第3章「白の地」 第6部〜昏き森〜Ⅵ
辺りに響き渡るほどに大きく力強いその声が、自分の口から発されたものであることを、僕はしばらく信じられずにいた。
ただ大人たちの命令に従ってひたすら働き、身体が動かなくなってからは黙したまま苦しみを受け流していた僕にとって、考えるよりも言葉が、それもこんなにも勢いのある声が自分から発されることは想像だにしない事象だった。
ヴィクトリアの瞳が猫のように見開き僕を凝視する。
ケテルも掲げた左手から力を抜き、わずかにこちらに顔を向けた。
フローライトもヘイムダルも驚いてこちらを見つめていた。
それは、初めて全員の意識が僕に向いた瞬間だった。
しかし一番驚愕しているのは僕自身だった。
現在の流れを毅然とした態度で制止したものの、僕に次の考えは一切なかったのだ。
しかし、全員が僕を見て、僕の次の発言を待っている。
あまりの重圧と緊張感、そして自分自身への困惑とで、胃から這い上がるような吐き気が襲ってくる。
一旦すべて吐き出したかったが、僕が作り出した沈黙と注目の最中に吐瀉物を披露するわけにはいかず、全身全霊で唾とともに酸味のある液体を飲み込んだ。
一刻を争う状況で沈黙が続いている。
なんとしてでも次の言葉を繋げないといけない。
焦りと戸惑いと吐き気で心臓が大きく波打ち、反対に脳内が白く霞んでいく。
僕は何がしたいのか?
ケテルを犠牲にする以外に、何の手段があるのか?
そもそもケテルを犠牲にすることを、僕に止める権利があるのか?その理由は?
思考はぐるぐると巡るばかりで、ただただ空回りしている。
やがて限界を感じた僕は、いっそ考えるよりも前に、言うなれば当てずっぽうに発言するという暴挙に出た。
「…えっと…とにかくですね、ケテルさんを犠牲にするのは良くないと思います」
ああ、なんて緊張感も中身もない発言だと思いながらも、僕は必死に表情を崩さず、ヴィクトリアを見つめた。
ヴィクトリアの顔は先ほどの驚きを浮かべたままで、小ぶりな唇は半開きのまま止まっている。
僕はそれがまるで幼い少女のようで意外と愛らしいなと思い、そしてそんなことを考えている場合ではないと急いで思考を戻した。
そう。ケテルを犠牲にするのは良くないことだ。
おそらくそうだ。
いや、そうなのか?
そもそも彼らがどれくらいの仲なのかも知らない。
はたまた彼らは人間ではなく、確か精霊という別の存在だ。
もしかすると、「犠牲にする」と言っても、人間の死とはまた違って、案外すぐに復活したりできるのかもしれない。
「も、もしケテルさんが犠牲になった場合って、復活したりってできるんですか?」
僕の緊張感のない質問に、ヴィクトリアがいつも以上に険しい表情を浮かべる。
無理もない。
「お前は犠牲の意味もわからないのか。
ケテルの技を使った場合、ケテルの魂は一度完全に消滅する。
まあ我々精霊は消滅した後永き時を経て、同じ性質、力を持った存在としていずれもう一度形を為す。
しかしその存在は、魂の色かたちは似て非なる存在であり、同一のものではない。言わば…」
怒気を込めながらも淡々と説明を始めたヴィクトリアを、ヘイムダルが制した。
「すまんヴィクトリア、わかってるだろうが時間がない。」
ヘイムダルが僕の方に身体を向ける。
先ほどの攻撃を食らってしまったのか、左の額から体液が流れており、左目がほとんど開いていない。
「お前が何を聞きたいのかわからないが…
まあ人間のことは詳しくは知らないが、つまりお前たちの世界で言う”死”とほとんど同じだ」
「だとしたら!」
僕はヘイムダルの右目を見つめながら言った。
「ケテルさんを死なせるわけにはいきません。
他に手段があるはずです」
ヘイムダルが真剣な瞳で僕を見つめている。
軽快な笑みが消えた彼の顔には、逞しさと凄まじい威圧感があり僕はさらに心拍数が上がるのを感じた。
彼は一瞬目を閉じ、もう一度僕をじっと見ると尋ねた。
「…お前、何か計画があるのか?」
「僕が囮になります」
「は?」
ヘイムダルとヴィクトリアが同時に声を漏らした。
僕自身も同意だった。
僕は何を言っているのだろう。
しかしもう引っ込みはつかない。
僕は思いつきのまま、言葉を繋いでみることにした。
「えっと、敵の本来の目的は”器”である僕を殺すことですよね?
となると僕が単体で動けば、敵は真っ先に僕を狙うと思うんです。
僕が派手に動いて敵の目線を引きつけているうちに、ヘイムダルさんとヴィクトリアさんで敵の近くまで忍び寄って、一気に攻撃する…みたいな」
自分でも無茶苦茶な計画だと思った。
ヴィクトリアがため息をつきながら言った。
「許可できるはずがない。
そもそも”器”であるお前が壊れてしまえば我々の計画も…」
ヴィクトリアの言葉を聞きながらも、僕の目はフローライトが一瞬、期待に縋るような表情を浮かべたのを捉えた。
僕は思い切って彼女の言葉に被せるように言った。
「さらに僕は見ての通り小柄で、めちゃくちゃすばしっこく動けば、敵は照準を合わせるのがかなり大変だと思うんです」
「お前、魔力を舐めているのか?アーラの攻撃は…」
「いや、もしかしたら…」
ヘイムダルがまたしてもヴィクトリアを制し、アーラのいる上空をまっすぐ見つめた。
「あいつも複数回の攻撃で、魔力が十分な状態ではない。
こいつを破壊するために、確かに時間をかけて狙いを定めるかもしれない…」
「しかし…」
ヴィクトリアが声を上げる。
ヘイムダルは少しの間考えていたが、やがてもう一度、まっすぐ僕を見た。
そしてゆっくりと頷いた。
雷のような衝動が、僕に走った。
そう、今だ。
やるしかない。
僕は地面を強く蹴り、ヴィクトリアの横をすり抜け、アーラのいる方へと疾走した。