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一人負け  作者: 双葉
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一人負け。1


 


 夏休み真っ只中。空調のしっかりと効いた施設内は涼しいを通り越して少し寒かった。シャツの隙間から入り込んでくる冷気に寒気がして、体を抱きしめるように腕を組んだ。


 時刻は十四時三十分。飯を食いに立ち寄ったショッピングモールで、俺は未だに食事にありつけていなかった。待ち人は、メンズショップに吸い込まれるように入ったきり帰ってこない。


 人差し指でトントンと二の腕を打つ。腕時計に目配せするも、先程確認した時からまだ五分と経っていなかった。眉間に皺が寄る。ピッタリと閉じた唇の隙間から、堪えきれなかった疲労が、ため息となって溢れ落ちた。



『まだ?』


 メッセージを送信すると、五分後に返信が来た。


『あと十分待って! すぐ戻るから!』


 可愛らしい動物が頭を下げるイラストと共に、そんな文面がスコンと投下された。果たしてその二十分後、ようやく、そいつは戻ってきた。


「いやぁごめんごめん。つい店員さんと話が熱中しちゃって」


 服の入った紙袋を携え、ご満悦の表情である。


「陽ちゃんも何か買えば良かったじゃん。そんなところで震えて待ってんじゃなくてさ」

「……金欠」

「え、マジで。じゃあ何か買ってやろうか。そういえばお前、今度誕生日だったよな」

「結構だ」


 いそいそと財布を取り出そうとするこいつを制止する。これ以上、飯時が伸ばされては堪らなかった。


「飯」


 一言だけ告げた時、俺の腹が間抜けな音を立てた。


「悪い悪い。じゃ、いつものとこ、行くか」


 からかうような笑みを浮かべながら、こいつは歩き出した。




 相模原。俺の友人である。気さくな性格と穏やかな人相のおかげで男女問わず人気がある。所謂、カースト上位の男だ。


 お洒落を通り越して鬱陶しいくらいウネウネしている茶髪に、人の良さそうな笑みを湛えた口元。垂れ下がった目尻のせいかどこか抜けた印象のある顔立ちが、女心をくすぐるらしい。ちなみに、昔から女子には結構モテているようだが、相模原が彼女を連れているところを俺は見たことがない。確かこいつには姉がいた。女の扱いには慣れている分、女の怖いところも沢山知っているのかもしれない。一人旅とサウナが趣味の、ちょっと変わった奴だ。


 一方、俺はというと、どこにでもいる平凡な男……いや、平凡よりちょっと下のランクの男だ。コミュ症だ。人相が悪いせいで昔から人から話しかけられることが少なかった俺は、対人関係に乏しかった。相模原には「もう少し笑ったら良いのに」なんて言われるが、中々難しい。頭では分かっているけれど、人前ではつい無愛想になってしまう。結果、友達は皆無に等しい。クラスメイトから「苗字+さん」で呼ばれているタイプの人間だ。


 そんな、性格的にも立場的にも正反対と言って良い俺と相模原は、何故か友達である。何故かって、理由は単純。同じクラスになったから。


 こいつとは何気に長い縁がある。昔から仲が良かったわけでもないが、小学中学高校と同じ学校に通い続け、高一で同じクラスになったことをきっかけに連む(つるむ)ようになった。俺達を除いて、同じ中学出身の奴は、クラスに誰一人いなかった。相模原にとっては「都合の良い相手を見つけた」と、そのくらいの認識だろう。向こうの方から、まるで長年の友人であるかのような気楽さで話しかけられ、俺もまた、無愛想なりに返事をした。


 きっかけは単純だが、以来、俺達はそれなりに順調な友人付き合いをしている。夏休み真っ只中に、何日に一度かのペースで遊びにいくくらいには。


 



*****



 カツカレー、福神漬け、水。三種の神器。俺はカレーを食べる。フードコートに来れば、必ずカレーを食べたくなる。中華料理やハンバーガーなど、他にも美味しそうなものが沢山あるのに、ついカレーを選んでしまう。夏なのに。相模原も同様である。こいつも何故か、ここに来ると必ず温かいうどんを頼んでいる。まるで儀式のように。


