07.前世
無事に部屋まで辿り着いて安堵した途端、アーチーが飛びついてきた。
「ギルダ様っ!本当に良かった…!」
気が抜けていたところだったので支えることができず、バランスを崩してしまう。
すかさず「大丈夫ですか?」とエヴァンの助けが入った。彼にお礼を言って、アーチーに向き直る。
「危ないでしょう?」
「あっ、ごめんなさい……」
喜色に溢れていたかと思えば、すぐにしゅんとしおらしくなった。感情表現が素直で何だか犬のようである。
犬は好きなので頭を撫でてやると、困惑の表情を浮かべた。
「でも、心配してくれてありがとう」
「――!いえ!」
ブンブンと激しく揺れる尻尾が見えるかのようだった。
その後、とりあえず休憩しようという話になり、リビングスペースへと移動した。
ソファーに腰を下ろすと、気が抜けたからか強い疲労感に襲われた。
体中にじわじわ広がる重みが、あの短時間のストレスを物語る。
「……あの、ギルダ様」
手錠を外しながら、アーチーが恐る恐る声をかけてきた。その様子で何となく何を聞きたいのかを察する。
視線だけで続きを促した。
「陛下とお会いして…その……どうでしたか?」
エヴァンが手に持っていたティーカップをソーサーに戻した。
二人にじっと見つめられるが、先ほどのあの場と異なり嫌な感じはしない。
「そうねぇ……。本当にびっくりするくらい美形なのね。もちろん王子殿下もだけれど。あの家系は素晴らしいものをお持ちね」
ごくりとアーチーの喉が鳴る。
「以上」
「……へ?」
「感想は以上よ」
「……それだけ?」
「えぇ、それだけ」
アーチーは目をぱちくりと瞬かせた。一方、エヴァンはその瞳に探るような色をのせる。
未だ呆けたままの彼に代わり、エヴァンが質問を重ねた。
「記憶に変化はありましたか?」
「いいえ、まったく」
「そうですか……」
目を伏せ神妙に考え込む彼は、そのまま黙り込んでしまった。
その間に覚醒したアーチーは、興奮した様子で両手を握りしめた。「恋心は!?」先ほどとはまったく逆の立ち位置である。
ふぅと溜息を吐いた。
「あるわけないじゃない。あれだけ美形でも、一人は無愛想、一人は敵対心満載で来られたら芽生えるものも芽生えないわよ」
そうだ。どう考えたってあんな態度の男たちに恋をするなんて無理だ。
百歩譲って顔面の良さに食いついたとしても、そうなったら最後、シナリオ通りの展開が待っているだけなので不毛としか言えない。
よって私は恋はしていないし、しない。
王子とならワンチャンあるかもと思ってた自分を殴りたい。
あの様子からすると、彼が私に靡く確率なんて無に等しいだろう。
誰が恋に狂った哀れな女を繰り返してやるもんですか。
「そういえば、陛下が思っていたより若くて驚いたわ。エヴァンやジュードとあまり年齢は変わらないんじゃない?」
深く考え込んでいた彼は顔を上げた。
「…えぇ、確か俺より五つか六つ上ですね」
柔和な笑みを浮かべる。
その笑みが何だか引っかかったのだが、まさかこの男、若いからって私が妻子持ちの男に手を出すと思っていたんじゃないだろうな。
「…とすると…三十代かしら?」
「お若いですよねぇ!陛下が十四の歳に先王がご病気で崩御されてしまったので、そのあとすぐに即位されたんです。成人とともにご結婚され、王子殿下も生まれ、今に至ります」
「へぇ…結構苦労してるのね」
キラキラした目で語るアーチーを見ながら、先ほどの謁見を思い浮かべる。
若いうちに権力を握ってしまったから、あんなに横柄な態度だったのだろうか。
アーチーは国王のことをどうやら尊敬――ロリコン云々は置いておいて――しているようで、彼が色々な施策を講じた素晴らしい統治者であることを語り始めた。そのため、歴代の王のなかでも賢王として名高いという。
特に、魔法使いにとって利になる施策が多いようで、彼は感謝しているのだとか。
そんな話を聞くうちに、あの態度は相手が魔女だったからだろうと思うようになった。
「確認させてください」
エヴァンがにこやかな笑顔で挙手をした。
未だに語りモードだったアーチーが動きを止め、どうぞと促した。
「ありがとうございます」
微笑みながらアーチーに向けてお礼を言った後、青の瞳がすっと細められ、私を捉えた。
そこには強い疑惑の念が込められていた。
