花よ、どうか甘やかに揺らして
朽ち果ての血門のひとつから程近い高級住宅街。ブロックやコンクリートで築かれたモダンな邸宅が立ち並ぶ町並みにも、日が暮れ家々に明かりが灯れば団欒の気配が満ちる。料亭「宵町屋」は、そんな町の一角に静かに佇んでいる。
宵闇烏御用達と所在こそ記憶していたが、まさか自分がここへ誰かを送迎する日がくるとは。世の中、本当に何が起こるか分からないもんだなあなんて。不意に訪れた異常事態を前に我が主は全身に緊張を漲らせあたふたしているというのに、柚木はのほほんと、呑気にそんなことを考えていた。
宵町屋は元々さる旧家の屋敷だった建物を改築した店だ。しかもここが料亭であると示すのは門の庇に吊るした屋号紋入りの提灯だけ。こぢんまりとしながら独特の雰囲気を滲ませる古めかしい日本家屋は、異質でありながら風景の調和を乱すことなく町並みに紛れ込んでいる。
以前昼のうちにルートを確認しようと辺りを流したことがあったが――吸血鬼のお偉いさん方が贔屓にするにしては随分と地味な、いや、これは最早少し立派なだけの家みたいじゃないか――自分は確か、そんな感想を抱いたはずだ。しかし日が沈み小屋根の乗った冠木門が開かれて、敷地の奥へと連なる石灯籠に火が入った今、その雰囲気は見事なまでにがらりと変わっていた。
門の奥から吹き寄せる風に、何か、招かれざる客を寄せつけないような気配が宿っている。それこそ用のない人間はそそくさと前を通り過ぎるしかなくなるような――つまりはそういう意味で、ここは吸血鬼にとって何かと面倒のないいい店ということなのだろう。
最も今まさに門の向こうへ消えていく十季殿下と木蓮姫については例え招かれざるとも一向意に介さず、自分の心赴くまま行きたいところへ行くのだろう。灯籠の光を受けて闇の中に浮かび上がる対の美しい男女。彼らの放つ存在感はそれほどに圧倒的で、誰もかれもの視線を一身に引き寄せる。
自分はといえば、そんな2人の後ろ姿をじっと見送る善様の姿を磨き上げられた愛車のドア横に立って眺めていた。
我が主――善様について何か述べよと言われたら、自分は笑いながら答えるだろう。劣等感や負い目という名の鎖で自身を雁字搦めにし、ぼんやりと日々を漂う、まるで迷子のような人、と。
善様は吸血鬼という化け物集団の中にあって〝ある意味で異質〟な人だ。自らの欲求に素直で貪欲。それが吸血鬼の常であるらしいのに、従者として時間を共にするようになってしばらく、自分は己の主が自身の要求や欲求を剥き出しにしたところを見たことがなかった。
根っからの気質故という訳でもなく、何も綺麗さっぱり欲求がない訳でもない。彼が笑うところも怒るところも自分は何度だって見てきた。――だが、その感情はいつだって何処か希薄で空虚だと感じていたのも事実。
多分、自分は今嬉しい――だから笑う。多分、自分は今腹立たしい――だから怒る。そうして自分の記憶に残る感情の残滓を手繰っているような、自分の目に映る主の姿は何時だってそんな風だった。
善様自身、自分が壊れかけているのを理解しているのだろう。気がつくと彼は人の円の中心からそっと距離をとり、自分でも何処へ立っていたらいいのか分からずに困ったように笑っている。だから随分と年かさで図体の大きいはずの主のことを、自分はどうにも迷子のようだと思ってしまう。――それが、つい昨日までのこと。
我が主の瞳に今日、小さな焔が生まれたのを見た。彼の眠っていた感情が再び芽吹く音がはっきりと聞こえてくるようだった。木蓮姫の側にいるだけで善様はくるくると表情を変え、心を揺さぶられ一喜一憂し、極めつけはあの〝ちょっとした事件〟だ。
自分も血化粧を目にすれば善様の二の舞なので、その光景を直視こそしていない。だが理性を飛ばした善様が木蓮姫の唇を食む艶めかしい音をBGMに「おや、まあ」と何とも年寄り臭い一言を心中呟き、何にせよ他人のラブシーンを注視ならぬ中聴するのもマナー違反かと自分はバックミラーから視線をそらした。
とはいえ我ながら優秀なこの目はすでに木蓮姫の細腰を普段の姿からは想像もできないほど情熱的に引き寄せた主の姿をしっかりと捉え記憶してしまっている。その光景を意識から追い出そうとして別の方向へ意識を向けようと試みた結果「口付けで目覚めるなんて、まるで童話の眠り姫みたいじゃないか」なんて感想が導き出されてしまって思わぬ二次災害を引き起こしたのはここだけの話だ。
そのあまりのミスキャストぶりに吹き出しそうになり、懸命に唇を噛み締めてしまったのも仕方のないことだろう。何せ今回の場合〝眠り姫〟は大型犬似の困り顔をした中年男で、方や〝王子〟は本物の美しいお姫様なのだから。本当に人生何が起こるか分からないものだ。
それでも――きっかけとなった一幕はあまりにも喜劇的だったけれど、我が主の心は今日、間違いなく再び動き出した。自分はそれを、ただ純粋に心から嬉しく思う。何せずっと気がかりだったのだ。衝動にかられ投げ捨てた命が地に落ち砕けたのを、拾い集めて繋いでくれた恩人。そんな彼の心もまた、ずっと壊れたままでいることが。