 割り箸をパキリと鳴らして割った。綺麗に割れた割り箸を見て「今日は運が良いかも」なんて、相模原は笑う。俺は綺麗に割れなかった。ついてない。


「「いただきます」」


 熱々の湯気を立てているカツに、まずは手を付ける。時間が経てば、カレーを吸い込んでしなしなになってしまう。サクサクのカツを楽しむにはこのタイミングが最善なのだ。歯で齧る。口の中で油がじんわりと伸びていく。俺の体に、旨味が浸透していく。


 相模原はまず、熱々のお茶に手を付けた。珍しいこともあるものだ。いつもは冷たい水を汲んでくるのに。


 お茶を飲み、ほっと息を吐く。うどんの上に乗っかった天ぷらに箸を伸ばす。半熟卵の天ぷら。箸が触れた先から、黄身がトロリと溶け出す。ちなみに俺は完熟派である。


 カレーを食べる。冷たい水を飲む。お茶を飲む。うどんを啜る。暫くの間無言で繰り返していれば、相模原がふっと口を開いて、突然、こんなことを言った。


「お前は“図書室の妖精”を知ってるか?」と。


 人のごった返すフードコートの中で、その言葉だけがやけにはっきりと、俺の耳に届いた。ネジの切れてしまったオルゴールのように、俺の世界からピタッと音が消える。ほんの一瞬のことだった。瞬きをする間に、俺の体は再び喧騒の最中に放り込まれた。


「図書室の妖精ェ?」


 聞こえてきた言葉を繰り返せば、目の前の男はコクコクと首を縦に動かした。うどんをちゅるちゅると吸いながら、俺の反応をジッと窺っている。


 こいつがメルヘンな話をするなんて。今日は珍しいことの連続だ。


「……ゲームの話か?」


 尋ねると「現実の話だ」と相模原は首を振る。

 

「女子の間で、そいつはそう言われてるらしいぜ。何でもすっげえ綺麗な奴で、妖精と見紛うような白い肌を持ってるらしい。陽ちゃんは見覚えないか」

「さあ」

「さあって、適当な奴だなぁ。図書委員の癖に」

「図書委員だからって、入ってきた奴の顔全員覚えられるわけないだろ」

「でもそいつは本当に美人らしいんだ。一度顔を見たら忘れないってくらいの」

「へえ」


 全く興味がないので適当に相槌を打つ。おざなりな態度に気が付いているのかいないのか、相模原は良く回る口を忙しなく動かしながら_____一方でうどんを器用に食べ進めながら_____“図書室の妖精”の話を何度も俺に言って聞かせた。丁寧に。筍の皮を一枚一枚剥くかの如く。懇切丁寧に。死ぬほど焦ったく、そして、聞けば聞くほど、俺には全く興味のない話だと思った。



 図書室の妖精の噂が立ち始めたのは、夏休みになってかららしい。



 夏期講習のために学校に立ち寄った一人の女子生徒が、とても綺麗な人に出会った。


 人間とは思えないほど透き通った肌。瞬きをする度に、鳥の羽のように嫋やかに揺れる睫毛。窓から差し込む夏の日差しに、柔らかく溶ける金色の髪。


 美しいという言葉はその人のために存在するに違いない。女子生徒はそう思ったと言う。


「で、そいつと図書室に何の関連性があるんだ」

「女子生徒がそいつを見かけたのが、うちの学校の図書室なんだと」


 だから俺に聞いてきたのか。


 納得しつつ、不思議に思う部分もある。相模原がこんな風に、誰かに興味を示すのは珍しいことだったからだ。


「そいつ、アメリカと日本のハーフらしい」

「はあ」

「親は有名な芸術家で、世界中を飛び回ってるらしい」

「ひい」

「何でも顔が良いだけじゃなくて、頭も相当良いって噂だぞ」

「ふうん」

「で、噂のそいつの名前は_____」


 へえ、と挨拶を打つより先に、相模原は器の底に沈んでいた残り1本のうどんを吸い上げ、机の上に置いた。そしてお茶も飲み干した。相模原の口を遮るものはもうなくなってしまった。