自然と背筋が伸びて、体が強張った。
――嘘は許さない。
そう言われているようだった。
「ギルダ様は謁見後も記憶は戻らず、この一月と同じ状態である。そうですね?」
こくりと頷く。
「陛下や殿下とお会いになったが、特別な感情は抱かなかった。そうですね?」
再びこくりと頷く。
「……つまり、ギルダ様は謁見前も今も、特段の変化はない。そういうことですか?」
「…そうなるわね」
「………国の奴隷になるとしても?」
「!エヴァン様っ…!!」
「……」
沈黙が降りた。しばらくの間、エヴァンと視線が絡まっていた。
その青の瞳には、何か違う色が混ざっているような気がした。
「……この際はっきりさせましょう。昨日まで処遇が未定だった貴女は、今現在、この国の“奴隷”になったのです。生涯この国の発展のためにその力を使うことを強要されます」
青は悲しげに揺れていた。
「~~エヴァン様っ!それは…!」
アーチーが立ち上がった。今にもエヴァンに掴みかかりそうな勢いだった。
「僕は、僕は……師匠は正しかったと思います!そうでなければ、今頃ギルダ様は……」
悔しそうに拳を握りしめるアーチーを見つめ、エヴァンは突き放した。
「……確かにジュード様の手腕は素晴らしかったです。おかげで彼女の命は助かりました。けれど、それでも奴隷は奴隷です」
アーチーはその言葉にぎゅっと奥歯を噛みしめた。エヴァンはそれを一瞥すると、再び私を真っ直ぐ視界に捉えた。
「ギルダ様、お聞かせ下さい」
とても真摯な瞳だった。
「貴女はこのことについて、どうお考えですか?」
***
私は前世――異世界転生か転移なのかは分からないが、便宜上こう呼ぶことにする――のとある記憶のせいで、現世に対して、強く違和感を感じていることがあった。
それは、【悪】と称されることである。
以前の私は、いわゆる【いい子】だった。
二人姉妹の姉として生まれた私は、妹が好きで、姉として面倒を見るのが当たり前だと思っていた。何より、姉としての責務を果たしていると、母親にとても褒められた。
始めのうちは、それが誇りだった。母親の「ありがとう、自慢の娘だわ」という言葉は自尊心をくすぐり、もっともっと【いい子】であろうと努力するようになっていった。
それは、妹の面倒を見ることだけでなく、家事といった手近なことから、学業・就職に関しても及んだ。私のためというよりは、どうすれば両親が喜んでくれるかということに、自然と重きを置くようになっていった。
そうして褒められる度、私の選択は間違っていなかったんだと達成感に溢れた。
思い返せば、五歳の頃の将来の夢は『幼稚園の先生』だった。
しかし、私に真にその意志はなかった。そのように書けば、先生が喜んでくれるだろうという気持ちで選んだだけだった。
幼いながら、なんて打算的なんだと思う。
けれど、私は単純に誰かに喜んでもらうことが好きだったのだ。それが選択の主軸になっていたからこそ、そんな八方美人と言えるような行動を取っていた。
言い換えれば、前世の私という人間は、物心ついた時には既に、他人のことを意識しながら生きるようになっていたのだった。
そのうち、そんな【いい子】な私とは反対に、妹は長い反抗期に入っていった。好き勝手している彼女を嗜めながらも、そんな彼女とは反対に役に立っている自分に満足していた。
彼女はほとんど両親と会話もせず、自分の好きなように生きているようだった。自分で決め、やりたいことをやって……まさに自由奔放。その言葉通りの生き方である。
次第に、妹は家族の輪から離れていった。母親はそんな彼女と私をよく比較した。
「やっぱり貴女は優しい子ね」
とても満たされる思いだった。
その言葉は私の【いい子】への執着を助長し、より一層それに励むようになった。
ただ、そんな彼女でも両親の大切な娘には変わりないため、いつも心配されていた。
もちろん私も、大切に思う気持ちは同じなので気にかけるようにしていた。
けれどどこかで、自身は彼女とは違い両親の特別なんだという優越感があった。
私が大人になると、より一層頼りにされるようになった。妹と家族の間を取り持ったり、夫婦の仲を取り持ったりと色々だ。
