第3章「白の地」 第2部〜白の世界〜IV
風を切るような音がして、僕は恐る恐る目を開いた。
いつの間にか僕の前にヴィクトリアとヘイムダルが立っている。
黒い塊は先ほどよりも少し離れた場所へと飛んでおり、2人とも剣を構えてそれと対峙している。
「シュカあれは“影”だ。あれに触れるととんでもないことになる……下がっていろ」
ヘイムダルが目線を“影”から逸らさず僕に言う。
追いついてきたフローライトが僕の前に立ち、手で庇うように僕を後退させた。
僕は“影”と呼ばれるそれが何か聞きたかったが、彼らの緊迫した雰囲気にただ黙って成り行きを見守ることにした。
フローライトの背中越しに見ると、“影”は紫がかった黒のような奇妙な色をしていて、僕が迷い込んだあの暗い森の色とよく似ていた。
しばらくの間、彼らと“影”との睨み合いが続いた。
フローライトは相変わらず僕の前に庇うように立っている。
もしもの時は彼女は身を呈して僕を守るつもりなのだろうか。
静かな白の地の中で、ヴィクトリアとヘイムダルの緊迫した呼吸の音だけが聞こえた。
沈黙を破ったのはヴィクトリアが剣を振るう音だった。
彼女の剣が下ろされると、“影”は真っ二つに割れたように見えた。
「よかった……」
フローライトが安堵の声を上げる。
しかしヴィクトリアが険しい表情で叫んだ。
「違う、こいつは私が斬るより先に分離したんだ!」
ヴィクトリアが言い終えるより先に、2つに分かれた“影”のうち1つが僕とフローライトの方へ向かって来る。
その動きは泥のように粘着質でありながらも斜面を滑り落ちる水のように滑らかで物凄い速さだった。
フローライトの息を飲む音が聞こえる。
瞬時にヘイムダルが向きを変え、“影”に向かって剣を振るう。
しかし“影”はヘイムダルの剣を避けるように機敏な動きで進路を変えると、僕達とヘイムダルの延長線上で止まった。
かくして僕達は2つの“影”に挟まれるような形となった。
2つに分かれた“影”は揺らめきながらもじわじわとこちらに距離を縮めてきている。
ヴィクトリアとヘイムダルはそれぞれ“影”に向かって剣を構え、フローライトは不安げな表情で2人を交互に見つめていた。
僕は固唾を飲んでその様子を見守っていた。
重い沈黙の中、ヴィクトリアがそっと目を瞑った。
恐らく敵である“影”を前にしてどうしたのかと驚いていると、ヴィクトリアが息を吸う細い音が微かに聞こえてきた。
続いて彼女の薄紅色の唇からは聞いたことのない響きの言葉が紡ぎ出されていった。
それと同時に、ヴィクトリアとヘイムダルの剣から放たれていた黄金の光がより眩く強い光へと変わっていく。
やがてヴィクトリアは目を開き、静かな声で言った。
「……行くぞ」
剣が一層光を帯びるとともに、ヴィクトリアとヘイムダルは地を蹴り、“影”へと向かって剣を大きく振り上げる。
フローライトが急いで振り返り早口で僕に言った。
「シュカ、耳を塞いで!」
振り下ろされた2人の剣から目が眩むほどの白い光が放出されるとともに、“影”はまるで破裂したかのようにバラバラになり飛び散った。
それと同時に、辺りに聞いたこともないような不快な音が鳴り響いた。
絶望的な叫び声、つんざくような悲鳴、悲痛な鳴き声、苦悶のにじむ呻き声、憎しみのこもった怒声。
様々な負の感情を帯びた声が混じった聞くに耐えない音が、塞いだ手の隙間から鼓膜を破らんばかりに耳に入ってくる。
僕は激しい眩暈に襲われ、耳を塞いだまま膝を突き、その場に嘔吐した。
僕は吐瀉物に顔が付かぬよう必死に身体をくねらせると、斜め横の地面に倒れ込んだ。
あまりの不快な音と地が反転したかのような眩暈と気持ち悪さに耐えきれず、少しの間、僕は意識を飛ばしていた。