「リル・モーガン。俺たちと同じ学年だ」

「つまり転校生ってことか?」

「そういうこと」

「どうしてこんな微妙な時期に」

「ここに来る前はイギリスにいたらしいぜ。そう不思議なことでもないだろ」


……不思議でもない、なぁ。そう言われても、海外に明るくない俺には良く分からない。


「どうした、陽ちゃん。納得いかないって顔して」


 相模原を無視する。グラスに僅かばかり残ったぬるい水を飲み干し、トレーの上に置いた。


「ごちそうさま」


 立ち上がると、相模原も釣られるように席を立った。返却口に食器を返しにいく俺に、ちょこまかと着いてくる。


「まだ話は終わってないんだけど」

「飯は食い終わったんだ。これ以上話すこともないだろ」

「陽ちゃん。今日俺、お前ん家寄って良い?」

「駄目。今俺ん家、サンバル炊いてっから」


 むぅ、と納得いかなそうな顔をして相模原は腕を組んだ。


「じゃあ、俺ん家に来ないか?」

「却下。今朝の星座占いで『相模原って名前の家には遊びに行くな』って言われてんだよ」

「何そのピンポイントなアドバイス」

「ローカル局の番組だからな」

「いくら何でもローカル過ぎんだろ」


 相模原は尚もしつこく食い下がってくる。仕方なく帰りにゲーセンに寄れば、クレーンゲームの筐体を閲覧する傍ら、再び“図書館の妖精”の話をし出した。


「なぁ、俺達も見にいかないか? その妖精とやらを」

「めんどくさいから却下」

「次いつお前暇? というか、夏休みに図書室って空いてんの?」


 俺はクレーンゲームのひとつにコインを注入した。ピロン、とけたたましく音が鳴り響き、キャッチャーがピカピカと光り出す。


「三回で取る」

「取れなかったら、一緒に妖精を見にいこうな」

「……五回で取る」


 ゲーセンは普段は立ち寄らないが、時々来てみると案外楽しい。外を出歩いている間にかいた汗が、空調によって冷やされていく。相模原はいつの間にか自販機で飲み物を買ってきて、飲み物を飲みながら、俺がリモコンを操作するのを見ていた。


 かくして、何とか五回目の挑戦で商品を取ることができ、俺は相模原の気まぐれに付き合わずに済んだわけだった。


 夕刻。茜色の空が闇に蝕まれていくこの時刻。俺達はバス停で帰りのバスが来るのを待っていた。


 どこかで鈴虫が泣いている。鈴虫の鳴き声に誘われるように、ラーメン屋の店前に吊り下げられた風鈴が、チリチリと音を立てた。残念ながら、少しも気分は涼やかにならなかった。湿度の高い空気のせいだ。


「暑いな〜」


 相模原が、手を扇子代わりにパタパタと動かす。


「やっぱり、夏と言ったら怪談だよな」


 藪から棒に、そんなことを言い出す。こいつの話の導入はいつも強引だった。


「ひとつ、怖い、というか不可解な話があるんだが」

「却下」

「まだ何も言ってないだろ」


 言わない内から、大体の話題は想像できる。


 バスが来た。ため息を吐くように停車し、ガタガタと扉が開く。涼しい風に首筋を撫でられ、少しだけ俺の機嫌は良くなった。だから、相模原の話を少しは聞いてやっても良いかという気分になれた。


「図書室の妖精のことなんだけど」


 ああ、やっぱりそのことか。窓ガラスに膝を付け、目を閉じる。


「俺がさっき言ったように、リルに関しては既に様々な情報を手に入れてるんだ。だけど、たったひとつだけ、まだ分かっていないことがあるんだよ」


 人差し指をピンと立て、探偵を気取る。


「何のことか分かる?」

「身長」

「163センチ」

「体重」

「58キロ」

「血液型」

「他人の血液型を知ろうなんて、お前はなんて無礼な奴なんだ」

「もったいつけないで早く言えば良いだろ」

「そう急かすなって。すぐ教えてやるから」


 こいつ、いちいち腹が立つな。


 急かしているわけではない。だが、もう少しで俺が停まる駅に到着する。交差点を左に曲り、少し進んだ先。あと一分もせずに到着するだろう。


「色んな奴に話を聞いてみたんだけど、何故かこれだけは皆んな知らないって、口を揃えて言うんだよ」


 相模原の口が、ゆるりと孤を描く。


「誰も、そいつが男か女か、知らないんだ」


 バスが緩やかに減速した。ぽつねんと立つ標識の前で、ピッタリと止まる。扉が開き、一人の若い女性がバスに乗った。首筋に汗を浮かべ、キョロキョロと座る場所を探している。マスクを付けていたため顔は見えないが「可愛いな」と思った。多分、可愛い。