始めは長女だからこれくらいするものかと思っていたが、それが占める割合が増えていくと、段々おかしいと思うようになっていった。仕事のストレスもあって少しずつ負担に感じていたのだが、まだこの頃は「貴女だけが頼りよ」という言葉が私を奮い立たせてくれた。
きっかけは些細なことだった。
姉妹は二人とも、社会人になると一人暮らしを始めていたのだが、年末年始になればそろって帰省した。奔放な妹も、さすがにそのくらいの孝行はするらしい。
珍しく家族全員がそろってのんびり過ごした後、あっという間に帰宅する妹に、両親がお小遣いを渡していたのだ。
本当に些細な、つまらないことだと思う。
あまりにもくだらなすぎて他人には絶対に言えない。言ったら笑われてしまうだろう。
それでも、私にとっては衝撃的だった。
帰省した妹は部屋から一歩も出ず、食事の時間にだけ家族の前に姿を現した。
私は食事の準備も、部屋の掃除も洗濯も、何でもやった。
それにも関わらず、姉妹の貰った金額は同じだった。
姉妹なのだから当たり前なのかもしれない。
しかし、私はその時思ってしまったのだ。
――あぁ、何もしていないあの子とこれだけ頑張った私の価値は同じなのか、と。
数字として見えてしまったのがいけないのかもしれない。
別に私はお金欲しさに労働したわけではなかった。自身にインプットされていた【いい子】の行動を、いつも通り行っただけだ。
そもそも、大人になってお小遣いを貰えるだけいいだろうという反論もあるだろう。
しかし私は、私の百の努力と、彼女のゼロの努力がイコールだという現実をまざまざと見せつけられてしまって、言葉を失ったのだ。
これを機に、私は今まで当たり前にやっていたことに対して、疑問を持つようになった。
それまで私は、自分の人生のなかで、かなりの時間を割いて家族のためになることをしてきた。それが長女として当たり前だと考えていたし、必要だと思っていた。
しかし、妹は好き勝手過ごしていただけだ。
それでも、愛する娘だからという理由で私と同等の価値が与えられている。
心がぐちゃぐちゃになった。
ちょうど長女という立場を負担に思い始めていたこともあって、それからはどんどん崩れ落ちていった。
あんなに誇らしかった親からの厚い信頼がただの重荷に変わり、最終的には鎖になった。
常に【いい子】でいることを強いられているように感じた。
当初は私が、好きで、褒められたり喜ばれたりすることが嬉しくて、そうすることを決めたはずだった。その根底がここまで変わってしまうなど、想像もしていなかった。
疑問は膨らむ一方だった。
なぜ私だけが家族のために努力しないといけないのだろう。
なぜ妹は私にすべて押しつけるのだろう。
自分の時間は自分だけのものな彼女と、自分の時間を割いて家族のためを想う私。それでも、貰える愛情――評価――は同じだけ。
私はこれだけ尽くしているのに、何もしていない妹と同じように扱われることに不満を覚えるようになっていった。
そこで、私も妹と同じように、家族を省みず好き勝手生きてみようと思った。
けれど、いざやろうとしても、生まれてからずっと染みついてきた【いい子】は簡単に引っ込んではくれなかった。
――ここで家族を捨てたら、後で後悔するかもしれない。
そう思うと私にはできなかった。
今我慢すれば。
今我慢すれば。
そう何度も自分を騙して、私は【いい子】のままでいた。
「貴女だけが頼りよ」
誇らしかったはずのその言葉が、どれだけ私を縛りつけたことか。
そうして私は【いい子】という立場に雁字搦めになってしまった。
あんなに頼りにされて嬉しかったのが嘘のように、少しずつ心は黒く染まっていった。
聖書の有名な『放蕩息子』の話を知っているだろうか。まさしくその兄弟の構図が私たちに当てはまった。
その話を知ったのはちょうどこの頃だったので、まるで神からの忠告のようで笑ってしまった。皮肉にも、キョウダイというものは昔から何も変わらないらしい。
もちろん、妹にも色々と思うところや苦労があったと思う。
こんなのただの妬みでしかないことや、自身の選択の結末――自業自得だということも分かっている。恨むべきではないということも、責任転嫁だということも十分に分かっている。
それでも、気づくと私は【いい子】でいることにほとほと疲れてしまっていた。
――しかし。
