一人負け。2
夏。全ての生物が、無機物が、茹だるような暑さに翻弄される季節。
卓子の上に、ぼとりと、青い氷の塊が落ちた。
「ああ!」
相模原が叫び声を上げる。奴の手には、てらてらと光る棒が残されるばかりである。
「ああ……あと一口だったのに」
「勿体ぶって食べる方が悪いんだ。夏の食事は時間との戦いなんだよ。期を制する者が戦を制する。ここが戦場だったら、今お前は死んでたな」
「お前、何か変なもんでも読んだ?」
「軍記モノを少し」
「通りで歴戦の猛者みたいなこと言うと思ったわ……って、お前が本読むなんて珍しいな」
「数ページ読んで諦めた」
「それは読んだとは言わない」
これでも頑張って読んだ方だ。いつもだったら、目次を読んで満足して止めるのだから。自慢じゃないが、今まで課されてきた読書感想文は全て、目次のみ読んで乗り切ってきた。
「せっかく図書委員になったのに、お前ってつくづく勿体ない奴だよな」
相模原はため息を吐き、ティッシュで汚れたテーブルを拭き始めた。と思えば、キラキラと瞳を輝かせ、何度も俺の名前を呼ぶ。
「おいおい陽ちゃん見てみろよ。当たりだぜ、これ」
相模原の手に残された棒には確かに当たりの字が刻まれている。何という運の良さ。今度宝くじを買うことがあれば、こいつを連れていこう。いや、それほどのことでもないか。
「後で買いに行こっと。陽ちゃんも勿論ついてきてくれるよな?」
「……面倒だから嫌だ」
「そこを何とか」
「外に出たくない」
「勉強教えてやってるだろ?」
「お前が勝手に押しかけてきたんだろうが」
相模原はここ数日、俺の家に泊まりに来ている。数日前に突然、服の入ったバッグと共にやってきたのだ。「頼れるのはお前しかいないんだよ」とか調子の良いことを言いながら、ついでに俺の両親への愛想も欠かさなかった。外堀を埋められ、俺は仕方なくこいつを泊めてやることにした。
相模原の両親が新婚旅行で出かけ、相模原の姉はそのタイミングを見計らって彼氏を家に連れ込んだ。肉親の愛のオンパレードに胸焼けがしたらしい。故のプチ家出である。
「俺ん家じゃなくても泊めてくれる奴くらいいるだろ」
「でも、何日も一緒にいたら気を遣うだろ」
「俺の家族に気を遣うって発想はなかったのか」
相模原はニカッと笑った。白い歯が目に眩しい。殴ってやろうかと思ったが、こいつの境遇に同情しないわけでもなかったので、振り上げかけた拳は下ろした。それに、課題を見てもらうのは結構助かっている。何せ相手は、全国模試で毎回高得点を叩き出す男だ。山のようにあった課題を三日ほどで解き切ってしまう。おかげで俺が見ないふりをしていた課題も、残すところあと僅かとなっていた。
考えれば考えるほど、何故俺とこいつが友人なのか分からない。
「あんま根詰めると馬鹿になっちまう。ちょっとは息抜きした方が良いぜ」
「俺は外に出た方が余計にストレスが溜まるタイプなんだよ」
「そんなこと言って、毎回俺の呼び出しに応じる癖に……そうだ、今度何か買ってやろうか」
お前は親戚の親父か。いちいち奢ってこようとしやがって。そうやってじわじわと恩を売りにくるから、こいつの誘いは余計に断り辛くなる。
「何もいらねぇよ」
「遠慮すんなって。俺とお前の仲じゃねぇか。それともあれか? お金が欲しいのか?」
「少なくとも金の貸し借りをするほど、お前に気を許したつもりはない」
「俺はある」
「良いか相模原。金の切れ目は縁の切れ目って言うだろ。お前が俺にお金を貸した瞬間、俺達の友情は金額に基づいたものになってしまう。そんなのはお前だって嫌だろ」
「俺は別に構わないけど」
ムカつく奴だ。内心、俺の反応を見て楽しんでやがるんだ、こいつは。
「……行けば良いんだろ、行けば! だけどアイスを買うだけだからな」
「分かってるよ」
相模原は嬉しそうに荷物の準備を始めた。俺も仕方なく、服を着替え、財布を片手に炎天下へと繰り出した。
