表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一人負け  作者: 双葉
3/3

一人負け。3

図書室の妖精3



 翌日、俺と相模原、そしてリルは学校前で顔を合わせるようになった。図書室は喋ることができないからと、どこか別の場所で遊ぶことにしたのだ。この街に来たばかりのリルに街を紹介するという目的もあった。


「取り敢えずどこに行こうか」


 眠たそうに欠伸をしながら、相模原は言った。


「リル。お前は行きたいところあるか?」

「えっと……」


 リルが小首を傾げると、髪がサラサラと揺れる。黄金色の髪はキラキラと宝石を散りばめたかのように眩く輝いているのに、不思議と暑苦しく感じない。白い肌か、もしくは碧眼のおかげか。どことなく清涼な雰囲気が、そよ風のような居心地の良さを与えてくれる。


「ご飯、食べるところに行きたいです」


 暫くして、リルはそれだけ答える。時間は朝の十時。朝食には遅く、昼食には少し早い。


「お腹空いたのか?」


 リルは首を横に振った。見たいものがあるのだ、と言う。


「駄目ですか?」


 純粋無垢な瞳を潤わせ、リルは俺を見上げる。透き通った瞳に吸い込まれそうな気持ちになって、俺は目を逸らした。


「だめ、じゃない」


 やっとのことで言えたのはその一言だった。緊張すると無愛想な態度になってしまう。俺の悪い癖だ。だが、リルは俺のそんな態度など気にしていないのか、嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


 そっと手を握られる。触れた指の先から、じんわりと熱が広がっていく。


「ようか。手、熱い。熱ですか?」

「……夏だからな」


 緊張のあまり、手が汗ばんでいくのを感じる。これ以上触られていたら、体が溶けて、なくなってしまいそうだ。


 やんわりと手を振り解こうとすると、逆に強く握り返される。それどころか指を絡め取られ。リルは俺の隣に並び立った。甘い香りがする。柑橘系の、香水の匂いだ。


「熱い」

「僕も」

「はなれろよ」

「やです」


 リルは悪戯っぽく笑った。初めて会った時俺に見せた顔……俺をからかっているのか?


「二人とも、俺がいることも忘れんなよ」


 相模原が突然割り込んでくる。


「見てるこっちが熱くなりそうだっつーの。ほらほら、二人とも、さっさと離れる」


 俺が振り解くことのできなかった手も、相模原はあっさりと離してしまった。


「リル。気をつけろよ。こいつ、ムッツリだから」

「ムッツリ?」

「イエス。こんな朴念仁な顔してるけど、腹の中では陸でもないこと考えてるんだ」

「おい」


 朴念仁とか伝わんないだろ。というか、何てことを言いやがる。


「お前みたいな奴はあっという間に食べられちまう。けだものなんだよ。男ってのは」


 それ、お前にも当てはまるじゃねぇかよ。


 相模原はニマニマと笑いながらリルの手に頭を乗せる。リルは少しムスッとした表情で手を振り払った。


「僕、食べ物じゃないです」


 多分、「食べられる」のところだけ聞こえたのだろう。ちょっと的はずれな返答をしているのが可愛いと思った。相模原も毒気も抜かれたような顔をして、肩をすくめている。しかし、すぐに気を取り直して笑った。


「可愛い奴だな。お前」


 ぽんぽんと何度も頭を撫でる。その度に「だから、撫でないで」とリルは怒っていた。




 そんな、少しぐだぐだな始まりではあったが、俺達の遊びはスタートした。





 場所は変わって、学校から少し離れたところにあるショッピングモールに俺達はいた。いつも相模原と飯を食っているところだ。ここにはフードコートだけでなく、レストラン街もある。一階丸々、レストランが集まっているところだ。


 もっと気の利いたところにリルを連れていきたかったのだが、生憎この街にそんな良いところはない。田舎ではないが都会ではない中途半端な街中にあるものと言えば、巨大なショッピングモールくらいのものなのだ。