そんな私が、この世界ではうってかわって【悪】と言われている。あれほど【いい子】として頑張ってきたにも関わらず――。
初めて魔女ギルダの話を聞いた時は、漠然と【悪】というものに惹かれただけだった。
前世の私と違い、恋という自分の心にだけ従っている彼女。手に入らなければすべて壊してしまおうというその単純な姿勢。
羨ましかった。
他者のことを一切顧みないところは、人の顔色ばかり窺ってきた私とはまったく違う。そんな決断、絶対できなかった。
ふと、もしかすると前世の反動でギルダ――私は、そんな性格になったのかもしれないと思った。それなら、そういうのもいいかもしれないとさえ思っていた。
――謁見までは。
そう。謁見まではぼんやりと、悪役をやるのも楽しいかもな、とそんな程度だった。
しかし、私の認識は甘かったのだ。
謁見を通して、いかに魔女ギルダという存在が忌み嫌われているかを身に染みて感じた。
ジュードたちは普通に接してくれていたのでよく分かっていなかった。だからこそ、アーチーから異世界の少女が来たと聞いたときも実感が持てず、他人事に思っていた。
けれども、実際にあの謁見で、魔女という存在に対する人々の価値観と対面して、私は自身の愚かさを後悔した。
殺せだなんて言われたのは初めてだった。殺気を向けられたことも初めてだった。
馬鹿馬鹿しいと思った。
あんなに一生懸命【いい子】として努力してきたのに、今度は【悪】として糾弾されるなんて。あの努力は無駄だったのだろうか?
迷いはあったが、それでも私はずっと【いい子】を貫いていた。真面目にやってきた。
そんな私を【悪】と呼ぶのか。
神は何とも無慈悲だと思った。
私の全てを否定された気がした。
この世界で目覚めたあの日より、私は自身が“魔女ギルダ”であることを受け入れていた。
それは不思議とそれが正しいことだと思っていたからだが、同時に、前世の【いい子】としての記憶もあるため、違和感を感じていた。
そのため、悪役もいいかもなんて思いつつも、実のところ、心の奥底では今後は【悪】にはならないだろうと思っていたのだ。
だって私には、そんな勇気はないから。
きっとこの先も、この場所でのんびり過ごして生涯を終えるのだろう――。
そう暢気に人生計画を立てていたのだ。
愚かなことに、私は自身が“ギルダ”であることを受け入れつつも、未だ別人だという感覚も残っていたため、どうにかなるだろうと楽観視していたのだ。
でも、そんなことは国民は知らない。
彼らに私が以前と違うことを説いてもきっと受け入れてはくれないだろう。それほどの殺意を持って、彼らは魔女を糾弾していた。
【悪】は【悪】なのだ。
不安要素は排除すべき、ただそれだけなのだ。
二度の背徳行為は、もうこの先信頼関係を築くことは不可能だろう。
私の言葉は、きっと届くことはない。
プツン、と何かが切れる音がした。
ぼんやりと思っていたそれが、確固たる意志となったのだった。
あぁ、それなら――。
それなら、【悪】になってやろう、と。
私は気づいたのだ。
あの努力は決して報われることはない。それならいっそ【悪役】になってしまおうと。
今度こそ殺されてしまう可能性もある。しかし、私は別にそれはそれで構わなかった。
【悪】たる私には生きる理由も、死を後悔する理由も、特に何もないのだから。
今までであれば、恋の成就という生きる目標があったのかもしれない。
だが、私に恋心はない。あるのは虚無感、ただそれだけだ。生に対する執着心などあるわけがなかった。
体を張ってくれたジュードには悪いが、国民は発展よりも、魔女のいない安全な国を選ぶだろう。シナリオ通りが一番だ。
私のような存在は、いない方がいい。
【悪】は、成敗される存在だ。
ただ、私もそう簡単にお陀仏になるつもりはなかった。
ヒーローとヒロインにさくっと殺られるのは、正直言って癪である。彼らのステージのための単なる踏み台は受け入れられない。
これは意地であり、最後の望みだった。
せっかく憧れの魔女、それも美女に生まれ変わったわけだから楽しみたかった。
だからそれらを謳歌して、軽く国を引っかき回してから華々しく散ろうと思った。
散ってやると言っているのだから、最後にそれくらいの我儘は許容してもらわないと。
あぁ、神よ。これで満足かしら。
お望み通り――【悪い魔女】になってあげるわ。