菩薩との邂逅
「チックショウ!有り得ねえんだよッ」
土方歳三は屯所に帰ってくるなり、ドスドスと魔王のごとき足音を響かせながら局長室に直行した。すれ違う隊士が怯えきった態度で道を開けるのを、血走った目で睨みつつ怒鳴る。
「近藤さん!いるか?」
すると局長室の中から、のんびりした明るい声がした。
「おお、トシかー。どうした?」
中で立ち上がって、ふすまを開けにくる足音がしたが待ちきれず、土方はふすまをもぎとるようにして開けた。たまらずふすまは、ものすごい音を立てて廊下に吹っ飛ぶ。
「うお…今日は一体どうしたんだ、トシ?」
無残に転がったふすまを悼みながら、近藤勇は土方を見た。気性の激しいこの男、怒ると物まで壊すので修理が大変だ。短気でヒステリックなこの男は、鼻息荒く近藤を一瞥すると、うらめしげに吐き捨てた。
「桂を逃がした」
「いつものことじゃないか…?」
「違う!今日はホントにあと一歩のところだったんだ、それをあいつが!」
噛みつかんばかりの勢いでまくしたてる土方を、近藤はまあまあと宥めた。
「まあ、座れ。とにかく、何があったか話せ」
大人な近藤は、終始怒りっぱなしの土方をどうにかこうにか落ち着かせ、事の次第を話させた。
「なるほど…。それでその娘を、ウチに入れねばならなくなった、ということか」
土方の表情は、まさに不機嫌極まれりといったところだ。
「冗談じゃねえだろ。近藤さん、断り入れといてくれや」
土方は、近藤ならば容保公にびしっと断りを入れてくれると信じ、ここに来たのだ。だからできるだけ、あの気に食わない女のことを悪く悪く、近藤が悪印象を持ってくれるようにして伝えたのだが――土方が席を立ちかけたとき、この口のデカいアンポンタンは、そのデカい口でこう言ったのだ。
「いいじゃないか。受け入れよう、トシ」
近藤はにっこり笑った。
その時二人の間に流れる空気が、確かにその動きを止めた。そして。
止まった時を動かしたのは、耳をつんざくような土方の悲鳴だった。
「勝っちゃああああん!?冗談よせや!だってあの女だぞ、いやあんな奴は女とは呼べねえ、クソだ!馬糞にも劣るッ」
「お、落ち着け」
思わず耳を塞ぎ、鼓膜が破れるのを防いだ近藤だったが、同時に土方をここまで狂気に陥れた娘というのを、どうしても見てみたい、と思った。
押し問答が始まりそうになった寸前、局長室の前を通りかかった男が、壊れたふすまに気が付いて足を止めた。
「近藤さん?どうされましたか。それに土方君も」
「おお、サンナン!良い所に来てくれた、早くこっちへ」
助かった、とばかりに近藤は、「サンナン」こと山南敬介を部屋に招き入れた。不思議そうにふすまを見ながら部屋に入ってきた山南は、土方と同じ副長格だ。笑ってしまうほど性格が正反対のこの2人だが、それゆえ良いチームワークが築けていると言っても良い。
山南は、冷や汗を垂らした近藤と、髪を振り乱し血走った眼をしている土方を交互に見て、事の次第を察した。
「これはまた…派手にやってしまったね、土方くん」
そして彼は彼にしかできない妙技、「場を一瞬にして和ませる」微笑みを浮かべながら尋ねた。
「一体何があったのです?」
窓の外はもう暗くなっていた。
「あああ…もうだめだ…」
藤堂平助は、走り疲れてヨロヨロしながら、川横の土手に転がった。はずだったが、思いのほか勢いよく転倒したため、見事に川の中に落ちた。
「ぷあ!!」
慌てて這い出て、ずぶ濡れのまま地面に這いつくばる。
「に、逃がしちまった…桂…」
沈みゆく太陽。捕まえ損ねた桂。「ぶった斬る」が口癖の土方。こんな所に泥だらけで転がっている自分。全てがこの世の終わりのようだった。
鴨川のせせらぎが、藤堂をせせら笑う鬼副長の狂った声と重なる…「ふっ、死ぬんだな」
「やだ―――!斬られたくねえ――!!」
藤堂は先程、土方に「桂を逃がしたらぶった斬る」と宣言されていた。人は言うかもしれない、そんなのは藤堂の闘志をかきたてるための冗談だと。とんでもない。奴はやるといったら殺る。ほんとうにぶった斬るのだ。今までも、その癇癪の犠牲になった浪士は数知れない。
「はあ…怒ってんだろうなァ、土方さん」
土方が別件で怒り狂っており、彼のことなど忘れていることを知らない藤堂は、絶望して生きた心地もしなかった。屯所には帰れない。斬られるから。しかし新選組は外泊届を出さない限り、脱走者扱いになってしまう。いずれにせよ切腹だ。
もう一度ため息をついて、藤堂は起き上った。泥まみれになった隊服を払いもせず、日のとっぷり暮れた街中を、家屋にぶら下がった行燈を頼りに、屯所への道をとぼとぼ歩いた。
藤堂は19歳だった。そして童貞だった。泣けてきた。童貞のまま女を知ることもなく、首と胴が分かれてしまう切ない運命に、男泣きに泣いた。こんなことならばあの時、点呼に応じずに女を買って、それで切腹すればよかったのだ。
たっぷり半刻かけて、藤堂は屯所にたどり着いた。屯所の脇に誰か立っていたが、鼻水を垂らした顔を見られるわけにもいかず、会釈だけして通り過ぎる。涙を拭って屯所の門をくぐると、中が騒がしいことに気づく。
「あれ?」
ドタバタ走り回る隊士たち。どうも普段と様子が違う。なにかあったのだろうか。
藤堂は走って屯所に向かった。
あたしは真っ暗になった空を見上げながら、ため息をついた。いったいどれだけ待たせるのだ、あの土方は。
「ありえないって…くそ野郎…」
あたしは「屯所」なる建物の塀に寄りかかって時を過ごしていた。通りを行く人の視線が痛い。Tシャツとジーパン姿のあたしは、見世物かなんかと勘違いされ、ぶしつけな視線を全身に受けていた。こんな屈辱は、小学生の時に宿題を忘れて廊下に立たされたとき以来だ。許せん。それもこれもみな全て、あの土方のせいなのだ。
屯所に着くなり、後れ毛のはみ出しすぎたポニーテールもどき頭を揺らしながら、土方は言った。
「ココで立ってろ。いいな?ココから動くな、ココだぞ」
血走った目をギョロギョロさせながらくどいほど繰り返した土方の顔を思い出す。あれぞ鬼だ。あたしを見世物にして恥をかかせようという見え見えの魂胆に、抵抗できなかった自分が情けない。歯ぎしりした、その時。
「やあ、君かい?土方君の言っていた女の子は」
柔和な男性が、極上の微笑みと共にあたしの目の前に立っていた。後光が差すかのような彼の様子に、あたしはたじろいだ。だ、誰だ、この土方とは似ても似つかない、菩薩のような男性は!?
「あ、あの、あなたは…?」
「私は、山南敬介。君がこれから入る新選組の、副長を務めさせてもらっている者だよ」
菩薩は、そう言って笑った。