 交友関係が幅広い相模原ならばどこか良い場所を知っているんじゃないかと思い聞いてみたが、あいつの反応は微妙だった。「知ってはいるが」と腕を組んで神妙な顔をすると、俺に耳打ちする。


「考えてみろ。こいつは金持ちなんだぞ。下手に洒落た店に連れていったところで良い反応が貰えるとは思えない。それに、お前だってそんなに金を持ってるわけじゃないんだろ」

「じゃあどうするんだよ」

「こういう奴にはな、敢えて庶民の味を教えてやるのが良いんだ」


 というわけで、レストラン街。


 開店して少し経ったくらいなので人はあまり多くない。道の両端にズラリと並ぶ店をキョロキョロと見回し、リルは目を輝かせた。どこかに一目散に駆け寄ろうとしたので注意すると、素直にゆっくりと歩き出す。それでも、待ち切れないというように顔を好調させていた。


「本物……」


 リルは店前のガラスに顔を近づけ、まじまじと中を見つめる。


 食品サンプル。我らが日本の誇りである。


「外国人が食品サンプルで喜ぶって本当だったのか」

「噂では、作成キットとか、専門の雑貨店とかあるらしいぜ」

「マジか」


 確かに精巧な作りをしているとは思うが、見慣れている俺達にしてみれば、そこまでして手に入れたいとは思わない。


「まさかお前、そこまで分かってたのか?」


 リルが食品サンプルを見たかったのだと理解して、ここに連れてきたのだろうか。


「まあな」


 相模原は笑うでもなく自慢するでもなく、サラッと答えた。こういうところが凄いと思う。俺には絶対にできないことだ。


 リルは夢中になって店中を見て回っている。笑みを浮かべ、生き生きとした表情だ。無表情で本を読んでいる時よりも、はしゃいでいる時の笑顔の方がリルには合っている。“綺麗”よりも、“可愛い”が当てはまる奴でいてほしい。そう思うのは俺のわがままなのだろうか。


「おーい、リル。折角だから、もう何か食べていくか?」


 ガラスに齧り付きそうな勢いのリルに、相模原は言った。「あんま店に迷惑はかけるなよ」と、リルの手を引いて連れてくる。「まだ見てたい」と不満を露わにするリルの額を、相模原は軽く小突いた。


「また見にきたら良いだろ。一人で来るのが不安なら、俺が連れてってやるからさ」

「痛い……」

「痛くない痛くない」


 リルの前髪を掻き分け、少し赤くなった額を見る。素直に体を委ねるリル。二人の姿は友達と言うよりは、仲良しの兄弟のようだった。


 不意に、相模原が目線だけで俺の方を見てくる。ニヤリと笑った……ような、気がした。気のせいかもしれない。瞬きをしている間に、相模原はもう、リルの手を引いて歩き出していた。




*****




「もしあいつが女の子だったら、俺のものにできるよな」


 白い歯を見せ、相模原は言った。笑っているようにも見えるし、周囲を威嚇する犬のようにも見える。そんな表情だった。


 あの時の俺は、相模原のその言葉と表情に圧倒され、何も言うことができなかった。体が固まって、喉がギュッと絞まる。その癖、頭の中は忙しなく動いている。


 リルが女だったら俺のものにできる。それはつまり。リルのことを欲しがっている。どういう意味で。何のために。


 女だったら、なんて言葉を付け足したのは、相模原がリルのことを“そういう”目で見ているからとしか思えなかった。


 恋。それは大抵の人間が持っている感情で、普遍的なもの。


 だけど、相模原はリルに会ったばかりだ。会話を交わして数時間と経っていないのに、リルの何を気に入ったというのだろう……いや。それは俺自身がついさっき思ったことじゃないだろうか。リルには愛嬌があり、あの綺麗な容姿がある。誰からも好かれるのはおかしい話ではない。そう、俺は思ったんだ。