*****
アスファルトの焦げる匂いが鼻につく。この間は何故か道端で亀が干からびていた。近くに川はないのに。
「そういえば、どうなんだ、今」
顔に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら、相模原が問いかけてくる。
「先輩とは仲良くやってんの。そのために無理して本まで読もうとしたんだろ」
「……この間、少しだけメールが弾んだ」
家で飼っている犬に似ている先輩。彼女は、強面の俺に臆面なく接してくる稀有な人だ。業務連絡用に連絡先を交換し、時折会話を交わしている。
先輩の当番を代わった日、先輩からお礼の連絡が来た。頭を下げる動物のスタンプは相模原も使っているものだが、使う奴が違うだけでこうも印象が違うらしい。「この間はごめんね」なんて言われてしまうと、たとえ何があったとしても許してしまいそうになる。実際、許した。
「へぇ。どんな話をしたんだ」
「海辺に、海月の死骸が大量に打ち上げられていた話」
「へ、へぇ」
「を、先輩がしてきたから」
「ええ……」
「俺は対抗して、市販の殺虫剤の内、どれが一番役に立つかを力説した」
「……」
「正直、その話題はないと思った」
「お前が真っ当な感性を持っていて安心したよ」
まさかあの先輩からそんな物騒な話が来るとは思わず、俺は狼狽えた。しかし話を合わせなければと、必死になってネットで検索した。おかげで今、俺のスマホの検索エンジンはサイコパスも真っ青の有り様である。
「俺はどうするのが正解だったんだ……」
「スルーするべきだったと思う」
「でも、もしかしたら俺を試しているのかもしれないって思ったんだ。ここで気の利いた返しをしないと、今後の関係に支障が出るかもって」
相模原は俺を憐れむような目で見てきた。俺だって、どうかとは思う。だけど、こんなことで貴重な知り合いを減らしたくなかった。
「よしよし。良く頑張った」
慰めるように、肩に手を置かれる。
「ま、これで先輩との仲が破綻したとしても、所詮はその程度の仲だったんだ。次に行けば良いんだよ」
相模原はそう言って穏やかな笑みを浮かべる。友達になって分かったことだが、こいつは案外感情がフラットというか、乾いたところがある。誰に対しても気さくで、誰に対しても冷たい奴なのだ。
俺達の向かいから一人の年老いた女性がやってくる。買い物袋を手に提げた女性は、何かの拍子に躓き、袋の中身をぶちまけた。真っ先に相模原が女性の元へ行き、荷物を拾ってやる。何度もお礼を言う女性に気さくな笑みを浮かべ、曲がり角を曲がるまで手を振っていた。
「この近くに駄菓子屋があるんだ。アイスも売ってる」
「今時珍しいな」
「まぁな。でも、結構近所の子供とかは通ってるんだ。俺も通ってた」
「お前がそんなことするなんて、ちょっと意外」
「そうか?」
「だって、外に出るのは嫌いなんだろ」
「昔はそうでもなかった」
遠くで、自転車のベルが鳴る。車輪が地面を走る滑らかな音が段々と近づいてきて、俺達の横をあっという間に通り過ぎていった。
「今は、どこもかしこも暑い」
「温暖化」
「氷河期に向かってるって説もある」
「陽ちゃんは、寒いのと暑いの、どっちが好き?」
「……暑い方」
洗濯物が一気に乾く、晴天。太陽の光が目に痛い。青い空に、消えかけの飛行機雲が浮かんでいる。
青。空の青。ゴリゴリ君の青。海の青……あいつの瞳。
澄み切っていて、凪いでいて、少し見つめただけでヒビが入ってしまいそうな繊細な瞳。俺は何故か、リルのことを思い出す。
指が触れ合った瞬間のあの、焦げるような熱さが蘇って、俺の体は汗をかいた。
「そういえば、この間、図書室の妖精に会った」
何でもないことのように言えば、相模原は目を見開いた。
「マジで」
「ああ」
「それで、どうだった」
「怖かった」
「怖い?」
「怖いくらい、綺麗な奴だった」