「な。何だか、不思議な話だろ」


 俺は返事をしなかった。運転手が気怠げにアナウンスをするので、急かされるように前に行き、金を払い、生温い空気の中へと再び降り立った。


 相模原が俺に手を振るのが見えた。バスはゆっくりと発信し、視界から消えた。


「……何だそりゃ」


 ようやく呟けた言葉は、それだけだった。


 狐につままれたような話だ。意外ではあるが、かと言って気にするようなことでもない。会ったことも見たこともない奴の性別など、俺には所詮、どうでも良いことなのだから。


 だけど何故、こんなに不思議な気分になるんだろう。


「図書室の妖精、か」


 俺は覚束ない足取りで、帰路を辿った。しかし眠る頃にもなれば、相模原の話はすっかり記憶の隅へと追いやられていた。


 



*****



 夏。新しい学年にも流石に慣れ、しかも楽しい長期休暇の途中の登校ともなれば、この時期の学校には気怠げな空気が蔓延っている。そして夏の生温い風が、生徒たちの学習意欲をこれでもかと削いでいく。


 クーラーも碌に効かない広い教室で、授業に関係ない教師の身の上話を聞かされることほど苦痛なものはないのだろう。しかも授業中は水筒の水を飲むことすら許されないわけで、授業の終わりにはそこら中に干からびたミイラが机に突っ伏して呻いている。その傍らで、教師はハンカチで額の汗を拭いながら、せかせかと空調の効いた職員室へと戻っていくのだ。


 学校というのは実は学習施設じゃなくて拷問施設なんじゃないだろうか。このクッソ暑い時期に体育祭などという行事を開催するのがその証拠だ。夏なんて糞食らえだ。と相模原は言う。その度に同意を求めるように俺の方を見てくるので、俺は適当な母音を発して、それらしい相槌を作って、相模原に同調した。


 俺だって茹るような暑さが好きなわけではない。だけど文句を言ったところでただでさえ切れかけの体力が底を尽きてしまうのだから、余計なことは喋らないのが賢明だ。


 俺は文句を言うよりもこの環境に適応することを選択した。太陽との共存。教師と生徒の待遇の差を埋める画期的な方法。入学したての頃から俺はその準備を着々と進めていたのである。学校中を歩き回って涼しそうな穴場を探したり、ウォータークーラーの中でも1番冷たい水が出る場所を発見したり、それはもう様々な努力をした。


 図書委員という面倒な役職に立候補したのもそのひとつだ。図書室は夏になるとクーラーが効いている。それでいて委員になれば席の確保に困ることもない。要するに、図書委員の特権という奴だ。中学からの付き合いである相模原には「委員なんてよくも面倒そうなことをするなあ」と言われたが、事情を説明すれば、単純なあいつはサッと掌を返して「俺も図書委員やれば良かったなあ」と言った。その瞬間頭の中で『勝利』の2文字が踊り始めた俺も、かなり単純な奴だった。


 しかしながら、上手い話には裏がある。というか、そもそも向こうは別に隠すつもりなんてなかっただろう。勝手に俺が図書委員の仕事を都合良く解釈していただけだ。


 これまでの人生で読書などとは無縁の生活を送ってきた俺は、まさか夏休みも図書室が開いていて、しかも委員が当番制で学校に行かなければならないことを知らなかった。


 かくして俺は、夏休みであるにもかかわらず、せっせと学校に通ってるわけだ。補習がある日以外も。図書館へ行くためだけに。


「あー、面倒くせー……」


 受付の机に頭を乗せながら、足をぶらぶらさせる。耳を机にくっつければ、空調の、地鳴りのような低い音が聞こえてくる。それ以外は何も聞こえない。本を捲る音すら漂ってこない。そりゃそうだ。夏休みなんだから。


「……相模原の高笑いが聞こえてくるようだ」


 夏休みに当番があることはあいつには言っていない。バレたら、俺のことを馬鹿にしてくるに決まっているから。それに対して怒ったり反応するようなエネルギーはなるだけ使いたくない。時代はエコ。俺は省エネに暮らしたいのだ。


