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第2章「シュカ」 第4部~夢の中の少女~

僕は意識を取り戻した。

正確には、いつ意識を取り戻したのか、そもそも本当に意識があるのかもわからなかった。

僕は不思議な感覚の中、ただ佇んでいた。


そこはさっきまでの森とは違う場所のようだった。

身体はまるで宙に浮かんでいるかのような、水にぷかぷかと浮いているかのような、何かに包まれているかのような、経験したことのない感覚にさらされていた。

相変わらず、視界は真っ暗で何も見えない。

しかし僕は不思議と、満たされているような穏やかな気分だった。

身体は暖かい光に包まれているような感覚で、それは春の穏やかな日差しを浴びているかのようだった。

僕はその心地よさに、ただ身を委ねていた。


不意に、ひやりとした空気が押し寄せて来るのを感じた。

眩しさからか、瞼を開けることはできない。

耳を澄ませると、何かが擦れるような音と、人の足音のような音が聞こえて来る。

次の瞬間、僕の身体にある感覚が伝った。


僕の胴体は窮屈さを感じ、呼吸が浅くなる。

頬には、柔らかで滑らかな感覚があった。

ふわりとした毛が僕の耳をくすぐる。


やがて僕は理解した。

誰かが僕を、僕を、抱き締めている。

僕は心臓が大きく脈打つのを感じた。


瞬間、僕の耳に声が届いた。


「これまで、大変だったね」


僕の両眼から暖かい何かが零れ落ちる。

それは、鈴の音のような美しい少女の声だった。


僕は少女に身を委ね、ただ目を閉じ、その感覚を味わった。


どれくらい経っただろうか。

それは永遠のように長くも、一瞬のようにも感じられた。

僕は溢れる水滴を拭い、目を開けようとしたが、それより先に少女の小さな手のひらによって視界は閉ざされる。

少女は僕の真後ろから、僕を包み込むように抱き締め、目を塞いでいる。

僕は驚いて、手を少女の腕へと伸ばそうとしたが、やがて止め、再び彼女に身を委ねた。

微笑んだかのような息遣いと共に、少女は僕に語りかけた。


「君は、なんという名前なの」


耳元で囁く少女の声は、一度だけ食べたことのある砂糖菓子の欠片ように甘く、脳が痺れるような感覚を覚えた。

返答に困り、言葉にならない声を発している僕に、少女はもう一度微笑み言った。


「もしかして、名前がないの」


僕は懸命に頷く。

これまでの人生で名前を付けられたことなんて、一度もない。

いや、もしかすると覚えていないだけかもしれないが、僕に自分の名前という概念はなかった。


少女は僕の肩に顔を乗せると、


「それは困ったわ」


と、独り言のように呟く。

真っ暗な視界の中に、彼女の困ったような下がり眉の想像が浮かぶ。

それは猫のように愛らしい額だった。

少女は僕の耳へ口を近づけると、言った。


「この世界ではね、名前を持たないものは生きてゆけないの」


包み込むような声は囁く。


「じゃあ、私が名前を付けてあげましょう」


少女の不思議な提案に、僕はしばらく呆然としていた。


「あら、私が名前を付けるのはお嫌?」


少女の悪戯っぽく拗ねたような声に、僕はハッとして首を横に振る。

少女は吐息のような小さな笑い声を上げると、良かった、と小さく呟いた。

そしてしばらく考えるかのように口を閉ざした。

僕は高鳴る胸を抑えながら、沈黙の中ただ待っていた。


やがて少女は僕の耳に、ある言葉を囁いた。

それは、聞き慣れない短い言葉だった。

しかし不思議と心地がよく、僕の心にしっくりと馴染んでいった。


僕はその言葉を噛み締めるように、小さく口にした。

少女は柔らかく笑うと、僕の顔に頬を寄せ、僕の名前を呼んだ。

僕は、生まれて初めて名前を呼ばれ、それに答えるように頷いた。

少女は、まるで我が子を愛でる母親のように、僕の顔に滑らかな頬を寄せた。

僕は、これまでの人生で最も深く息を吐き、そして吸い込んだ。


少女はもう一度僕の名前を呼ぶと、僕に語りかけた。


「……君にはこれから様々な試練が待っているわ」


その声は、先ほどまでの優しさを持ちつつも、暗く重い声色だった。

少女は慰めるかのように、僕の身体に更に身を寄せた。

僕より少し背丈が高い少女は、もたれかかるように僕を抱き締めている。

しかしその重みは感じられず、少女はまるでふわふわと浮いているかのようで、天使に抱きかかえられて空を揺蕩っているような感覚だった。

少女は語りかける。


「それはとても、とても大変な道かもしれない」


「でも、きっと君ならやり遂げられるわ」


少しだけ掠れた美しい声は、僕の心にすっと入り込んでいく。

気づけば僕は少女の言葉に頷いていた。

少女の安心したかのような笑みが、頬の感覚で僕に伝わってくる。

僕の頬も少女につられるかのように少しだけ綻ぶのがわかった。

僕たちは暖かい光の中、頬を寄せあい、微笑みあっていた。


少女が離れていく気配を感じ取って、僕は咄嗟に少女の手に自分の手を重ねた。

少女は我儘を言う我が子をなだめる母親のように、微笑みながらもう一度僕を抱き締めた。


「大丈夫。君は大丈夫だよ。私はいつだって君を見ているから」


僕は少女の言葉の意味することがわからず、聞き返そうとするも、声がうまく出せない。

もどかしさを感じているうちに、背中に感じていた少女の気配が薄れていくのがわかった。

同時に僕の意識も曖昧になりつつあった。

少女がもう一度僕の名前を呼ぶ。

僕はそれに応えるように必死に頷く。

僕は必死に言葉を発そうとするが、やはり声を出すことはできない。


また、あなたに会えるだろうか。


僕の心の声に応えるかのように、少女は答えた。


「君の旅が終わりし時に、私たちは会えるわ」


君の名前は?


言葉にならなかった僕の問いかけに、彼女が答えることはなかった。


薄れゆく意識の中で、僕は離れていく少女の手を取ろうとした。

しかし、僕の手は空を掴んだ。

頭に、少女の僕の名前を呼ぶ声が、ぐるぐると反響する。


やがて僕は意識を、取り戻した。


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