あたしの使命
桂小五郎は逃げていた。背後に迫る壬生狼から己の命を守るため、恥も外聞もなく全力で疾走った。
疲れても立ち止まることなどできない。耳の後ろに、自分を追ってくる壬生狼の荒い息遣いが聞こえてくるような気がして、振り向くこともままならないからだ。
「いたぞ!そっちだ」
遠くで叫ぶ声。続いて迫ってくる無数の足音。四方から聞こえるその足音に、桂は自身が完全に包囲されてしまっていることを悟った。
もう駄目かもしれない。
桂は絶望的な状況の中で、ふっと息をついた。こうなればもはや、戦うしかない。桂には自害できない理由があった。自分が今ここで倒れれば、長きにわたり温め続けた大いなる計画が潰えることになる。万に一つの可能性だとしても、生き延びることができるなら。
――戦うしかない。
桂が決意とともに刀の柄に手を掛けた、その刹那。
「うわああああああッ!!」
「!?」
頭上から真っ逆さまに人が落ちてきて、すさまじい悲鳴と共に桂の体に覆いかぶさった。そしてそのまま、桂は無残にも潰され、地面に這いつくばる羽目になる。
「なッ…何者!?」
馬乗りにされて、もがく桂は異様な光景に口をつぐんだ。
妙な、へんちくりんな格好の女が1人、自身の上に伸びていたのである。
「痛ったあ…」
あたしはガンガンする頭を押さえながら起き上った。いったい何が起こったのだ。なんか倉庫に行ったら変な刀があって、それを振ったら爆発して――
「き、君!どきたまえ、君ッ!」
「は?」
尻の下からの大声に下を向くと、すごい形相の男と目が合い、あたしは飛び上がった。
「うっわあ!?ごごご、ごめんなさいッ!」
なんであたし人を踏んづけてんの!?慌てて踏んづけていた男を解放すると、男はヨロヨロと立ち上がった。その人物の恰好を見たとき、あたしは自分の目を疑った。
「じ…時代劇!?」
「な、なんなんだ、君は!」
目の前で服を払いながら迷惑そうにこちらを睨み付ける男は、まさにその…なんと言うか、時代劇に出てくる人が着ている、和服を身に着けていたのである。そういえば周りの様子も妙だ。高いビルも高層住宅もない。「伊勢屋」とかいう看板のぶら下がった、古めかしい日本建築が立ち並んでいる。
あたしはとっさに悟った。撮影現場に紛れ込んでしまったのだ!
「あ、あの!撮影中にすみません!!帰りますッ!!」
「ちょ、君!?」
あたしは脱兎のごとく逃げ出した。転がるように逃げて行って建物の陰に身を隠すと、その場にあたしは座り込んだ。
とにかく気持ちを落ち着かせねばならない。あたしは深呼吸した。
整理しよう。あたしは変な声に導かれて倉庫に行った。変な刀を見つけた。それを振ったら爆発して、気づいたら時代劇の撮影現場だった!全くもって、意味が分からない!
整理するだに混乱が増し、あたしは絶望して膝に顔をうずめた。同時に、額にゴチンと硬いものが当たる。
「痛っ!」
涙目で睨んだそれは…なんと家の倉庫で見つけたアレ。そう、つまり、あの不格好な、爆発したはずの刀!
「えっ…なんでッ!?」
あたしは反射的に、刀を投げ捨てた。家壁にぶち当たってコロンと転がったそれは、勢い余って鞘から抜け落ちた。白い刀身が露わになる。と――
『やっと会えましたね、星華』
「!?」
か、刀がしゃべったああ!!と驚いたのも束の間、聞き覚えのある声にあたしは叫んだ。
「あ、あんた!あの時の声!?」
まさにこれは、あの倉庫で聞こえてきた忌々しい女の声だ。
『そのとおりです。あの時は手荒な真似をしてしまって…済みませんでした』
「いや謝られても!と、とにかくなんなのよ、ここは!?なんであたし時代劇の撮影所なんかにいるのよッ」
あたしは刀に噛みついた。刀は暫く沈黙していたが、静かに語りだす。
『まず自己紹介をしましょう。私はウル。運命を司るものです』
「はァ!?」
あたしは素っ頓狂な声を上げた。なんだ、この三流ファンタジーみたいな展開は?