 本来ならば、俺は今日当番ではなかった。というか、最近、俺には当番が回ってきていなかった。先輩後輩に関わらず、皆、何故かこぞって当番をしようとしたのである。夏休み前に決めたはずの俺のシフトは、カレンダーからすっかり消え去っていた。だから、俺はこれ幸いとばかりに夏休みを満喫するつもりだった。だけど今朝突然、先輩から「今日は用事ができたから、代わりに行ってくれない?」と両手を合わせて頼まれてしまった。面倒臭いと思ったけど、同時にちょっと嬉しかった。相模原以外の人間に話しかけられたのは、久々だったから。それに先輩は、臆面なく俺に話しかけてくれる凄い人だ。小さくて、人懐こくて、家で飼ってる犬に似ている。だから頼まれてしまうと断り辛い。


 ああ、でもやっぱり、めんどいものはめんどい。目を閉じれば、頭の中にアイスが浮かび上がる。冷たい汗を掻いているアイス。カップに入った高級なものよりも、安価な棒アイスの方が俺は好きだ。地面に落ちないように試行錯誤しながら食べるのが、なんだかゲームめいていて好きだった。


 こんなことを思っていると、段々とアイスが食べたくなってきた。帰りに買って帰ろうかな。やっぱ、ゴリゴリ君か。それともブラックマウンテンか。ストライクバーも良いかもしれない。とにかく今俺は、冷たいアイスが食べたい。


 季節は夏だが、気分はマッチ売りの少女だ。クーラーが俺の肌を心地良く撫でる。適度な涼しさに微睡みながら、夢現に幻想を見る。段々と、夢の世界に引き込まれていく……_____


 俺の幻想はシャボン玉が弾けるように終わった。突然、鼓膜を破るような大きな笑い声が聞こえたからだった。しかも、この図書室内で。


 俺は目を開け、ぼんやりとする視界で周囲を見つめた。再び笑い声がする。奥の棚の方だった。女子だ。それも、俺のようなコミュ症を最も毛嫌いするタイプの人種だ。この声は。


 知らんぷりをしたかった。だけど、テーブルで大人しく勉強をしていた女子が、怪訝な目をして俺を見た。目は口ほどに物を言う。「早く何とかしてよ」と言っている。


 仕方なく俺は、席を立った。心臓が早鐘を打つ。あまり注意をするのは得意ではない。嫌だ。話しかけたくないなぁ。


 図書室は、入り口を入ってすぐ横の所に受付がある。真っ直ぐ突き進んだところに、長机と椅子の置かれた読書スペースがあり、その先に、本棚が所狭しと並んでいる。照明が当たり辛い場所だった。奥に行けば行くほど、視界は暗くなる。


「おい」


 意を決して、声を掛ける。女子達はビクッと肩を跳ねさせ、恐る恐る俺を見た。


「……お前ら、うるさいんだよ」


 しまった。初動を間違えた。「おい」じゃなくて「やあ」にするべきだった。そしたらもっと、良い感じのことを言えたはずなのに。何とか挽回しなくては、と思うものの、焦った俺の口からは勝手に言葉が流れ出ていく。


「図書室は本を読む場所だ。それに勉強してる奴だっている。お前らみたいな奴が遊びにくるとこじゃねぇんだよ」


 クーラーで涼むために図書委員になった俺が言えることではない。説得力皆無だ。


 女子達はジッと俺を見てきた。俺の力量を測るかのような鋭い視線に、俺は内心ますます焦り始めていた。感情が面に出にくい性格が幸いして、どうやら焦っていることがバレてはいないらしいが。


 頭を高速回転させ、必死になってこの場を切り抜ける方法を探る。人生経験の乏しい俺の大脳皮質ライブラリーには、碌な記憶などないが、唯一役に立ちそうなものを発見した。陽キャの権化、相模原だ。


 相模原ならばこういう時、どうするだろう。あいつは恐らく、誰かを叱る時も細心の注意を払うはずだ。怖がらせないように笑みを浮かべ、そして……そうだ。こう言うはずだ。


「これ以上喋るつもりなら_____」


 俺は笑みを浮かべた。親指を立て、図書室の扉の方を指す。気分は菩薩だ。きっと、眩い後光が俺の頭に差している。


「ちょっと、外に出ようか」


 俺の笑顔は効果的面だったようだ。女子は顔面を蒼白にさせ、蜘蛛の子を散らすように去っていった。図書室は静寂を取り戻した。


 流石は相模原だ。あいつのアドバイスは中々的を射ているらしい。これからも何かあった時は笑顔を心がけよう。そしたら、もっと人に話しかけられるかもしれない。


 うきうきと胸を弾ませる俺の視線の隅で、突然、何かが動くのが見えた。


「ん……?」


 馬の尻尾のように、無数の糸がそよそよと揺れ動く。髪の毛であるとすぐには気がつかなかった。それは、麦畑の如く眩い黄金色をしていた。それ自体が光の源であるかのように、髪はキラキラと、薄暗い部屋の中で輝いている。俺は誘われるように、視線を斜め下に下ろした。


