屯所の妖怪
「ただいま!なになに、なんの騒ぎ?」
先程までの落ち込みはどこへやら、藤堂平助は元気に屯所に飛び込んだ。ワイワイ賑やかなその様子に、心が浮き立つ。生粋の江戸っ子はお祭り好きなのである。
川に落ちてべしょべしょになった草鞋を脱ぎ捨て、屯所に上がった所で、隊士の1人が通りかかった。彼は藤堂に気づき、
「あ、お帰りなさい藤堂先生」
と挨拶するも、藤堂のあまりに汚い恰好に顔をしかめた。いったい何をしてたんだこの人は?体中ドロドロのベチョベチョじゃないか。髪からはなんか泥水がしたたってるし。オイオイ、やめてくれよ、その足で屯所を歩き回る気か?掃除するのは誰だと思ってるんだ、歩くたびに掃除の場所が増えるじゃないか!これだから全く尊敬されないんだ、まさに子供じゃないか!
思い切りその隊士が自分を白い目で見ているのに気が付かない藤堂は、ニコニコ笑いながら聞いた。
「それよりさ、これ、なんのお祭り?」
隊士は目を剥いた。お祭りだと?耳が腐ってるんじゃないでしょうね!とは流石に言わなかったが、あきれ果てて答えた。
「副長が大暴れしているんですよ。気に食わないことがあったようで…今は厨(台所)に立てこもっています。近藤局長がなだめているのですが、未だ出てこないんです。おかげで夕食の用意ができず、皆てんてこ舞いなのですよ」
「え…ひ、土方さんが…?」
「藤堂先生も説得に行って下さると助かります。あ、足拭いてください」
藤堂は真っ青になり、手拭いを差し出した隊士の手を振り払い、厨に向かって走り出した。
「ちょっと!藤堂先生!足!」
後ろから怒鳴る隊士の声は、もう藤堂には聞こえない。
厨。
厨に立てこもっている。あの土方さんが。
藤堂の脳裏に、両手に出刃包丁を持って高笑いしながら、人肉をかっさばいている土方の姿が浮かんだ。大鍋に人骨をダシにした濃厚スープをわかし、その中にギタギタのみじん切りにした脳味噌やら胃やら腸やらを、ポイポイ投げ入れている土方の姿が。
「うわあああ、早まるな土方さあああん!!」
藤堂は全力疾走した。ベショベショの足のせいで、ツルツル滑る廊下の走りにくいこと!早く、一刻も早く止めねばならない。
きっとその濃厚人肉スープを一番に食べさせられるのは藤堂だ。絶対に、桂を逃がした自分への復讐に違いない。そしておそらく、「食材」と称してぶった斬られるのは藤堂の部下だ…!
「上司の失態は部下全員の失態だ」とかなんとか言って、皆殺しにするに違いない。それだけは、それだけはなんとか止めねばならない!
何度か転びながらもどうにかこうにか走り通し、厨への最後の曲がり角、そこを全力で走り抜けようとした時。
「ぎゃああ!!」
「うわあ?!」
ゴチンと何者かにぶつかって、藤堂は吹っ飛んだ。そして壁に嫌というほど頭をぶつけ、視界をヒヨコが飛び回る。直後、何かが盛大に割れる音が響いた。
「だ、誰だよ、もう!」
数秒後、タンコブのできた頭を押さえながら立ち上がった藤堂は、涙目で相手を睨んだ。まもなく体を起こした相手も、頭を押さえて藤堂を睨んだ。
「こちらのセリフですよ!一体どうしてくれるんです…って、藤堂?」
「え?!あ?沖田さん?!」
なんと藤堂がぶつかってしまった相手は、局中でも最強と謳われる沖田総司だった。
「ご、ごめん!!大丈夫ですか?」
藤堂は大慌てで沖田をひっぱり上げて立たせる。いつも藤堂の失敗をフォローしてくれる沖田に、藤堂は頭が上がらないのだ。
「ああ…私は大丈夫なのですが…」
藤堂が沖田の視線の先を見ると、足元に陶器の破片が散らばっている。見事に粉々になっており、修復は不可能だろう。
「ああッ!!こ、これ、沖田さんの!?ごめん!ほんとにすいません!!弁償しますから!」
懐から財布を取り出した藤堂に、沖田は苦笑いしながら首を振った。
「それ、土方さんのお気に入りの湯飲みです」
「えッ」
死んだ。完膚なきまでに死んだ。魂の抜けた藤堂が立ち尽くしていると、沖田は明るく笑った。
「まあ、いいんじゃないですか。風流な茶人じゃあるまいし、湯飲みにこだわるほうがどうかしてるんですよ。…それはそうと、藤堂」
沖田は藤堂を頭の先から足元まで眺め、顔をしかめた。
「あなた、そんな恰好でなにをしてるんです」
「あ、いやこれは」
川に落ちたなんて言い出しづらく、愛想笑いを浮かべた藤堂だったが、沖田にはお見通しである。
「川に落ちましたね。そしてその足で、屯所を走り回りましたね」
沖田は、今しがた藤堂が走り抜けてきた廊下を見やる。そこには果てしなく続く、藤堂の汚い足跡が残っていた。沖田は呆れてため息をついた。
「雑巾がけしましょう。私も手伝いますから。来なさい」
「は、はい…」
大人しく沖田について行こうとした所で、藤堂は飛び上がった。
「そうだ!こんなことしてる場合じゃないよ、沖田さん!土方さんが人肉鍋を作ってて大変なんだ!」
「人肉鍋?何ですかそれは。そんなの流石の土方さんも作りやしませんよ」
藤堂は目を丸くした。
「え。でもさっき、土方さんが厨に立てこもってるって…」
「ああ」
沖田は笑った。可笑しくて堪らないらしく、肩を震わせている。
「例の癇癪が爆発しただけです。今度は何をしてくれるかと期待していたんですが、今回もなかなかですよ。見てきてごらんなさい。狂っていますから」
藤堂は迷わず厨に走った。一体なんなのだ?
そして厨の前まで来ると、なんの断りもなくその障子をスパーンと開けた。途端、独特の臭いがむわっと藤堂の嗅覚を襲う。
「…ひ、土方さんッ!?」
そこにいたのは。
涙目の近藤を足蹴にしながら、髪を振り乱し、沢庵を丸かじりにし、両手を漬物壺に突っ込んだ、血走った眼の妖怪だった。