怖いのはあいつか。それとも俺か。あいつを生み出したこの世界か。この世に最果てがあるとしたら、その答えはきっとあいつの中にある。そんな気がする。そんな奴である。
相模原は分かったのか分からないのか、曖昧に相槌を打った。
「それで、答えは出たか」
答え。その言葉の意味を尋ねるより先に、相模原は付け加えた。
「リル・モーガンの性別」
「……どうでもいい。あいつが男だろうと女だろうと」
本心だった。あいつの存在を前に、全ては無に帰す。どんな言葉も意味を成さなくなるのだ。
「でも、もし答えを出さないといけないとしたら、お前はどっちだと思う?」
どんな状況なのだ、それは。
相模原は真剣な表情で尋ねてきた。こいつは冗談を言うほど真面目な顔をする。だから俺も真面目に答える。
「恐らくは、男だろうな」
「どうして」
「あいつに話しかけてたのは女ばかりだった。女って勘が鋭いんだろ。多分、リルが男だと思ってるから近付いているんだ」
「んー、残念だな」
「残念?」
「女の子は常に、可愛いものと話題を探してるんだよ。きっとモーガンが女だったとしても、物珍しさに暫くは近づくだろうさ」
「そういうものなのか」
「そういうものなんだ。だけどまぁ、男も女もそれは変わらないかもな。好奇心は猫を殺す。分かっていても、つい惹かれてしまうものなんだろうな」
相模原が言うからにはそうなのだろう。だけど、はっきり言って、こいつの興味があることは俺にとっては興味がないことだ。どんなに力説されたところで「そうなのか」としか思えない。
相模原が分からなかった。何故、そんなことを言ってくるのか。何を意図するのか。頭が良い奴の考えていることが分からない。
駄菓子屋に着いた。木製の建物の前に、アイスを入れたボックスが置かれている。相模原はそこからゴリゴリ君を一本取り出し、店の奥に入っていった。
お姉さん、これちょうだい。呑気な声の後、若い女性の声が聞こえた。俺が子供の頃は結構歳のいった老人が店員をやっていたはずだ。世代交代したのだろう。最後に行ったのが随分前のことだったから、俺はもう、その人の声も姿も思い出せない。ただ、血管の浮き出た腕だけは覚えている。その人は痩せ細った腕を伸ばし、俺の頭を撫でた。「お友達と分けなさい」と、袋の中に沢山のお菓子を入れてくれた。あの人はきっと、俺がその菓子を全部一人で食べたことを知らないだろう。
昔のことを思い出していると、相模原が帰ってきた。半透明のビニールに沢山の菓子を入れている。
「オマケしてもらった。これ、一緒に食べようぜ」
考えていたことを見透かされたような気がして、何だかおかしかった。お菓子だけに……的な。
「懐かしいな、これ」
「何だそれ、きな粉か?」
「そう。これ、結構当たりが入ってることが多いんだよ」
店の前で手分けしてきな粉棒を食べる。爪楊枝の先が赤色になっているのが何個かあった。当たりを交換してもらい、再び食べる。また当たりが出る。交換する。食べる。それを何度か繰り返して、やっと当たりが出なくなって満足する。「忙しい奴だな」と、相模原は笑った。
帰り道は、少しだけ風が涼しかった。ゴリゴリ君を食べながら、相模原が言う。
「モーガンのことなんだけど」
瑞々しい青色が、相模原の口に吸い込まれていく。
「俺は、あいつのこと、女だと思う」
「そうか」
「根拠はないけどな。お前が男だと言うなら、俺は女だと言う。これは賭けだ」
「賭け?」
「そう。俺とお前、どっちの考えが合ってるか」
「……人を賭けの対象に使うなよ」
「良いじゃないか。ちょっと面白そうだろ」
赤い舌が、白い歯が、瞬く間にアイスを食す。今度は落とすことはなく、最後まで食べ切ったようだ。
「でも、お前はあいつを見てて、俺があいつを見ないってのも不公平だよな」
「何を勝手に」
「よし。今度会いにいくか。どうせ、いる場所は分かってるんだし」