 最初は相模原の勘違いなんじゃないかと思った。だけど、女にモテる相模原が感情を取り違えることがあるとは思えなかった。


 俺は、相模原を注視する。金縛りみたいに体が動かなくなり、混乱の果てには脳すらも思考を停止する。呆気に取られ、唖然とし、俺の目は相模原だけを映す。


 相模原も俺をじっと見ていた。何を言うわけでもなく、俺の反応を待っているかのように、ひたすらに静を貫いていた。


 二人して黙り込んで、どれだけの時間が経っただろう。ややあって、相模原の喉がゆっくりと下がる。


「……なんて」


 咥えていたストローを外し、相模原は言った。


「冗談だよ。冗談」


 俺の肩を何度も叩き、いやらしい笑みを浮かべる。


「何、本気になっちゃってんだよ。俺達まだ出会ったばかりなんだぜ。そんなにすぐに人を好きになるわけないだろうが」

「……そう、か」

「そうそう。一目惚れなんて、フィクションだけの現象なんだよ。ありえない、ありえない」


 体から力が抜けていく。俺は喉の奥で滞留していた息を放り出した。黙っていたのは短い時間だったのに、酷く虚脱感を覚える。


「だから、そんな顔すんなよ」


 相模原は困ったように笑う。俺がどんな顔をしていたのか、相模原は教えてはくれなかった。




*****



 三人で食事を摂った後、モール内を適当に散策した。夏休みで、しかも昼時にもなれば人は俄然増え出す。袋一杯に食材を買い込んでいる主婦に、学校帰りにアイスを買いに来た女子高生。行くあてもなく彷徨っている不良っぽい子供達。仲睦まじく手を繋いでいるカップル、家族、老夫婦。奥さんが買い物に行っている間、つまらなそうにスマホを弄っている旦那らしき人。様々な人間が混じり合うこの空間が、時折、見計ったかのように静まり返る時がある。


 その時は大抵、みんながリルを見ている。皆が皆、惚けたように口を開け、呆然とし、顔を赤くさせているのだ。少し、いや、かなり異様な光景だ。


「……何か、凄く視線が痛いんだが」

「流石の俺もこんなに視線を感じるのは初めてだな」

「さりげなくモテ自慢しやがって」

「何だよ。事実を言ってるだけだろ?」


 真実は時折、人を傷つけることがあるのだと、是非ともこいつには知ってもらいたい。


 リルが突然、俺の腕を握り締めてきた。先ほどまでキラキラと輝いていた瞳が、不安そうに揺れている。


「人、たくさんいますね」

「あんま人混みは好きじゃないのか?」


 リルはこくりと頷いた。遠慮のない視線に曝され、どこか怖がっている様子だった。


「リル……」


 何か言葉を掛けてやれたら良かったのだが、俺は何と言って良いのか分からなかった。狼狽えることしかできない俺の隣で、相模原は腕を組んでいる。


「外、出る?」


 そう呟いた相模原に、リルは首を振った。


「せっかく連れてきてくれたんです。僕、もう少しここにいたい」

「だが……」

「一緒にいたい」


 リルが俺の腕を強く抱き締める。手が、震えていた。


「まだ、帰りたくない……」


 相模原がリルの頭を撫でた。リルは振り払おうとしなかった。


「分かった。じゃあ少し場所を変えるか」


 モール内は空調が効いていてかなり寒い。相模原は羽織っていた上着をリルの頭に被せてやり、肩を抱いた。


「下向いてな」


 リルがこくりと頷いたのを見て、相模原はゆっくりと歩き出す。離れていったリルの体温が、俺の体に余韻を残していった。まだリルがそばにいるような気がした。だが、二人は既に歩き出している。俺も慌てて後を追った。


 エレベーターで最上階を目指す。屋上には庭園があり、庭園内には休憩スペースも設けられている。屋上ということもあって人は少ない。花壇に植えられた背の高い植物が、誰かに見られる時を待ち望み、綺麗に整えられている。


