第3章「白の地」 第6部〜昏き森〜V
雨風と泥で汚れた鳥の死体のような姿になったケテルは、表情のない瞳で遠くを見つめたまま少しも動かない。
「そんな…」
フローライトが悲痛な声を漏らした。
彼女はケテルの頭部を膝に乗せるようにして身体を支えていて、泥濘んだ森の土やケテルの体液でその衣服は赤褐色に染まっていた。
フローライトがすがるようにヘイムダルを見上げる。
ヘイムダルは一瞬ヴィクトリアに向かって何か言おうとしたが、矢の刺さった彼女の右腕と、自身の左腿の傷に目を向け、しばしの葛藤の末、唇を噛み締めながら黙って俯いた。
フローライトの息を呑む音が聞こえるより前に、僕は彼女の表情を目に入れまいと、一番遠くにいるヴィクトリアを見つめた。
ヴィクトリアの端正な顔は相変わらず凛とした表情を作っているが、よく見ると唇にかすかに力が入っている。
――ケテルを犠牲にする。
それ以外の選択肢を挙げる者はいなかった。
しばしの間、重たい沈黙が辺りを支配した。
矢が無数に刺さったケテルの身体からは、絶え間無く血が流れ続けている。
確実に死に向かっている彼の姿からも目線を逸らそうとした僕は、その導線でフローライトと目が合ってしまった。
強い悲哀の感情と、諦めの混じったその目には、確かな見覚えがあった。
見世物として奴隷同士の戦闘をさせられ、自らの心と相手を殺すことに徹した背の高い鳶色の瞳の少年。
過酷な旅路で幼い妹を亡くし、その亡骸を抱きしめていたが、それを捨て置き先へ進むよう強制され従うしかなかった鷲鼻の少女。
腿から赤黒い液体を流し、はだけた胸部を隠すこともせず、遠くを見つめたまま横たわっている赤髪の少女。
選択肢も人権も何もない世界で、自分の意思を持つことをやめ、やがて考えることも放棄してしまった者たち。
フローライトの青緑色の瞳から目が離せなくなった僕は、かつての記憶の映像が次々と頭に浮かんでくるのをただ感じていた。
何かが弾けるような音がした。
上空へと視線を向けると、赤黒い丸い光がいくつも浮かんでおり、それは収縮するように蠢いている。
その中心で、アーラは両手を交差させ、目を瞑ったまま佇んでいた。
焼却炉から発される熱気と動物の死体から漂う強烈な悪臭を混ぜたような、強烈な圧のような何かが、上空からまるで身体を地面に押しつぶすように押し寄せてきている。
「時間はもうない。
アーラが回復するより前に…」
ヴィクトリアがケテルへと近づき、膝をついた。
「他に方法がない。
…許せケテル」
ケテルは微かに瞼を開き、その薄い唇で空気を細く吸い込んだ。
彼は左手をゆっくりと挙げると、瞳を閉じ、何かを呟いた。
その瞬間、黄金色の光が彼の身体から湧き出るように灯り、赤黒く汚れていた彼の身体が白く浄化されていく。
その様子は、白く差し込む朝日のように美しかった。
しかし同時に、彼の左手、左翼と背中に生えている翼の羽が、透けるように色を失っていく。
掲げられている右手も透けかかっており、彼から出ている光と反対に、彼の身体が力を失っていくのがわかった。
フローライトが、その右手を握ろうと身体を動かしたが、ヴィクトリアがそれを制した。
蛹から出る蝶のように、力を持った光のようなものはケテルから抜け出そうとしている。
彼のすりガラスのような青い瞳も、少しずつ光沢を失い、まるで石のようにより無機質になっていく。
「…ちょっと待ってください!!」
気づくと僕は叫んでいた。