勿論お前も行くよな? 言外にそう問いかけられ、俺は拒否するのも面倒になった。
*****
二日後、俺と相模原は学校に来ていた。勉強をするわけでもないのに、きっちりと制服を着ての登校である。ああ神様。何故、制服は黒色なんだ。これは拷問ですか。
「今日モーガンが来てるって保証はないと思うが」
「来てなかったら、毎日通うまでだ。お百度参りだ」
「怖い……」
こいつは、何か叶えたいことでもあるのだろうか。何をするにも器用なこの男に、叶えられないことなど滅多にないだろうに。
校門を通り過ぎると、事務室のある校舎の真ん前に、円形の小さな庭がある。庭の真ん中には校長先生の像が立てられ、つやつやと輝きを放っている。庭と駐車場スペースの間にある小さな道を通り過ぎると、古びた校舎が目に入った。そこに、図書室がある。
「俺も二学期になったら図書委員になろっかなぁ。冬もあったかく過ごせそうだ」
「当番が面倒だぞ」
「そんなこと言って、お前ずっと俺と遊んでんじゃん」
それは、お前が誘ってくるから仕方なくだ。
「当番くらい何てことないって。俺、結構本とか読むし。それに部活も、運動部の助っ人をする時以外は暇だしな」
「お前には弱点がないのか」
この完璧人間め。勉強も、運動も。俺ができないことを卒なくこなしやがる。
「多分心臓刺されたら死ぬと思う」
「逆に死ななかったら怖い」
「試してみるか?」
「止めとく」
「何だよ、ケチ」
「お前、俺に刺されたいの?」
「別に俺は刺されても構わないぜ。捕まるのはお前だしな」
相模原はこういうところが変だ。どこまで冗談なのか分からない。底の読めない奴。
図書室の扉を開ければ、涼しい風が勢い良く雪崩込んできた。火照った体が一気に冷え、背中に羽が生えたような心地になる。
受付にいた先輩が首を傾げた。
「あれ? 今日当番だっけ?」
「……私用で来ただけですので、気にしないでください」
ニコリと人好きのする笑顔を向けられ、つい顔を逸らしてしまう。もっと愛想良くしたいのに、上手くできない。このままでは嫌われてしまう。分かっているが、喉から出てくるのは俺の意に反したぶっきら棒な言葉だ。
「先輩、こんちは〜」
俺を助太刀するかの如く、俺の背後からひょっこりと姿を見せる相模原。先輩も、すぐに俺から視線を外した。
「あら、相模原くん。久しぶりね」
「涼みに来ました」
「制服まできっちりと来こなして? あなた、補講受けるほど成績も悪くないでしょ?」
相模原が顎の下に指を当て、決めポーズをする。
「実は、先輩に会いに来たんです」
「あら。何の用事かしら」
「顔を見たかった。それだけじゃダメでしょうか」
「構わないけど、折角図書室に来たのだから本も見てあげてね」
「もちろん」
先輩は相模原のアプローチも華麗にスルーしてしまう、かなりの天然である。この間の目を疑うような話題も、先輩なりの意図があったのかもしれない。しかし、それを聞く勇気は俺にはない。
結局、相模原に肩を押されて俺は図書室の奥へと入った。今日は特に騒がしい様子もない。ほっと息を吐いた。どうやらリルはいないらしい。あの茫々とした瞳に、今日は曝されず済みそうだ。
そう思っていると。
「図書室の妖精。そう呼ばれている人なら、あの棚の向こうにいますよ」
背後から声が聞こえた。ギョッとして振り返れば、そこには女子生徒がいた。いつも特定の席で勉強をしている子だ。一見クールな性格をした彼女だが、眼鏡を外した瞬間に見せるどこかあどけない表情が俺は少し好きだった。近所の空き地で暮らしている猫に似たようなものを感じる。こちらに話しかけてくることはないが、勉強に集中しているようで、案外周りのことをしっかりと把握している。
「それより、先輩は凄いですね」
初めて話しかけられたので、俺はちょっと、いや、かなり驚いてしまった。教科書に目を向けたままの彼女は、そんな俺に気がついていないようだった。