『私は、歴史が正しい形で進むよう、世界を見守る存在なのです。定められた〈年表〉の通り、歴史が進むことを助けるのが、私の役目』
「年表…?」
なんじゃそりゃあ。教科書みたいに、歴史ってのは決まってるってことなのだろうか。
『しかし、先日のこと…〈年表〉を見ていた私は、恐ろしいことに気が付きました。〈年表〉のある時代の部分が、消えかけていたのです』
それを見たウルは焦った。年表が消えるということは、歴史が〈年表〉通りに動いていないことを指している。不測の事態に直面し、ウルは恐ろしいことに気が付いた。
――誰かが、歴史を変えようとしている!
『止めなければなりません。歴史が狂えば、その後の時代を生きる人々の運命も狂います。…そこで、星華。貴女に、私と共に歴史を救っていただきます』
あたしはそれまで黙って聞いていたが、ウルの恐ろしい一言に、冷や水を浴びせられたかのごとく硬直した。ひきつり笑いと共に問う。
「あ、あのさ。歴史を救うって。あたしが?」
ウルはにっこり笑った――というか奴は刀なのであって人間ではないのだから、笑ったかどうかは定かではないのだけれど。とにかく、そんな感じがした。
『そうですよ。貴女と私で、歴史の闇に潜む悪を退治するのです。引き受けて下さり、とても嬉しいですよ。星華』
あたしは頭を抱えた。冗談じゃない。コイツは何を言ってるんだ!
「待ってよ!あたし何も承諾なんてした覚えないし。無理、絶対無理!歴史だってよく分かんないし、悪人と戦う力もないよ!」
だから早く家に戻せと全力で訴えるも、奴はとんでもないことを言い出した。
『いいえ、それはできません、星華。なぜならここは江戸時代、一度〈私を手にした〉ことで貴女は役目を承諾したことになり、目的を達成するまで、途中で投げ出すことは叶わないからです』
「はあ――ッ!?あ、ありえない!何勝手なこと抜かしてんだよ!」
あたしは怒りのあまり、よっぽどその刀をグシャグシャに踏みつけてやろうかと思った。
「冗談じゃない、だってあたし何も知らなかった!刀持ってこんなことになるって知ってたら、絶対倉庫なんて近寄らなかったよ!」
『ええ。話すと断られる可能性がありましたので』
「……!」
あたしにはもう、言い返す気力も残っていなかった。理不尽にも変な役目を負わされてしまったあたしが家に帰るには、どうやらもう、方法は1つだけしか残されていないようだった…
あたしは観念した。
「で…あたしは、どうしたらいいの」
涙を呑んで発したその言葉に、ウルは顔を輝かせた。ような感じがした。
『嬉しいです、星華!…そうです、あなたの使命は、歴史を変えようと目論む真犯人、その者を探し斬ることです。運命を変えられそうな者があらば、颯爽と現れそれを助ける。もちろん私も加勢いたします。貴女が私の力を必要とするとき、私は必ず現れ、貴女をお助けいたします』
「き、斬るって刀で?ズバッと?」
『ええ。華麗に。ズバリと』
物騒な言葉をウキウキ発するウルの顔を拝んで、その顔面にハイキックをかましたい。あたしはもう突っ込むこともできなかった。コイツがこう言う以上、そうするしかないのだろう…
『そして、星華。貴女に最初の仕事です。この近辺に、命を脅かされている者がおります。その者はまだ、死ぬ運命にありません。さあ星華、ゆきますよ。彼の者を救うのです』
「い、いきなり修羅場じゃない…!」
あたしは仕方なく立ち上がった。もう、やるしかないことは分かっていた。
「そいつはどこに?」
『先程貴女が踏みつぶした武士。長州藩士・桂小五郎です』
あ、あの人か…ものすごい形相でもがいていたのを思い出し、申し訳なくなった。ここはひとつ、彼を救ってあれをチャラにしてもらうとしよう。
「よし」
あたしは転がっていた刀を鞘に戻し、腰にぶち込んだ。これでさながら、浪士楢崎星華の出来上がりである。
最後に一言、ウルは言い残していった。
『信じています、星華。貴女ならば成し遂げられる』