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宵闇小話  作者: 吉野花色
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茨の奥のやわらかな場所

 あれは、いつの頃だっただろう。朝も夜もなく木蓮の咲き乱れる十季の箱庭の、青い水面に浮かぶ美しい東屋。あの場所にいつからか現れるようになった布張りの長椅子が私はお気に入りで、あの日もそこに寝そべり十季の膝に頭を預けていた。


 珍しく慌ただしい日々だったのを覚えている。そう、年に数えるほどしかない諸国との会合がよりにもよって朽ち果てで開催された時だ。当然ホストは十季で、となれば彼の姫君である私も必然的にこなさねばならない役割がある。


 姫君の仮面の強度については装着するようになって早数年、すでに鉄仮面の領域まで到達している自負があった。が、名実共に姫君でありながら仮面の下は変わらぬまま。性に合わない姫君ごっこに神経を擦り減らして来賓の見送りを終えた私は心底疲弊していたのだった。


 そうしてベッドに倒れ込みながら、十季の呼び声に誘われ箱庭へと。待ち受けていた十季に手を引かれるまま東屋へ足を踏み入れた。その間、これといって会話もない。ただ長椅子に腰を下ろした十季が〝おいで〟と目で呼ぶから、特に逆らうことなくその膝に頭を預ける。そうすれば彼は満足げに目を細めて、例によって私の長い髪で手遊びを始めた。


 頬の下には夜着のすべすべした布地越しに、決して柔らかくはない男の人の足の感触。それでも触れて、彼の匂いと気配が近くにあるというだけで気持ちがなだらかになっていくから不思議だ。ふ、と深く呼吸をすれば、十季の指が前髪をそっと額から払っていった。その馴染んだ感触に少しほっとした気分で、私はこの美しい光景をぼんやりと眺めている。


 透き通る青い水を揺らす、銀の魚。水面に時折すいと背びれが軌跡を描き、わずかに乱れたと思えば再び静かに凪ぐ。何処からか吹いた風に木蓮の花弁がひとひらふわりと枝を離れ、水の上で小さな白い船となり遠くの方へ流されていく。耳に届くのはかすかな水音と葉擦れ、時折漏らす互いの吐息だけ。


 ここは、彼の心の奥底。だからこの庭が静謐と秩序によって保たれ、穏やかに凪いでいると私はとても安堵した。同時に、この美しい心の持ち主をより一層大切に思う。――いつか、私の心にも彼を呼べるだろうか。今はまだちぐはぐで、自分でもしっくりときていない〝私の庭〟がいつか形になったなら。


 とろりと眠気が血の管を巡り始めるのに任せて目を閉じ、十季の膝に頬を擦りつけながら意識の片隅で願う。その願いの欠片が伝わったのだろうか。嬉しそうに十季が吐息で笑う気配が優しく降ってきて、ふわりと私を包み込んだ。




   ◆◆◆




 特別な日でもなかったというのに、あの日の木蓮は妙に落ち着かないでいたのを私は覚えている。血を介して伝わってくる彼女のそわそわとした気配に私まで落ち着かなくなって、けれど理由を尋ねても明確な答えを得ることはできなかった。それでも彼女が「大丈夫だから」と困ったように笑ったから、私は腑に落ちないまま一日を過ごし――そして明け方。


 結局眠りにつくまで彼女は落ち着かない様子で、むしろ眠りにつく間際が一番様子が可笑しかったように思う。だがいつものように彼女を腕の中に抱いて目を閉じ――何処か悪戯を企む子供のような声で〝呼ばれて〟ようやく、私は何が彼女の心を騒めかせていたのかを知ることができた。


 意識を引き寄せられる一瞬の空白のあと、目を開ければそこには穏やかな青空を背に悠々と枝葉を伸ばす山のような大樹。苔むした岩と濃い大地のにおい、鳥の羽ばたきとさえずり。――呼び声に意識を委ね辿り着いた、ここが彼女の箱庭なのか。そう理解すると同時に、心の中が甘やかな衝動で満たされる。


 ここは箱庭――彼女の心の奥深く。長らく血縁を持たずにいた私が、別の誰かの箱庭に招かれるのは当然これが初めてで。そもそも自身の箱庭へ誰かを招くのも初めてのことだったのだ。だが私にとって、木蓮を自分の箱庭へ迎えることは何よりも当然で自然のこと。


 しかし自分がこうして招かれることなど、思えば考えてもみなかったのだと思う。あの日、私は木蓮を闇へと引きずり込んだというのに――それでも彼女は私を責めずに受け入れてくれた。それだけで十分、いや、それ以上を望むなど酷く恐ろしいことのように感じていたのに。彼女の心に招き入れられて、彼女の心を知ることを許されて、言葉にならないほどの喜びを感じてしまう自分がいる。


 木蓮は大樹の根本に立って私を見ていた。その表情は私を呼んだ声とそっくり揃い、宝物を見せびらかして晴れやかに笑う子供のようだ。きっと一日、ここへ私を招くことを考えてどうにも落ち着かないでいたのだろう。あまりにも無邪気な彼女の笑顔に、私の眦まで緩んでくる。


 手招きする彼女の方へと落ち葉を踏んで歩いていけば、うねる木の根がちょうどいい具合に深くくぼんで小部屋のようになっていた。屋根代わり張られた日よけ布と、吊ってある今は火の入れられていない色硝子のランタン。落ち葉の積もったふかふかの地面には毛足の長いラグを敷いて大きなクッションがいくつも置いてある。


 木蓮に「早く」と急かされて靴を脱ぎ素足でラグを踏めば、足が柔らかい布地に沈み込んだ。見渡せば木の根には手頃な洞がいくつかあって、そこに本や飲み物が詰めてあるようらしい。根の間を自由に通り抜ける風は心地よく、甘い花や爽やかな緑のにおいを運んでくる。


「ようやく、十季が呼べた」


 ラグの上に腰を下ろしクッションにもたれて、すっかりくつろいでいる木蓮が不意に綻ぶ花のような笑顔を私に向けるから。ああ――どうしたらこの気持ちが彼女に伝わるだろうか。言葉を探し、このあたたかな箱庭で立ち尽くしてしまう私は酷く情けない顔をしているに違いない。それを恥ずべきと、以前の私ならば思っただろうに。


「おいでよ、十季」


 木蓮が微笑み「ほら」と自分の膝を軽く叩く――いつもの私がしているように。だから私は戸惑いを覚えつつも傍らに膝をつき、そっと彼女の膝に頭を預けてみる。柔らかく、温かい木蓮の感触。馴染んだ気配に心が緩んでいくのが分かる。


 そろりと、今は下ろしたままの私の前髪を木蓮の細い指が梳いた。優しく皮膚をくすぐったその感触は思いのほか気恥ずかしく――けれど結局抗うことはできずに、私は彼女の心を甘受した。

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