 人。がいた。いや、人と言って良いのだろうか。


 端正な顔。目鼻立ち、睫毛の長さすらも寸分違わず計算され尽くし、配置されている。稀代の芸術家が作り上げた芸術作品と言われても疑いようがない。匂い立つような、美しい“何か”が、そこにはいた。


 “図書室の妖精”。相模原から聞いていた噂が、俺の頭をじわじわと侵食していく。理性よりも先に本能が、肉体が、そいつの正体を察知した。


 こいつが、リル・モーガン。俺は思わず唾を飲み込んだ。


 旋毛から肩の先へと、川の流れのように、繊細な髪が降りている。白い肌を一等生えさせる黒いタートルネック。この暑い季節に、タートルネックを着るなんて馬鹿げている。だけど、それ以外の服を着ているところも想像できなかった。不思議と似合っているのだ。


 リルの頭には、小さな赤いカチューシャが付けられていた。手首には、タートルネックには不釣り合いなピンク色のシュシュが嵌められている。もしかすると、さっきの女子が悪戯に付けたのかもしれない。だから、あんなにも、浮かれたような笑い声を上げていたのか。


 部屋の角、本棚と本棚の間に体を挟み込むようにリルは腰掛けていた。頭上の一部の棚は、ぽっかりと大きな穴が空いている。穴にぴたりと嵌るくらいの厚さの本を、立てた膝の上に乗せ、リルは静かに読書に耽る。重厚且つ古びた赤い表紙に、箔押しが細やかに施されている。国語辞典と書かれていた。


 リルの頭の上で、傾いた本がぐらりと揺れた。本棚から足を踏み外し、リルの元へ降ってかかる。


 危ない!


 そう思った時には、既に体が動いていた。


 本棚に左手を突き、右手で落ちかけた本を受け止める。そのまま、押し込むように棚に戻し、ほっと安堵の息を吐いた。


「セーフ……」


 高窓の向こうで、黒い鳥が飛んでいた。群青色の空に線を描くように、太陽を背負って、真っ直ぐにどこかへと飛んでいく。管弦楽部の鳴らす、欠伸を誘うようなゆったりとしたコントラバスの調べ。特筆することもない、実に平和な日々。


 リルが視線を本から離した。目が合う。晴天の霹靂。俺の体に、稲妻の如き衝撃が走る。


 静謐さを湛えた青い瞳の向こう側は、ここから見える空よりも果てしなく、澄み切っていた。その瞳に映る俺は途方に暮れたような表情をしていた。


 吸い込まれる。俺は、慌てて視線を逸らし、本棚から手を離した。リルと距離を取る。目を逸らしても、向こうは俺を見ているのだと分かる。


「……ここは」


 声が情けなくも掠れてしまう。


「本を読むところじゃない。読むなら、向こう、行け」


 リルが首を傾げた。同い年とは思えない無垢な態度に腹が立って、足を踏み鳴らす。


「向こう、椅子があるとこだ!」


 読書スペースを指差す。だが、リルはやっぱり首を傾げるだけだった。日本語が分からないのだろうか。こいつ。


「チェアー! ゴー!」


 何で俺は椅子に指示してんだ。自身の英語力のなさを悔やむ。いや、俺が悪いんじゃない。日本語を解さないこいつが悪いんだ。俺は相模原から「名誉日本人」と揶揄されるくらい、英語ができないのである。しかしそれの何が悪い。ここは日本じゃないか。


「スタンダップ、プリーズ」


 リルは首を傾げつつ、本を抱えて立ち上がった。


「ゴー」


 俺はもう一度、椅子の方を指差して歩き出す。リルがちょこちょこと付いてくる。ズラリと並ぶ長机の一角を指差し「シットダウン」と言えば、リルは素直に従った。ちょこんと椅子に腰掛け、ジッと俺を見つめてくる。ああ、もう。そんな目で俺を見るんじゃない。