「私が散々注意しても騒いでた人達なのに、先輩が注意したら、ばったりと来なくなったんですよ」
相模原が「誰、あの子」と耳打ちしてくる。「ここでいつも勉強してる奴」と返すと、ふぅん、と間の抜けた返事が返ってくる。
それより、知りたくもない事実を知ってしまった。今日、リルはここに来ているのだ。一週間前、俺はリルに本を貸した。だから来ていてもおかしくはないと思っていたが、まさか、本当にいるなんて。
あの日の光景が脳裏に浮かぶ。落ちそうになった本を手で受け止めた。不可抗力ではあったが、あの時の体勢を思い出すと少し恥ずかしい。恐らくあれは、壁ドンと呼ばれるタイプの体勢だろう。イケメンにのみ使用を許可されたもので、きっと俺のような陰キャが使うのもおこがましい。
「モーガンはこっちにいるのか」
相模原は奥の本棚にズンズンと向かっていく。
「本当に行くのか?」
「行くよ。そのために来たんだから」
「俺、帰っても良いか」
「折角来たんだから付き合えよ」
「おい、止めろって」
「いい加減、観念しな」
肩を掴まれ、押し込まれるように奥の本棚まで連れていかれた。手前の本棚を掴んで抵抗したが、結局、つんのめるようにリルの前に押し出されてしまった。
何度もたたらを踏み、本棚に手をつく。目の前にはリルがいた。また、あの時と同じ状況になってしまった。
リルが顔を上げる。青い目が眼前に現れると、俺は頭の中を掻き乱されるような目眩に襲われる。
背後を振り返ると、本棚の角から、相模原が俺達の様子をこっそりと見ていた。なんて趣味の悪い奴だ。
「……あ」
俺は、首を締め上げられているような声を上げた。一度咳き込み、意を決してリルを見る。
「……ここで本を読むなって言っただろ」
リルは頷いた。しかし、すぐに本に視線を落とした。
「おい」
「……」
「お前」
「リル」
「あ?」
「僕、“お前”って名前じゃないです。リルって名前があります」
知ってるよ。相模原から散々聞いた。だが今は、そういう話をしているわけではない。
「お前がそこにいたら、後ろの本を読みたい人が読めなくなるだろ。ちゃんと向こうで読め」
「……」
リルは涼しい顔で読書を続ける。端正な顔は血が通っているのかと疑いたくなるほど無機質で、魂の存在しない人形のようにも見える。だけど、こいつの肌にはちゃんと熱が通っている。生きている。
「おい、聞いてんのか」
「……」
「おい!」
「……」
「……リル」
リルは、途端に弾けるような笑みを浮かべて俺を見た。目眩が酷くなる。熱中症を起こしたように。頭が痛い。体が熱くなる。
「あなたの名前は?」
立ち上がりながら、リルが尋ねてきた。
「浜崎陽夏だ」
「ようか?」
頷く。リルは、俺の名前を記憶に刻み込むように顳顬に指を当てた。そして、笑った。
「ようか」
大切なものを腕の中に抱きしめるように、繊細に、リルは俺の名前を呼んだ。胸が痛みを覚える。傷口から血が流れ出すように、ドクドクと、心臓が早鐘を打ち、俺の体を焦がす。
「僕、ずっと待ってました。ようかが来るの。でも、来なかった」
そんな目で俺を見ないでほしい。迷子になった子供が親を見つけた時のような、縋るような目で。
「……俺にだって用事があるんだ」
「ごめんなさい。あなたを責めたいわけじゃないんです。それに、いつか来るって分かってましたから。だから待ってました」
「え?」
「ここにいたら、また話しかけてくれるって、分かってました」
図書室の暗がり。この辺りは辞書類が多く、滅多に人が立ち入らない場所だ。まさかあの日以来、ここで毎日俺を待っていたのだろうか。
「どうして、そんなことを_____」
戸惑いの声しか上げられない俺だった。そんな俺の手を、リルは優しく、包み込むように取る。指先が触れただけならば、気のせいなのだと誤魔化すことができただろう。しかし、こうしてしっかりと握られると、リルの手の温もりを感じずにはいられなかった。思わず振り払ってしまいたくなる。怖いのだ。何が。一体何が怖い。
