第3章「白の地」 第5部〜旅路〜II
やがてヘイムダルとフローライトも起きてきて、彼らは出発の準備を始めた。
ヴィクトリアが言った。
「今日は霧が出ている。遠くはなるが迂回するしかない」
ヘイムダルは「まじかよ」と呟いて、霧の出ている方を見に行った。
「うわ、こりゃ酷いな」
ヘイムダルの驚く声が聞こえてくる。
「ヘイムダル様、結界を解きますのでお離れになってください」
フローライトの声に、ヘイムダルは「おう」とこちらに戻ってきた。
フローライトは全員が霧のある場所から離れていることを確認すると、両手を交差するように空にかざし、何かを払うように素早く左右へと振り切った。
すると僕たちがいた場所を覆っていた結界が、ほどけるように解けていった。
結界は煙のように風に溶けて消えていく。
結界に積もるようにかかっていた霧が落ちてきて、ヘイムダルが先ほどいた場所はもう見えないほど濃い霧に覆われた。
「朝は厄介だな」
ヘイムダルが呟く。
結界がなくなって朝の新鮮な空気が流れてくるがわかった。
胸一杯に空気を吸い込み、僕は清々しさを感じた。
やがてヴィクトリアを先頭に、僕たちは再び歩き出した。
白い大地に朝の光が差し込んで明るく照らされた景色はとても美しく神秘的だった。
僕は近くにいるフローライトに気になっていたことを聞いてみた。
「あの、この世界では霧は危険なものなんですか?」
フローライトがこちらを振り返る。
朝日を受けて彼女の銀色の髪がきらきらと光っているのが眩しい。
フローライトは答えた。
「霧は様々なものを曖昧にしてしまうんです」
フローライトは続けた。
「私たちの世界に住む存在は、魂と魔力で自我を形成していることはお伝えしましたね。
この世界のほとんどの存在は実体を持たず、人間の言葉で言うとエネルギーのようなものが集まって形を成しているようなものなのです。
そのため“個”としての他の存在との境界も、実体を持つものと比べて弱いものとなっているのです」
たしかにこの世界の人は皆、非常に強い透明感がある。
言うなれば煙が集まって形を成しているような、存在に独特なゆらぎがあるように思えた。
「霧の中に入ってしまうと、“個”としての境界が薄れ、自身の存在が曖昧になってしまうのです。
それゆえ霧は私たちにとって危険な存在です」
僕はフローライトが霧の中で、水に溶ける氷のように消えてしまう姿を想像した。
僕はさらに質問を重ねた。
「ヴィクトリアさんが"霧の季節”と言っているのを聞きました。
霧の季節とはなんなのですか?」
「霧の季節は2000年に1度訪れる季節です。
この時期になると、大地のほとんどを霧が覆いつくしてしまうのです。
霧の中で、私たちの魔力は弱まり、加えてあらゆるものの境界線が薄れていきます
私はまだ経験したことがないのですが、この時期になるといわゆる冬眠のように皆さん結界を張って眠りにつくそうです」
話を聞いていたのかヘイムダルが会話に入ってきた。
「聞いた話だとな、昔霧の季節に目が覚めてしまってうろうろしてた奴がいたそうなんだが、だんだん頭がぼうっとしてきたらしい。
そしたらそいつ、なんだか無性に空が飛びたい気分になったんだとさ。
ふと我に返って、そいつは空を飛べないのにおかしいなって思って隣を見たら、そこにドラゴンが眠ってて、そいつはそのドラゴンの意識と混じり合ってたんだってよ。
まだ霧が浅い時期だったからよかったが、もっと深い時期だったらあのままドラゴンと一つになってたかもって話だ」
フローライトが続けた。
「きっとそのお方は魔力のお強い方だったから、他者と溶け合わずに自分を取り戻せたのでしょう。
霧の季節が終わる頃には、自分が誰か思い出せなくなって存在がゆらいでしまったり、他者に吸収されてしまったり、負の感情に飲み込まれて影となってしまったりする方も出てきてしまうそうです」
「そんな恐ろしい季節が……」
「そして次の霧の季節が近いのです……。
霧の季節が来る前に、私たちはトゥアル・タミナスを封印しなくてはなりません」
すべてが曖昧になる時期に、負の感情の塊であるトゥアル・タミナスが解かれてしまったら、多くの存在が我を失い、吸収されてしまうとフローライトは僕に話した。
僕は、僕たちが進む方向だった霧に包まれた右側を見つめた。
霧は全く先が見えないほど大地を覆っている。
「今はまだ霧は朝の時間に一部の場所にしか出ませんが、霧の季節が近づくにつれて増えていくでしょう。
私たちの旅路にあまり影響がないと良いのですが……。
そういえば先にゆかれたケテル様は大丈夫でしょうか」
ヘイムダルが笑いながら答える。
「あいつは常にぼうっとしてるような奴だからな
霧に巻き込まれてもあんまり変化なさそうだよな」
ヴィクトリアがヘイムダルを睨みながら「言葉に気をつけろ」と釘をさす。
フローライトはなんともいえない顔で微笑んでいた。
僕たちは霧を避けるように、白い大地を進んでいった。