「OK」


 早く読書を再開してくれ。俺を見ないでくれ。頼むから。


 俺は粘り強く待った。しかしリルは目を逸らしてくれなかった。仕方なく、俺の方から逸らす。リルから離れ、受付の方に戻ろうとすると、背後で微かに椅子を引く音が聞こえた。リルが立っていた。


「……」

「な、何で立つんだよ」

「……」

「何か喋れよ」


 慌てて足速に受付に戻ると、リルはぴったりと付いてきた。俺は逃げるように受付の椅子よりも俺に行き、壁際に追いやられた。


 壁が冷たくて気持ち良い……じゃなくて、何なんだ、この状況は。


 先輩が作った図書室便りが、壁に貼られている。剥がれかけのそれは空調の風にひらひらとそよぎ、否応なく俺に先輩のことを思い出させた。俺は先輩のことを好ましく思っている。でも今日ばかりは恨むかもしれない。先輩が当番を休まなければ、俺がこうして困ることはなかったのだから。


 リルは先程から何も言わず、ただジッと俺を見るだけだ。凪いだ瞳からは、感情を推し量ることは叶わず、俺はただ、翻弄されるばかりだった。


 勉強をしていた女子はどこかに消えていた。荷物だけを机の上に置き、忽然と消えている。たった今、この広い図書室には俺とリルだけがいるらしい。助けを求められる人はどこにもいない。


 時間ばかりが徒らに過ぎ去っていく。窓の外で雲がゆったりと流れ、校門付近に置かれたオブジェの影がじわじわと角度を変えていく。蛇口の先から零れ落ちる雫をただ見つめているような、静かで無益な時間。


 俺の額から浮かんだ汗が、顎を伝い、地面に落ちた。手の甲で額を拭うと、胸元に硬いものが押しつけられた。


 リルは、持っていた本を俺に差し出した。催促するように、何度もぐいぐいと押しつけられる。地味に痛い。


「……もしかして、借りたいのか」


 リルは頷かなかったが、得心したような表情をしていた。俺はリルの手から本を、恐る恐る受け止る。辞書の重みが、俺の心にのしかかる。


 いつ作られたか分からない本。バーコードはなく、表紙の裏には紙も貼られていない。背表紙に、「貸出不可」のスタンプが押されているのみだ。


「悪いけど、これ、借りれないんだよ」


 リルが首を傾げた。拙い英語で同様のことを告げると、辞書を抱え、本棚に向かっていった。解放されるのも束の間。数分もせず、今度は薄い本持ってきた。どこかの誰かの詩集だった。


 再び、胸元に押しつけられる。引き結ばれた唇は、不貞腐れているようにも見える。俺はリルから本を受け取り、バーコードをかざそうとした。だけど、よくよく考えてみれば、本の貸し出しには学生証が必要なのだ。二学期から転校してくるリルは、きっと制服すら用意していないはず。


 仕方なく、代わりに俺の学生証を使った。機械音が小さく鳴る。俺はリルに本を手渡した。


「読み終わったら持ってこい。返すのに学生証は必要ないから」


 いや、日本語は伝わらないのか。必死になって英語に翻訳しようと試みる。“返す”ってなんだ……I’ll be backか?


 小さな本を、大切な宝物を手に入れたかのように、リルは腕の中に閉じ込めた。ぎゅっと瞼が閉じられる。青い瞳が隠された瞬間、少し名残惜しさを感じた。


 リル・モーガン。不思議な奴だ。人形みたいに綺麗で、だけど生きている。ふとした瞬間に触れた指先は確かに熱を持っていて、触れた先から俺の体は焦げてしまいそうだと思った。静謐で、穏やかで、青い炎のような人。誰もそいつの性別を知らないと言う。間近に見た俺も、全く分からなかった。だけど、そんなことを考える余裕もなかった。みんな、俺と同じなのかもしれない。もしくは絶対的な美の現実を前にして、そのようなことに頭を悩ませるのも野暮なのか。


 リルがうっすらと目を開いた。青い瞳が俺を捉える。俺は、呼吸すらも奪われ、ただ、リルの動向を見守ることしかできずにいた。


 赤い唇が、微かに開く。


「……いつ」

「……え?」

「いつまでに、返せば良いですか?」


 落ち着いた声が、俺の心を掻き乱す。


「……しゃべれるのかよ」


 ただ、それだけしか言えなかった。


 俺の言葉を受け、リルは、悪戯っぽく笑った。


 



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