怖いのはリルか。俺か。それとも……
「へぇ、本当にこの子が妖精なんだ」
相模原の声に、強く背中を叩かれたような心地がした。どこかへと飛んでいってしまいそうな意識が体の中に戻ってくる。
「噂通り、綺麗な子なんだなぁ」
相模原はゆっくりと歩み寄ってきて、リルをじっと見つめた。リルも見つめ返す。両者、暫し無言だった。
「ようか。この人は」
「俺は陽ちゃんの友達だよ。別に怪しい人じゃないから、安心して」
リルが俺に伺いを立てるような眼差しを送ってきたので、俺は首肯した。内心、安堵する。相模原は時々、俺の心を読んでいるみたいに絶妙なタイミングで喋ってくれる。
「……こいつは相模原。怪しい人だし、油断も隙もない奴だ。あと、俺の友達じゃない」
「せめて友達は肯定しろよな。寂しいだろうが」
ジロリと睨みつけてくるので、俺は両手で相模原の頬を強く抓る。
「痛い痛い痛いイタイ!」
真っ赤になった頬を押さえ、相模原は拗ねたように口を尖らせる。
「こんな風に、俺のことを友達だと言い張って付き纏ってくる、世にも奇妙な奴だ。お前も気をつけろよ。ちょっとでも気を許したら、終いには家に住み着くようになるんだからな」
相模原の両親は、旅行から帰ってこない。よって、姉もずっと家で彼氏といちゃついているらしい。相模原は、最早俺の家族みたいに家に馴染んでいる。父親とは一緒に銭湯に行く仲だし、「あんたも相模原くんみたいに愛想の良い子だったら良かったのに」なんて、母親にも言われる始末である。唯一、俺の飼い犬には懐かれていないようだが。
「お前な。リルに変なこと吹き込むなっての。見ろよ、すっかり俺のこと警戒しちまっただろうが」
俺は事実を言ったまでである。
相模原はリルの頭に手を伸ばし、柔らかな髪を優しく撫でた。
「陽ちゃんが君のこと、すっかり気に入っちゃったみたいだからさ。迷惑をかけてないか見にきたんだよ。こいつ、ちょっと何かに熱中すると、すぐ周りが見えなくなるから」
優しい声。絡まった糸を解くように、丁寧に、ゆっくりと、そして聞き取りやすい声色で相模原は喋る。リルの頬に薄っすらと赤みが差す。しかしすぐに、相模原の手を振り払うように大きく頭を振った。
「僕、子供じゃありません!」
「ああ、ごめんな。そんなつもりはなかったんだ。だけど俺、小さな弟がいてさ。つい、弟に接する時と同じような態度を取っちゃうんだよね。ごめんな」
相模原は眉を下げ、顔の前で手を合わせる。パチン、と片目を閉じてみせれば、大抵の女子はこいつになびく。そして、思いを寄せられていることを知りながら、こいつは知らないふりをするのだ。つくづく酷い奴である。
「名前、聞いて良いかな」
「……リル・モーガン」
「そうか。リル、よろしくな」
そう言ってリルの頭をもう一度撫でた。「撫でないでください」とリルが拗ねたように言うと、相模原は笑いながら手を退ける。
「リル。お前って俺達と同じ学年なんだよな」
「はい」
「クラスとかはもう分かってんの?」
「えっと……2-3、です」
「へぇ、じゃあ俺と一緒のクラスなんだな」
「ようかは?」
「俺は2-1」
「そうなんですか……」
リルが寂しそうに肩を落とす。俺は、慌てて付け加えた。
「お前だったらすぐに学校のみんなと仲良くなれるだろうよ」
少し話しただけで分かった。ちょっと癖のある奴だけど、それを補うだけの愛嬌がこいつには備わっている。それに、この美しさだ。きっと誰もが、こいつのことを好きになる。
リルは、図書室の暗がりが似合うような奴じゃない。もっと日の当たるところにいるべき人間だ。
「もう友達はできたのか?」
俺の問いかけに、リルは寂しげに首を振る。
「話しかけてくれる人はいました。みんな、良い人です。でも……」
きゅっと唇を引き結び、泣きそうな表情になる。