 屋上の扉を開けると、涼しい風が屋上に勢い良く流れていった。体が生温いものに包まれ、一時感じた心地良さは、暑さになれていくと同時に不快感に変わっていく。


 リルの体を支えながら歩いていた相模原は、リルを二人掛けの椅子に座らせた。電子音が鳴り響いた。リルの隣に腰掛けようとしていた相模原は、ひとつ舌打ちをして、鞄からスマホを取り出した。画面を見つめ、眉間のシワを深くさせる。


「悪い。ちょっと」


 相模原がスマホを片手に立ち去っていく。その場に、俺とリルが取り残された。リルは相模原の上着を羽織ったまま俯いていた。どんな顔をしているのか、俺からは見えない。


 風に揺れ、枝がしなり、葉が音を立てる。川のせせらぎにも似たその音に、体温が少し下がっていく感覚があった。頭も落ち着き始めていた。


 不甲斐なかった。気分の悪そうなリルに何もできなかったことが悔しくて、その癖未だに何もできずにいる。声を掛けることもできず、ただ立ち止まっている。


 それは、本来の俺だった。元々俺は人見知りで緊張しがちで、誰に接するにも無愛想になってしまう。そんな酷い人間が俺なんだ。だけど、リルに「俺が一緒にいてやる」と言った時、そんな自分に終止符を打てた気がした。リルのためになら何かしてやれると。リルとの出会いをきっかけに、俺も変わっていけるんじゃないかと。思っていた。


 淡い希望は見事に打ち砕かれてしまった。俺はリルのために何もしてやれていない。相模原がいなければ、今、俺はどうしていたのだろう。


「……ようか」


 リルがぽつりと呟いた。


「どうした」

「……隣」

「……」

「隣、座ってください」


 リルは顔を上げる。縋るような目で見つめられ、俺は恐る恐る、リルからなるべく離れて座った。リルは軽く鼻を鳴らし、俺の腕に手を伸ばした。


「だめ。もっと近くに来て」


 言いながら、リルの方から俺の元へとやってくる。腕に手を絡ませ、膝を合わせ、安心したように息を吐いた後俺の肩に頭を置いた。長い瞼が、瞬きの度にふわふわと切なく揺れている。


「今日。一緒に遊ぶの、楽しみにしてたんです」


 風に蕩ける声。リルの体が砂粒となって、喋るごとにさらさらとどこかへ飛んでいき、実態をなくしているような、白昼夢を見た。


「どこに行こうって考えて。何を着て行こうって、服を沢山見て。でも恥ずかしかったので、結局いつもの服を着ることに決めて。そうしていたら、朝が来て」


 恥ずかしそうに顔を赤く染め「疲れてしまったのかもしれない」とリルは言った。


「誰かと遊びに行くのも初めてだったんです。一人で外に出るのも、こんなに沢山人がいるところに来るのも初めてだったんです。だから、誰かに見られてるって気がついた時、頭の中が混乱して」

「もう良い」


 それ以上は、何も聞きたくなかった。


「もう良いよ。そんなこと言わなくて。悪いのは俺だ」

「ようか?」

「……ごめんな。お前のために何もできなくて」


 次に遊びに行くならもっと静かな場所にしよう。もっとも、次があるかなんて分からないが。


 俺の心を見透かしたように、リルが吐息混じりに微笑んだ。


「良いんです。一緒にいてくれるだけで」


 肩に頭を押し付けてくる。


「一緒にいてください。明日も、明後日も、これからも。ずっと。それだけで僕は嬉しいです。だから、待ってます。明日もあの場所で」


 リルは瞳を閉じた。喋るにつれ、語尾が段々と柔らかく溶けていく。穏やかな寝息が聞こえてきた。終ぞ、リルを突き放すことはできなかった。


「……どうして」


 どうしてリルは、俺と仲良くしようとするのだろう。出会った時からそうだった。俺をジッと見つめ、決して目を逸らそうとしなかった。再び顔を合わせた時も「待っていた」と言った。青い瞳の先には途方もない何かが広がっているような気がして、俺はその正体を知るのが怖かった。今も、青い瞳に見つめられると体が情けなくも固まってしまう。


