第3章「白の地」 第5部〜ミネルヴァ〜I
木の空洞へ入った途端、物凄い速度で身体が上へと上がっていく感覚に、僕は息を止め奥歯を噛み締めた。
数秒後足が地面に着くとともに、一気に重力が身体にかかり僕は思わず尻餅をつく。
地面に目をやると、それは先ほどの木と良く似た白い木材でできた床だった。
そこは部屋のような場所だった。
「よく来たな」
海のさざなみのように穏やかで深い柔らかな声が聞こえた。
声の方に目をやると、少し離れたところに髪の長い美しい女性が座っていた。
彼女の左肩には梟が留まっておりその羽色と彼女の髪色は同じ色をしている。
端正な曲線を描く身体には光沢のある水色の衣装を纏っていて、その衣装には金色の異国風の装飾がなされている。
彼女の肩にある鳥のような羽は、彼女に生えている羽であるのか、彼女の衣服の装飾なのかはよくわからなかった。
衣服と同じ水色に、鷹の羽のような鮮やかな頭部を彩る装飾が彼女のエキゾチックな美しさを際立てている。
衣装の胴体の部分はざっくりと空いており、引き締まった腹部を惜しげも無く曝け出していた。
露出度の高い服装と細身でありつつも豊満な身体から醸し出される色気を遥かに凌駕するほど、彼女からは品格を感じられた。
柔らかな笑みを浮かべたその顔は、圧倒的な知性と、包容力を感じさせられた。
一目で僕は彼女が“知恵の女神”と呼ばれるミネルヴァであると判った。
ミネルヴァはまっすぐに僕を見つめ、微笑んでいた。
その端正な顔は瑞々しい潤いに満ち若々しく見えたが、深淵な静けさを湛えたその瞳はまるで老婆のように永い年月を生きた者のようだった。
「久方ぶりにお会いでき光栄でございますミネルヴァ様」
傍に目をやるとヴィクトリアとフローライトが跪いている。
慌てて僕も彼女と同じ姿勢をとった。
「ヴィクトリア、フローライトここまでご苦労だったね」
その口調は我が子に話しかける母のように優しく温かみを感じるものだった。
ヴィクトリアたちは「はっ」と頭を下げた。
「私どもはジークフリート様の命で……」
ヴィクトリアの話をミネルヴァは右手を上げ、やんわりと制した。
「存じておる」
ミネルヴァは穏やかな笑みを浮かべると、そのまま右手を空を切るようにかざした。
すると何もなかった空間に鳥の羽のようなものが浮かび上がった。
金色の光を放つその羽は、ふわふわと空を舞いながらヴィクトリアの方へと飛んでいく。
「オクが眠っている場所にはそれが導いてくれる」
ヴィクトリアは羽を両手で受け取ると礼を述べ頭を下げた。
僕はその魔法の美しさとミネルヴァの優雅な立ち振る舞いに目を奪われていた。
ミネルヴァが再び口を開く。
「オクはここからそう遠くない場所で眠っているよ。
そしてその場所は、アーラによって守護されている」
「確かにあの戦い以来アーラを見かけた者はいないと聞いておりました。
まさかオク様を今も護衛していたとは……」
ヴィクトリアが驚いたように言った。
「あの子はこの世界に来た時からずっとオクを守っていたからね。
忠誠心の高い、いい子だよ。
しかし……」
ミネルヴァは少し悲しげな表情を浮かべた。
「オクが闇に傾いてしまってから、あの子も影響を受けてしまっている。
あの子はオクを守りたいがあまり、オクに近づこうとする者全てを排除しようするだろう」
ミネルヴァの表情と口調から、かつて味方であったアーラという存在が、今は敵側の存在になってしまっているということなのだろうかとなんとなく推察した。
「トゥアル・タミナスを封印するためなら仕方ありません。
どんな犠牲を払ってでも、オク様を神へと戻し、再封印を行います」
ヴィクトリアの凜とした返しに、ミネルヴァは微笑んだが、その表情には少し憂いに似た色が浮かんでいた。
「頼もしいね、ヴィクトリア」
「ミネルヴァ、オクのところに一緒に来ねえのか?」
後ろから声がして振り返ると、ヘイムダルが壁にもたれるように立っていた。
「ヘイムダル貴様、態度を改めろ!」
ヴィクトリアが焦ったように声を荒げる。
その様子を見てミネルヴァは面白そうにくすっと笑った。
「ヘイムダル、相変わらず元気そうで嬉しいよ。
悪いけれど私はここでしなくてはならないことが沢山あるんだ。
ヴィクトリアたちを守ってくれるかい?」
ミネルヴァの優しげな言葉に、ヘイムダルは「なら仕方ねえな、わかったぜ」と快活に返事をした。
ヴィクトリアの方を横目で見ると、苛立ちを抑えた顔でヘイムダルを見ている。
僕は視線をそっと離した。
「人の子、シュカよ」
ミネルヴァの声に僕は顔を上げ、彼女の方を見た。
僕は驚いた。
まだ彼女に名前を名乗っていないのに、どうして僕の名前を知っているのだろうか。
僕の思考を読んだかのように彼女は微笑んで言った。
「君たちが来るまで、ケテルが色々と教えてくれたんだよ」
ミネルヴァの視線を辿ると、部屋の片隅の方に白い人影がある。
それはケテルの姿だった。
「うわっそこにいたのかよケテル」
ヘイムダルが驚いて声を上げる。
ケテルはそれには反応せず、相変わらずどこを見ているかわからない瞳でぼうっと座り込んでいる。
その姿は昔想像していた幽霊のようだなと僕は思った。
「久しぶりに沢山おしゃべりできて楽しかったよケテル」
ミネルヴァの言葉に、僕は彼が話をしている姿が想像できずにいた。
「ヴィクトリア」
ミネルヴァが言った。
「シュカと話がしたいんだ。
2人きりにしてくれるかい?」
ヴィクトリアがちらっとこちらを見た。
その表情は少し不満げであるが、彼女はすぐにミネルヴァの方を向くと「承知しました」と頭を下げた。
「ヘイムダル、フローライト、ケテル、行くぞ」
ヴィクトリアが彼らを引き連れて、部屋の左奥の方へ歩いて行く。
そこには入口と同じような白い光を放つ空洞があった。
フローライト、ヘイムダル、のっそりと歩くケテル、そして最後にヴィクトリアがその中へ入って行く。
ヴィクトリアが振り向き言った。
「決して失礼がないように」
僕が頷くより前に、光が更に強くなり4人の姿は白い光の中に消えていった。
僕はミネルヴァと2人きりになった。