「役得でしたね、善様」
もうとっくに木蓮姫の姿は見えなくなっているというのに、じっと視線を門の奥へ注いでいる善様。その指があれ以来、時折無意識に唇をなぞっていることに本人は気付いていないらしい。吸血鬼になった時点でいい年をした大人で、それから随分長い時間を過ごしているはずなのに、どうにも純情な人だ。
目を細めからかいの言葉をかければ彼はしばらく逡巡して、ようやく己の従者が何のことを指しているのかに気付き反射的に顔をしかめた。けれど自身の失態を思い出し落ち込む方が勝ったらしい。善様は深く溜息をつき、大きな手のひらで口元を覆い隠す。
「ようやくお役目らしいお役目を頂けて、その矢先にこれだ……。全く嫌になる」
「善様らしくていいんじゃないですか」
茶化してやれば加減した強さで背中を叩かれた。それを大げさに痛がってみせれば彼は「そんなにやわじゃないだろうが」といつもみたく困ったように笑う。
「でも、よかったですね。あなたの能力を活かせる機会がようやく巡ってきた。お天道様の下じゃ、あなた殆ど無敵でしょ。それもお守りするのはあんなに美人なお姫様で。ほら、それこそ見初められれば逆玉ですよ」
冗談半分、でも半分は本心からの言葉だ。少々発想がオヤジ臭いかもしれないが、実際に自分は四十路間近のオヤジなのでご容赦頂きたい。そもそも同輩から蔑ろにされる姿を見てきた身からすれば、いっそあの面白いお姫様の寵愛を受けてしまえばいいのにと半ば本気で思っている。だが生真面目な我が主は従者の健気な思いも知らず、呆れたような目を向けてくるのだから報われない。
「柚木、姫様を邪な目で見るな……。本当に不敬が過ぎる」
「一番の蛮行に及んだ人に言われたくないですねえ」
「ぐっ……あれは……」
「はいはい、事故ですもんね。だから僕も言ったでしょ。役得でしたねって」
言葉を詰まらせる善様がもしも人間だったなら羞恥に顔を赤く染めていたことだろう。自分がからかって、彼が律義に反応を返して、これが我々主従にとってはお決まりのパターンというやつで。善様もこれが己の従者なりの気遣いであることは理解している。とはいえこのまま話を続ければ続けた分だけからかわれることも知っているから、やがて彼は悔しそうに口を噤むのもまたいつものことだった。
訪れた沈黙。車中に戻ることはせず、自分達は並んで車の側に立ったまま料亭の方を眺めていた。自分はぼんやりと、今頃十季殿下と木蓮姫が食べているだろう豪勢な料理を想像して羨ましく思ったりしていたのだが、ふと傍らの善様に視線を向ければ、きっとまた無意識なのだろう、彼は唇を親指の腹でそっと撫でている。
「善様」
「なんだ」
「いい方じゃないですか」
〝誰が〟なんて言わなくたって分かる。代わり映えのしない真っ暗な日々に突如飛び込んできた光のような姫君。確かに彼の姫君は十季殿下の手中の珠だが、しかし吸血鬼の辞書に貞節の字はない。自分の目にも、昼間の木蓮姫の様子に嫌悪は見えなかった。ならば、いっそ。善様はそんな意図をきちんと汲み取ったようで――しかし、彼は首を振る。
「そういうんじゃ、ないんだよな」
呟き、門の奥へと向けられた彼の目がさらに遠いところを見つめているのが分かる。その視線の先に何が見えているのか、それが分からないほど我々の付き合いは短くも浅くもない。だから自分も、それ以上言葉を重ねることはしなかった。
けれど善様が最後にぽつりと、多分本人も無意識のままに「多分」と小さな声で付け加えたから。自分は少しばかり驚いて、結局いつもみたいにからかうことはできないで、ただ「そうですか」と答えるに留める。
きっと、その声の小ささと頼りなさが今の彼の心のうちを表しているのだろう。それでも自分は確信していた。どんな形であれ、きっとあの美しく可笑しなお姫様は我が主の心を動かしていくだろう。彼女の存在ひとつ、口付けひとつがこんなにも彼の気持ちを揺さぶったように。
善様は何時の日か、彼の姫君を自らの行方と定めるだろうか。まだ出会ったばかりだというのに、そうなればいいと思う自分がいる。だってそうなれば、寄る辺なく思い出の海を漂っていた善様は再び自分の意思で進めるようになるだろう。そうしたら自分は彼の櫂にでもなって、彼が沈むまで共に行くだけだ。
吸血鬼なんて力の化け物の癖に妙に気が小さくて頼りない、けれど自分にとっては運命を委ねるに値する人だ。だから木蓮姫、この人を思う存分振り回してやって下さい。そうすれば迷子になる暇もなく、この人は一心にあなたを追いかけていくでしょうから。どうか、よろしくお願いしますよ。
今頃殿下と目が飛び出るような値段のする美味いものをにこにこ食べているだろう姫君の姿に、自分は隣の愛すべき主に悟られぬよう心の中でそっと頭を下げた。