 多分俺は、リルを壊してしまうのが怖いんだ。美しくも繊細な瞳。視線だけで罅の入ってしまいそうな脆く儚い存在を、壊してしまわないかと気が気でなかった。だから、こいつに触れるのが、こいつを見るのが怖かった。だけど俺はきっと、リルの方から歩み寄られてしまうと、手を振り解くことができない。例えば今みたいに。


「どうして、こんな気持ちになるんだろうな」


 これは恋なんだろうか。だとしたら、ずっとこの時が続けば良いと思った。相模原もいない。誰も見ていない。リルと二人きりの世界が続いてくれれば。思いながら俺も目を閉じる。


 もう少しで新学期が始まる。俺は、その時が来るのが怖い。




*****




 相模原は程なくして戻ってきた。肩を揺らされ、夢現だった俺の意識が現実に戻ってくる。


「……ああ、お前か。おかえり」

「ただいま」

「誰からだったんだ」

「親と姉貴から。いいかげん家に戻って来いってさ」

「戻るのか」

「まだいてほしいなら、いるけど」

「帰れ」


 相模原は曖昧に笑うと、腕を空高く突き上げた。奇妙な声を上げながら体中の骨を鳴らす。


「お前と兄弟だったらよかったのになぁ」

「何だそれ」

「お前ん家、すっげー居心地良いんだよ。お父さんもお母さんも良い人だし、料理も美味しいし……いや、ちょっと待て。お前と俺が兄弟ってことは、お前が兄になるのか。うわ、気持ち悪」