「みんな、何を言ってるか分からない。僕、何て言えば良いのか分からない。お父さんが日本人だから、少しは聞き取れるけど……」
俺と相模原は顔を見合わせた。そして、リルを見た。
日本人離れした容姿は確かに日本語を話すようには見えない。しかし、皆んなそれは分かっているだろう。きっと、リルでも分かるような簡単な言葉を使用しているはずだ。だから恐らくは言語的なものより、心理的な問題なのだろう。リルの心が、皆んなを受け入れることを拒んでいる。コミュ症の俺が言ったところで説得力はないかもしれないが、多分、そんなところなのだと思う。
俺は、リルを可哀想に思った。こいつが、少しでも日の当たるところに行くことができたら。俺らしくもなく、そんなことを思ってしまう。
「俺が、一緒にいてやるよ」
思わずそう言っていたことに、自分でも驚く。嫌われるのが怖くて、先輩にすらまともに話しかけられない俺が、こんなことを言えるなんて。横を見れば、相模原も驚いていた。リルだけは、潤んだ瞳を俺に向け、縋るような表情をしている。
「お前はどうやら俺には普通に話せるみたいだからな。少し会話の練習をしたら、すぐに他の人とも話せるようになるよ」
「本当ですか?」
「ああ」
リルは、ふわりと笑みを浮かべた。花のかんばせ。綺麗で、可愛くて、やっぱり怖いとも思った。
「ありがとうございます。ようか」
リルが手を伸ばしてきた。思わず避けそうになるが、それよりも先に相模原が間に割って入ってきた。
「ちょっと陽ちゃん。独り占めは狡くない?」
垂れ目の眉をキッと上げ、分かりやすく怒っている。
「俺だってリルのことは心配なんだよ。だから俺も付き添うよ」
「あなたも?」
「うん。俺はこいつよりよっぽど使えるぜ? 英語もできるしな」
「悪かったな。できなくて」
「お前、リスニングで零点取ったことあるもんなぁ」
「あの時は腹の調子が悪かったんだ」
「その次のテストでは百点中十点だった」
「あの時は腕が痛かった」
「で、その次は五点」
「耳鳴りが酷くて」
「もう病院行けよ」
相模原が胡乱な眼差しを送ってくる。リルが突然、堰を切ったように笑い出した。
「リル?」
リルはお腹を押さえ、目尻に浮かんだ涙を拭う。
「この間のこと、思い出しました」
「この間?」
「ようかのね、英語が面白かったの」
リルは笑いながら、先日の俺の失態を語り出した。震える声のせいで殆ど何を言っているか分からなかったが、相模原は釣られたように笑う。それから先輩がやってくるまで、二人は笑い続けていた。
*****
帰り道。迎えの車に乗って、リルが帰っていくのを見送った後、俺達は最寄りのバス停に向かった。
「リルの家、お金持ちなのかもな」
リルを乗せた車は手入れの行き届いた、上品且つ高級であると一目で分かるボディをしていた。
「両親が芸術家だからな。売れてればそれなりに金はあるだろ」
「……家であいつ、どう呼ばれてんだろうな」
「嬢ちゃん? それとも坊ちゃん?」
「『リル様』の可能性もある」
リルは見るからに両親に愛されて育ってきたような人間だ。良く言えば純粋で、悪く言えば世間知らず。そんなどこか俗世離れしたところが、余計に美しさと恐ろしさを引き立てている。
「……やっぱり俺、モーガンは女だと思うんだよな」
相模原が唐突に言った。
「どうして」
「あんな可愛い奴が男だったら、狡いだろ。女子が皆んな、あいつの虜になっちまう」
「彼女を作る予定はないんだろ。だったら良いじゃねぇかよ」
「そのつもりだったんだけど」
自販機で買った紙パック飲料を相模原は勢い良く飲み干した。ストローを咥え、ピスピスと変な音を立てている。
「……でも、もしあいつが女の子だったら、俺のものにできるよな」
耳を疑った。驚いて振り向けば、相模原は白い歯を見せる。ストローをガジガジと、千切れそうなほどに噛み締めて。




