あたしの上司
「うわあ…広いんですね」
あたしは菩薩、もとい山南さんに屯所を案内してもらっていた。外から見たらそれほど広く感じない屯所だったが、実際に中に入ると広い。トイレ、浴場、大広間。いくつかの隊ごとに分かれた寝室、その他。庭も広々していて、よく分からない菜っ葉の植えられた畑、鯉の泳ぐ池なんかもある。
なんだかあまり、人斬り集団が住んでる場所という感じはしない。ちょっと裕福な、普通の町人が住んでる家みたいだ。
意外と馴染みやすそうかも知れない。あたしはホッとした。
「住みやすそうな所だろう?」
まるであたしの心を読んだかのように、山南さんが微笑んだ。
「はい。想像してたのは鬼ヶ島みたいなとこだったんですけど。普通ですね、なんか」
「鬼ヶ島?」
山南さんは口を押えて笑った。
「ああ、土方君のせいだね」
「そうですよ。あんな気違いが住んでるとこなんて、ろくな場所じゃないと思ってたから」
「まあ、普段は彼も、話の分かる人なんだよ。今日は気が立っていたから、君に不快な思いをさせてしまったようだけれど」
あたしは信用しなかった。騙されるものか、口喧嘩で負けた腹いせに、あたしを晒し者にした奴なのだ。
「ああ、そうだ。今日は、ほんとうは近藤さんに会ってもらうはずだったのだけどね…」
「近藤さん…って、局長さんですか?」
近藤さん、覚えている!確か新撰組で一番偉い人だ。山南さんはうなずいた。
「素晴らしい方ですよ。…しかし今日は、土方君となにやら『話し合い』をするそうで…申し訳ないけれど、近藤さんには明日会ってもらおうかな」
話し合い?読める、読めるぞ土方歳三。あたしの悪口を近藤さんに吹き込んで、ここにあたしの居場所をなくす寸法なのだ。しかしあたしはそんなものには屈しない。奴の汚い思惑など踏みつぶし、この組織で成り上がってやる。
鼻息を荒げるあたしの横で、山南さんが歩を緩めた。
「ここは稽古場だよ。ホラ、見てごらん」
あたしはその建物を、格子の隙間から覗き込んだ。すると中では、数十人の隊士たちが、「うおお」とか「でああ」とか、声を張り上げながら稽古に励んでいた。奥の方では打ち合いもやっている。
「あ、あの人…」
あたしは奥の方で打ち合いをする中に、防具もつけずに2人同時に相手をしている人を見つけた。その人は鮮やかな体捌きで、2人をほぼ同時に床に沈めた。あたしは歓声を上げた。
「ねえ山南さん!あの人めっちゃ強いですよ、あの奥の人!誰なんですか?」
山南さんも格子を覗き込む。
「ああ、斎藤君か。…強いよ、彼は。うちでも1,2を争う遣い手だ」
「へえ…!」
遠いし暗いので顔までは見えない。でもなんだか憧れのようなものを感じて、あたしは身を乗り出した。
「もっと近くで見てみるかい。他の助勤の先生もいらっしゃるよ。それに、君の所属も決めねばならないし」
そうだった。あたしが山南さんとの屯所珍道中をすることになったのは、屯所案内と同時に、あたしの所属を決めるためでもあったのだ。何人かの「助勤」という幹部がおり、その中の誰かの下で働くことになるのだそうだ。
「あっ、近くで見ていいんですか?ぜひ!」
あたしはありがたく山南さんの申し出を受け、稽古場に足を踏み入れた。途端、むおっと流れてくる汗の臭い。うわ、くッさ!!あたしは思わず鼻をつまんだ。こんなに臭いとは予想外だ!
続いて山南さんが稽古場に入る。あたしが入ったときは振り向きもしなかった隊士たちが、一斉に動きを止めた。
「これは、副長!」
賑やかだった稽古場は一気に静かになる。山南さんは腕を振った。
「続けてください」
再び、隊士たちは稽古を始めた。再び音の戻った稽古場を、あたしは鼻をつまみつつ、先程の最強なる男を探して歩く。
すると、見つけた。また新しい相手、今度は3人に囲まれている。あたしは立ち止まった。
「来い」
男は薄闇の中、よく通る低い声でそう告げた。夜の稽古場を照らす行燈の灯が、どこからともなく流れてきた風を受けて、ゆらりと怪しく揺らめいた。
刹那。男の背後に回り込んだ隊士が、男の後頭部めがけて竹刀を振り下ろした。
男はそれを、振り向きもせず左に傾いて躱し、その勢いで左方にいた隊士の胴を激しく打った。
声も出せずに転がる隊士。それに恐れをなしたか、男の前方に対峙する若い隊士が、ずるっと一歩後ろに退いた。男はその隙を逃さなかった。隙のできた隊士の喉元を、これでもかというくらい力一杯突いて、そいつを壁に叩きつけた。隊士はどさりと倒れた。
――強い。
あたしは鼻をつまむのも忘れ、その男に魅入っていた。
適当にたばねた黒髪が、竹刀を振るたびに揺れる。目にかかるくらい長く伸びた前髪の下で、切れ長で二重のきれいな瞳が時々顔を出す。
あたしは鼓動が高鳴るのを感じた。なんだか今まで一度も感じたことのないような、変な感情――
彼の頬を伝う薄い汗が、風を受けてそこを離れたとき。残りの隊士は竹刀を手放し、床に転がっていた。
わあっと、歓声が上がった。他で稽古していた隊士もその手を止め、この戦いを見物していたのだ。
「…き、楢崎くん」
「え…あ、はい!」
あたしは男に夢中のあまり、山南さんがあたしを呼ぶ声に気づかなかったらしい。しかし山南さんはそう気分を害した様子もなく、にっこり笑った。
「話をしてみるかい」
「え!話って、ちょっと…」
狼狽えたあたしの返事を待たず、山南さんは彼に声をかけた。
「流石ですね、斎藤君」
額の汗を拭っていた男は、山南さんに気づきぺこりと頭を下げた。
「…どうも」
「疲れているところ、悪いのだけれどね」
山南さんは、あたしを振り返った。
「楢崎君。こちらが副長助勤の、斎藤一君だよ」
「あ…は、初めまして!楢崎星華です!」
あたしは大慌てで、その斎藤さんなる男に頭を下げた。斎藤さんはあたしの顔を見て、ちょっと驚いた顔をし、そのあと会釈を返してくれた。
な、なぜ驚かれたんだ?顔になにか付いてたのか?
アワアワするあたしをよそに、山南さんは微笑み、言葉をつづけた。
「こちらの楢崎君はね。今日から『斎藤君の下』で働いてもらうことになりました。よろしくお願いしますね」
「え」
「え」
え?
初対面のあたしと斎藤さんの声は、その時見事に重なった。