「勝手に想像しておいて、勝手に気持ち悪くなるなよ」


 酷い奴。


「それから、しばらくは家の用事があるから遊べないんだ。悪いな」

「そうかよ」

「……もっと寂しがれよな。つまんねー奴」

「寂しがったところで、お前と遊べないのは事実なんだから、やる意味ないだろ」

「何てドライな奴なんだ。この薄情者」

「お前に言われたくはないな」

「何それ」

「そのままの意味だ」


 言い争っているうちにリルが目を覚ました。パチパチと瞬きをしながら俺達を見つめ、ニコリと微笑む。


「次、どこ行くの?」


 マイペースだ。恐ろしいくらいマイペース。俺達が言い争っているのを見ていながらも、のんびりとした態度を崩そうとしない。結構凄い奴なのかもしれない。


「もう体は大丈夫なのか?」

「うん。ようかが一緒にいてくれたから」

「へぇ……」


 相模原が胡乱な目を俺に向けてくる。


「言っとくけど、何もしてないからな」

「どうだか。お前はムッツリだからな」

「だから勝手なこと言うなって」

「リル。こっちにおいで。こいつの隣にいたら危ないぞ」


 リルの腕を引っ張り、自分の元へと引き寄せた相模原は、腹が立つほどに良い笑みを浮かべた。リルからは見えない角度だ。


 やっぱりこいつ、リルのことが好きなのか。胸が痛むような思いがしたが、同時に、別の感情も俺の中で浮かび上がっていた。




*****



 翌日。俺は図書館にいた。つくづく暇な奴だと思う。勉強が片付いたとしても、遊ぶ相手が相模原かリルしかいないのだから。


 空調の涼しい風を全身に浴びながら、室内を闊歩する。


「また来たのね」


 先輩はニコニコと穏やかな笑みを浮かべた。


「また来たんですね」


 ノートから目を離さず、女子生徒が言った。俺は各々に返事をしながら、一番奥の本棚へと向かった。


「リル」


 小声で呼びかけると、これまた小声で「ようか」と返事が返ってくる。暗がりの中にいるリルは無表情で、無機質で、血の通っていない人形のような美しさだった。


「来てくれたんですね」


 リルは国語辞典を閉じながら立ち上がる。黄金色の髪が、キラキラと揺れる。


「リル」

「はい」

「今日は、一緒に来てほしいところがあるんだ」

「どこですか」

「とっておきの場所」

「とっておき……」

「きっとお前も気に入ると思う。だから、一緒に来てくれないか」


 リルは“とっておき”の意味を知らないようだった。何度も噛み締めるように呟き、辞書を開いて意味を確認し、再び頷く。


「行きます」

「そうか。ありがとうな」


 リルの頭に手を伸ばし、そっと、一度だけ撫でてみる。リルはくすぐったそうに肩を竦め、笑った。




 俺が連れていきたかったのは駄菓子屋だった。相模原と一緒に行った店だ。住宅街にぽつりと建っている木製の、昔ながらの家。最近は古い家が取り壊され、新築の住宅ばかりが並んでいた。それでもあの店は不思議と街に馴染んでいたような気がする。


 リルならば気に入ってくれると思った。様々な菓子が所狭しと並んだ光景を見せてやりたかった。


 しかし。


 店は閉まっていた。ガラスの扉に紙が貼ってある。白い紙には、パソコンで印刷された文字で「今までありがとうございました」と、ただそれだけ書いてあった。


 閉まったのか。ぼんやりと、頭の片隅で思った。何があったのかは知らない。あまりにも突拍子ない別れ方なので、理解が追いつかなかった。


 相模原は知っていたのだろうか。だから、あんなに大量のお菓子を貰ったのだろうか。数日前のことだ。あの時はまだ開いていた。今はもう開いていない。


 呆然時店の前に佇んでいると、リルが首を傾げた。


「何が、書いてあったんですか」

「店、閉まったんだと……悪いな。連れていってやれなくて」


 リルは静かに首を振った。


「どうして、ここに連れてきてくれたんですか?」

「人が少ないから。それに……俺の好きな場所だったから」


 はっきり言って、子供の頃には陸な思い出がない。というか、語るような思い出がない。だけど俺の薄っぺらな人生の中で、駄菓子屋での何てことのない平穏な出来事は、俺の大切な思い出になっていた。


「どこか行きたいとこあるか?」

「うん」

「どこ?」


 リルは悪戯っぽく笑う。


「どこへでも。ようかが連れていってくれるなら、どこへでも付いていきます」


 クスクスと笑う。からかっているのだと、すぐに分かった。俺は「本当にどこでも良いんだな」と、駄菓子屋に背を向けた。行くあてなどない。どこでも良いか。その辺の砂利道に行っても、こいつは楽しんでくれそうな気がする。



 アスファルトの焼ける匂いが辺りに漂っている。地面から沸き立つ湯気が空気を揺らし、陽炎を見せる。額から落ちた汗が顎を伝い、地面に落ちた。リルは俺の隣で、長袖のタートルネックを着ながらも涼しげな表情だった。


 リル・モーガン。不思議な奴。この世の者とは思えないほど綺麗な顔をしている。無邪気な性格かと思えば、時々俺をからかってくる。人見知りの癖に、人懐っこい面もある。そして、リルが男なのか女なのか、俺は未だに分かっていない。


 それでも良いのだと思っていた。リルが男だろうと女だろうと俺には関係のない話で、どうでも良いことなのだ。一週間前までは本気でそう思っていたのに、今はリルの性別を知るのが怖い。新学期がやってきて、こいつが制服を着てくるのが怖い。


 俺は多分リルのことが好きなのだ。女として。男が女を好きになるのは、俺の人生では当たり前のことだった。そしてこれからも、きっと俺は女性を好きでいる。男を好きになることはない。


 男でも女でも関係ない。俺はお前の人間性に惚れたんだ。そんな綺麗事を吐ければ俺だって楽だった。だけど、できないのだ。昨日の夜からずっと、夢に出るほど考えていた。こいつが実は男だったらどうするか、と。結果は散々だった。リルが悪いわけではない。だが、どうしようもなかった。最後には考えることも嫌になってしまった。


