。
僕の頭には、異常なまで鮮烈にあの少女との時間が焼き付いていた。
ふわりとした猫のような毛、微笑んだ頬の滑らかな感覚、重ねた手の少しだけ冷たい温度。
そして僕の名前を呼んでくれた鈴の音のように愛らしい声。
僕は彼女が呼んでくれたあの名前を呟いた。
まるで呻き声のように掠れた弱々しい声で発されたその響きは、少女の柔らかで甘い音とはかけ離れていたが、それでも僕の胸に何かが込み上げてくるような感覚があった。
僕は肺の痛みも頭痛も耳鳴りも気にしないほど大きく咳き込み、もう一度その名前を呟いた。
先ほどよりも確かな響きが、僕の耳に届いた。
僕は立ち上がった。
不思議と恐怖は消えていた。
辺りを見渡すと少し先の方に、微かな白い光が見える。
それは僕をここまで運んでいたあの光と似ていたが、酷く弱々しく、かすんでいる。
痛みのある左足を引きずるようにして、僕はそこへ歩いた。
その上へ立つと、光はかすれながらも森の奥の方へ一直線に伸びて行った。
少しだけ身体が軽くなる感覚が僕を包んだ。
僕は光の導く方へ歩いて行った。
そこから先もまた長い道のりだった。
暗い森はどこまでも続き、足元の見えない中で僕は幾度となく躓き、起き上がり、歩き、転び、また進んだ。
白い光は時々消えそうなほどに弱くなったり、少し力を取り戻したりを繰り返した。
光の強弱と、身体の軽さはどうやら関係しているようだった。
僕はじっとりとした森の気味の悪さを忘れるためにも、白い光を見失わないよう足元をずっと睨みつけていた。
やがて少しずつ白い光の強さが安定するようになった。
見上げると木々の合間から光が差し込んでおり、辺りは先ほどまでよりも明るくなっていた。
先へ進むほど木々の数は減っていき、空から差し込んでくる光は増えていった。
ふと、今がまだ朝であったことを思い出す。
陰鬱とした冷気に包まれていた森の雰囲気は、少しずつ普通の森へと変わっていった。
そして森の終わりが訪れた。
そこは見たこともないような景色が広がっていた。
先ほどの砂浜とよく似た大地の先に、大きくて四角い形をした何かが見える。
近づくにつれ、その四角い何かの不思議な色調がわかった。
赤、青、緑、白、黒、いくつもの色が混ざっている。
そしてそれぞれの色が、動き、いくつもの模様を作るかのように蠢きあっている。
それはまるで雷の夜の空のような光景だった。
色は絡み合いながらも、一つの色になることはなく、混ざり、離れ、ぶつかり、交差し、その四角い空間の中で動いていた。
すぐ近くまで辿り着くと、それがほとんど厚みを持たないことと、地面に垂直にただ浮かんでいることに気づいた。
それはまるでドアのようだった。
僕が左手でそこに触れようとすると、色とりどりの模様が僕の手に集まるように変化する。
その動きはまるで餌を仕留める時の動物の口のようで、僕は恐ろしさで咄嗟に手を引っ込めた。
足元に目をやると、僕を導いていた白い光は、そのドアのようなものを示している。
反対側を見たが、白い光はそこにはない。
光は、その四角い空間の「中」へと続いていた。
僕は覚悟を決め、次は勢いよくその空間に手を伸ばした。
全ての色が、僕の手に喰らい付くように集まる。
僕の左手が壁のような固いものに触れるとともに、どこからともなく声がした。
「お前、人間か」
それは低く篭った男性のような声だった。
僕は答えた。
「はい、人間です」
「ここは人間の来るところではない」
怒りを感じるような冷たい声だった。
同時に、触れていた壁のようなものが強く押し返される感覚があった。
咄嗟に僕は両手で強く押し返す。
まるで地響きのような、重く、鋭い声が辺りに鳴り響いた。
「去れ!」
その声は大地を振動させるように反響し、びりびりとした感覚に僕の身は震えた。
しかし、僕は身がすくみながらも、必死に声を張り上げ答えた。
「ある人に、義務があると言われて来ました!」
その瞬間、壁を押し返す力が弱まるのがわかった。
しばしの間、沈黙が続いた。
その間も、いくつもの色は、互いに押しのけ合うようにして僕の手に集まり、蠢きあっている。
生物のようなその色と睨み合いながら、僕はじっとその場に耐えていた。
「お前、名はなんという」
次に聞こえたその声は先ほどと同じ重たい声だったが、鋭さが少し消えていた。
僕は乾ききった唇を濡らし、鼻から大きく息を吸った。
「僕は」
「僕の名前は・・・シュカ」
何かが開くような金属質な音がした。
手に力を込めると、壁のようなものの感覚はなく、手はすっと空間の先へと入って行った。
足元の白い光がまばゆいほどに強くなる。
僕はもう一度覚悟を決めると、その空間の中へ足を踏み入れた。