「ようかは、ここで生まれたんですね」

「ああ」

「ようかから、この街の匂いがします。この街が、ようかの匂いをしているのかもしれません」


 とても安心する匂いです。と、リルは笑う。俺に笑いかけないでほしい。思いつつも、リルから差し出された手を、俺はやっぱり振り払えない。


「ようかが羨ましいです」

「羨ましい?」

「僕、故郷ふるさとがありませんから」


 リルは顔を上げ、青々とした空を眺める。


「お父さんもお母さんも、世界中を旅する芸術家でした。僕は小さな頃から、二人と一緒に旅をしました」


 リルの青い瞳が、ゆらゆらと涙打つ。


「ある日、お父さんはいなくなりました。お母さんが言いました。お父さんは、遠い遠い、海の向こうに行ったのだと。小さな頃は頑張って探しました。人生のほとんどを船の上で過ごしてきました。だから、僕のふるさとは、どこにもありません」


 ぎゅっと強く手を握り締められる。燃えるような体温が俺の体を焦がしていく。


「初めて見た時、びっくりしました。ようかは、お父さんに凄く似ていた。だから、話しかけてしまいました……お父さんが生きているはずもないのに」

 

 ずっと空を見つめていた視線が下がり、俺を見つめた。海色の瞳が俺を射抜く。


 この世に最果てがあるとしたら、その答えはきっとリル(こいつ)の中にある。果てしなく広がる海にも限りがあるように。リルが、父の死を理解したように。俺の秘かな感情の結末は、出会った瞬間から既に、白眉たる美しい面差しに刻まれていたのだ。


 リルは決して俺のことを好きになってはくれない。それは仕方ないことなのだと思う。俺がこいつを男として見れないように、リルもまた、俺をそういう目で見ることができないのだ。だけど俺は、この結末に少し安心してもいた。


「リル」


 リルが瞬きをする。俺は、震えそうになる息を堪え、ゆっくりと深呼吸した。


「……故郷がないなら、作れば良いんだ」


 どの道、上手くはいかない恋だった。俺にはどうしてもリルを汚すことができない。自分から触れられない。だからこれは、友人としての、もしくは父親としてのアドバイス。


「お前が生きたい場所が、お前の故郷になる。お前が思うように生きれば良いんだ。やりたいようにやれば良い。誰だって、お前を責めたりなんかしない」


 ようか、と。リルの小さな唇が震えた。俺の名前を呼んでくれた。それだけで体中が燃えるような幸福に包まれた。同時に、締め付けられるような痛みも覚えた。


「俺もお前を責めたりはしない。俺はずっとお前の味方だ。だから、安心しろ」


 リルが俺から手を離した。すぐに、握手は抱擁へと変わった。小さな熱の塊が俺の心を掻き乱し、焦がす。だけど、どんなに苦しくても自分からは離れられない。俺は卑怯な人間だから。


「ありがとう。ようか」

「……俺は何もしてないよ」

「いてくれるだけで良い。あなたが僕の隣にいてくれたら、僕はきっとなんだってできる」

「大袈裟な奴」


 視界が暑さでぐらぐらと揺れている。陽炎の片隅に俺は幻を見た。リルが、俺ではない誰かの隣で、幸せそうに笑っていた。


 幸せな幻は、見えなくなった後も俺の脳裏にこびりついて離れなかった。



*****





 現在俺達がいるのは、ショッピングモール内にあるフードコートである。


 カツカレー、福神漬け、水。三種の神器。俺はカレーを食べる。フードコートに来れば、必ずカレーを食べたくなる。中華料理やハンバーガーなど、他にも美味しそうなものが沢山あるのに、ついカレーを選んでしまう。夏なのに。相模原も同様である。こいつも何故か、ここに来ると必ず温かいうどんを頼んでいる。まるで儀式のように。


「「いただきます」」


 熱々の湯気を立てているカツに、まずは手を付ける。時間が経てば、カレーを吸い込んでしなしなになってしまう。サクサクのカツを楽しむにはこのタイミングが最善なのだ。歯で齧る。口の中で油がじんわりと伸びていく。俺の体に、旨味が浸透していく。


「なぁ、相模原」

「どうした?」

「賭けのことなんだけどさ」


 賭け?と、相模原は首を傾げる。


「俺は降りる」


 話題の明言は避けたが、相模原はそれだけで全てを理解したようだった。ああ、と頷き、冷たい水を飲む。


「理由を聞いても?」

「どうでも良いからだ。他人の性別を詮索するなんて無粋な真似はしたくない」


 リルも、決して自分の性別を明かすことはなかった。俺達が聞かなかったからか、それとも何か事情があるのか。どちらにせよ、聞いたところでもう俺には何の関わりもないことだ。


 相模原は納得したのか、していないのか、水の入ったグラスを置き、腕を組んだ。


「でも、俺はやっぱりモーガンは女だと思う」

「どうして」

「だって、たった一瞬でも、お前の心を奪うことができたんだからな」

「……やっぱり知ってたんだな。俺がリルを好きだったこと」

「もちろん。お前ほど分かりやすい奴はいねぇよ」


 そうだろうか。むしろ、人より感情が面に出にくいと自負しているが。顔を触ってみる。もちろん、自分の今の表情が分かるはずもなかった。


「もう良いのか」


 頷く。


「本当に後悔しないか」


 頷く。


「本当に?」

「しつこいな」


 相模原だって、ライバルが少ない方が嬉しいだろうに。俺の傷を抉ることが楽しいのか。


「良いんだ。これで」


 神妙に言えば、相模原は安堵したように笑った。なんだ。やっぱり気になってはいたのか。


 相模原は気を取り直したように、割り箸をパキリと鳴らして割った。綺麗に割れた割り箸を見て「今日は運が良いかも」なんて、笑っている。俺は綺麗に割れなかったので、今日もついていないらしい。


「そういえば」


 まずはうどんに箸をつけ、熱々の湯気を立てるそれに息を吹きかける。


「誕生日もう過ぎちまったけど、遅ればせながら、祝いたいと思ってるんだ」

「またその話かよ。何もいらないって言ってるだろ」

「固いこと言うなって。折角友人が奢ってやろうって言ってんだ。素直に受け取らない方が逆に失礼だぞ」

「……そうなのか」

「そうなんだよ」


 そうなのか。だが、この歳になって祝われたところで嬉しくもないし、そもそも自身ですら忘れていた誕生日を祝うことに何の価値があるのだろう。


「何か欲しいものとかないのか」

「車」

「免許まだ持ってねぇだろ」

「家」

「この歳で?」

「この歳で。駄菓子屋を経営したいんだ」

「ふぅん。ま、考えとかないこともねぇけど」

「マジで?」

「マジで。でもさ、陽ちゃん。お前が本当に欲しいものはそれじゃないだろ」


 じゅるっと、うどんを吸う。相模原は暑そうに汗を掻いていた。俺も汗を掻きながらカレーを食べている。つくづく、馬鹿な二人だと思う。


「陽ちゃん。俺、お前の好きなものだったら何でも知ってんだ。嫌いなものも。どうでも良いものも、ちょっと気になってるものも。お前のことだったら何だって知ってる。だから、お前の気に入るものを絶対に用意できると思うんだよね」

「だからいらないって。俺、お前にピッタリのお返しとか、考えられる自信ねぇし」

「毎年、家に入り切らなくなるくらい、沢山プレゼントを送ってやるよ。お前が嫌と言っても、止めろと言ってもずぅっと送り続けてやる。恩を売り続けてやる。お前が死ぬか、俺が死ぬまで」


 俺は笑った。相模原が笑っていたからだ。


「そんなことしたら、俺はいつまでもお前から離れられなくなる」

「だろうな」

「良い迷惑だ」

「……そんなこと言うなよなァ」


 相模原は卵の天ぷらに箸を振りかざした。箸と器のぶつかる鈍い音と共に、ビチャ、と勢い良く、溶けた黄身が器に飛び散った。



「これからも仲良くしようなぁ。ようちゃん」



 空調の効き過ぎた施設内は、真夏だというのに、少し肌寒く感じた。





終わり

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